あふれる情報と心

文字数 1,810文字

現代が情報化社会と呼ばれるようになって久しい。
マスメディアにインターネット、SNS、そういったところから私達はありとあらゆる情報を入手し、使いこなしている。
情報が社会を回していると言っても過言でないいま、情報は私達の日常から切り離すことができない存在になっている。

私の情報源の9割以上はテレビとスマホで、特にスマホはググれば大抵のことはすぐに調べられるので、仕事でもプライベートでも大変重宝している。
スマホに乗り換えること8年、スマホの便利さにどっぷりハマっている、かと思いきや、最近密かにガラケーに戻りたいと思うようになっている。
メールと電話しか使えなかったあのシンプルさがなぜか無性に懐かしく、もはや憧憬すら感じるようになってしまっている。
そう考えると、スマホはガラケーより重い。
スマホはインターネットやSNSが使える分、情報量が多い。いや、多すぎる。
便利だとありがたがる一方で、私はスマホの存在を心のどこかでうっとうしく思っている気がする。

情報は玉石混淆で、間違っている情報やフェイクニュースも多く存在しているが、生活をより快適にしてくれる情報も数多くある。
それは十分承知しているし、良い情報によって生活をより豊かにできたらそれは素晴らしいことだと思う。
しかし、外から入ってくる情報は自分の心の声を聞きとりにくくする。
「自分はどうしたいのか」
「自分はなにを感じていて、それをどう考えているのか」
そういったことをささやく自分の心の声、それは言葉で出てくることもあるだろうし、感情や感覚、直感として顕れることもあるだろう。
いずれにせよ、それらは目に見えないものとして存在している。
自ずと目に見える物質とは違い、それら目に見えないものは、自分から心の“眼”を向けようとしない限り“見えない”。
外から次々と入ってくる情報に目を奪われていたら、自分の心が見えにくくなるのは道理である。

私達は自分の心の眼を通して世界を見ている。
身体の器官としての目や脳が見ているのではない。
目に映っていても、心が認識していなければそれは見えていないも同じである。
そう考えると、心の眼は私達の世界の起点であるといえる。
では、心の眼が世界の起点であるとするならば、心が発する声とは何なのか。
先ほど、心の声は言葉や感情として顕れると言った。
心の眼に映る世界はその時々の考えや感情で見え方が変化する。
例えば、いつもは綺麗だと思っている景色が、落ち込んでいる時はその景色が色褪せて見えることがある。
「色めがねで見る」という言葉があるが、感情はその“色”にあたる。
なら、心の声とはつまり色めがねということか、と考えるのは少々早計である。
心の声にはもうひとつ重要な役割がある。
それは道標、道しるべとしての役割である。
道しるべといっても、それは価値観であったり、何かのサインや導きであったり、時には心の支えであったりと形は様々である。
しかし、これらに共通しているのはそれらが世界と向き合う時の“指針”となっていることである。
私達は指針をもとに世界と対峙していく。
心に映った世界は指針に従って世界を変える。
これはさっきの色めがねの色と働きがとても似ている。
つまり、“指針”は“色”として顕れる。
そして、“色”とは見え方であり、“指針”なのである。

心はひとつの内的現実である。
自分という現実は心にこそ顕れる。
“色”や“指針”はその自分という現実そのものだ。
心が見えていなければ、実は目の前の現実も自分も、何も見えていないも同じなのである。
心に目を向けよ、心を大事にせよ、
古今東西の先人達が代々現在にいたるまで口酸っぱくこれを言ってきたのにはこういう訳があるのではないだろうか。

心という内的現実の重要性に比べたら、外の世界の情報など取るに足らないものである。
心からしたら、眼を曇らせ、色を濁らせる情報はノイズでしかない。
目に見えるものばかりを見ていては駄目なのである。
情報がいつでもどこでも手軽に手に入るようになったことは、私達の生活を便利にした代わりに、心の眼を、耳をより不自由にしたのかもしれない。
私達は、心という存在を、その尊さをあまりにも忘れている。
まずは心を観なくてはならない。
外に目を向けるのはそれからでも遅くはないはずである。

こんなことを考えて、私もこのところ外向き過ぎたかなと反省した次第である。
やっぱりいまのスマホが壊れたらガラケーに戻ろうか。
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