第1話

文字数 1,508文字

 バンコクから車で何時間かかっただろうか、北の田舎町が私の目的地であった。空港には金の仏塔の向かいにクリスマスツリーが飾られていた。年明けには、入れ替わりのように別のグループが南のナコンシータマラットに向かうことになっている。タイという国は、南へ行くほど食べ物が辛いと聞いていたから、北の方に派遣されることが決まった時は内心ほっとしたものだ。
 中型のバンに揺られていると、自動車の販売代理店や電器屋が道に並んでいるのが見える。何だ、日本とそう変わらないなと思いながら車内に目を戻す。フロントガラスには二枚の写真が飾られている。右が前国王、左が今の国王だ。現国王に変わって少なくとも二年は経つだろうが、未だにかつての国王の威光は絶大なようだ。王妃と並べるのではないのだな、などと思いつつやはり何となく前国王の顔を眺めてしまう。私にしても馴染みがあるのは前王の方なのである。といっても、亡くなったときのニュースは記憶にあるが、功績を問われても答えられない程度だ。それなのに、なかなか「国王」として浮かぶ姿は改まらない。

―お顔立ち、だろうか。

威光という語を使うのが本当は躊躇われた。威といういかにも高いところに構えたような字が似合わない柔和な表情だった。話す内容はわからずとも、それがタイという国の表情として私の頭の中にあった。新国王と王妃を写した特大の看板が窓の外を通り過ぎていった。いつのまにか店はまばらになっていた。折しも日本でも新しい帝が即位した年だった。生前退位、というとってつけたような言葉が連日テレビに出ていた。生前、など他人が使う言葉ではないだろうと、居心地の悪い思いで画面を見ていたのを覚えている。黄櫨染御袍。日の光を反射して黄金に輝くのだという。日本人は太陽を赤で描くというが、古代人はもっとそのままの色を認識していたらしい。あるいは、この衣が考案された頃と今の日光は違ってみえるのだろうか。そればかりは万葉集を読んでもわからないが、いまこの時も、たしかに陽は燦々と照っている。
 舗装道路が少なくなってきた。排気ガスが薄くなり、見通しが随分良くなった。この一本道を行くらしい。右手に馬の群れが見えた。車酔いするだろうかとふと心配になった。それなら眠ってしまえばいいのだが、どうも今朝から眠れなかった。高速バスでも飛行機でも眠れず、かといって何をしているわけでもないので仕方がない。隣に聞こえないよう小さく息をつく。
 車が何度か大きくカーブを曲がり停まった。昼食をこの店でとるという。運転手と店員たちは知り合いらしく、親しげに声を掛け合っている。言葉のわからない私も、少し遅れて微笑を見せる。二階のテラス席につくと、悠々と流れる大河がすぐ下にあった。川幅は広いが、対岸に水色や薄桃色の屋根の平屋が並んでいるのがわかる。空も河も一体に、乳白色の空気に包まれているようだ。「メコン川だ」と運転手が言った。その時初めて、国境まで来たのだと知った。
「じゃあ、向こうはラオスですか」
国境の町、という概念こそあってもそれの実際をついに見たことがなかったから、眼下を流れる川がすなわち国境線であり、対岸はもう異国という風景にあっけにとられた。何より不思議なのは、国境の川から一メートルもない所でテーブルにつき鍋の火加減など見ているという長閑さだった。パクチーの匂いが流れ、風に任せて私は下流の方を見やった。

―両岸から舟を出したら、どちらの国から来た舟かわからなくなりそうだ。

熱い料理が運ばれてきた。「魚のフライ?」「ああ、この川でとれた」白身の魚に口をつけ、辛味がないのに安堵する。眼下の岸で小さな水飛沫が散っていた。
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