カメへの憧れ

文字数 3,495文字

大学にいた時分、少々変わった授業を受けたことがある。
その日は東京から来た特別講師の先生が授業をすることになっていた。
先生といってもその方は大学の教授ではなく、元は有名な出版社で小林秀雄全集の編集をなさっていたそうで、授業の内容も小林が遺した著作に関するものであった。

授業時間も半分を経過したあたりで、先生はどれでもいいから財布から硬貨を1枚取り出すようにとおっしゃった。

「これから1分間、皆さんが取り出した硬貨をじっと眺めてください。
隣の人とおしゃべりをしてはいけません。
心の中においてもできるだけ言葉を発しないようにしてください。
1分の間何も考えずに、ただその硬貨を眺めてみてください。」

私は言われた通りにして、財布から取り出した100円玉をじっと眺めてみた。

100円玉が目に入った瞬間、私はちょっと失敗したと思った。
私は100円玉のデザインがあまり好きではなかった。
特に裏面の銀色に桜という組み合わせに昔から引っかかっていた。
桜といえば春の象徴、暖かくなりつつある季節の訪れを私達に知らせる花であるはずなのに、なぜ冷たい銀色につくられているのか。
銀色のせいで100円玉の桜からはあまり温かみを感じられない。
イメージが真逆のもの同士を無理やり掛け合わせているような感じがする。
その印象はこの時になっても変わらずに持っていて、やっぱり500円玉にしておけばよかったなんて思ったのだが、先生がすでに時間を測りはじめてしまっていたので、仕方なくそのまま100円玉を眺めることにした。

鈍く光る銀色の桜をしばらく眺めていると、その銀色が鋳物の銀色であることに気づいた。
100円玉は金属でできているのだからそんなの当たり前なのだが、それまでただ「銀色」と思っていたものが、鋳物特有の色を持っていることに気がついたのである。
そう思って改めて桜を眺めてみると、不思議なことに、100円玉の銀色が無意味に銀色なのではないような気がしてきた。
その時、ふいに頭のなかに日本刀のイメージが浮かんだ。
私は、かつて桜は美しく散る命の比喩として使われていたことを思い出した。
私はなるほどと思った。そして気づいた。
あの桜は花としての桜ではなく、日本古来からある武士道精神の象徴としての桜なのだ。
私は『葉隠』にある有名な一節を思い出した。

「武士道とは、死ぬことと見つけたり」

生に死を、死に生を見る。
100円玉の桜が表しているのは日本人が古来より受け継いできた美意識そのものなのだ。
いままで“生”の部分しか見えていなかった桜に急に影が射した気がした。
しかし、この時私ははじめて100円玉の桜を美しいと思った。

ちょうどここで1分が経った。

断っておくが、私はこの時心のなかで言葉を発しないよう最大限注意を払っている。
先の文章は当時の言語的記憶の再生ではなく、視覚的・感覚的記憶をここで言語化したものである。
1分間の記憶にしてはずいぶん長い文章を書いているように思われるかもしれないが、ものを眺めるだけの1分間は私達が想像している以上に長い。
時間にしてはたった1分の間だけにも、100円玉は驚くほどたくさんのことを私に語ってくれたのである。

このようにして相手(見る対象)をじっと見るところから想像力を働かせる行為を、先生は「かむかふ(かむかう)」とおっしゃった。
「かむかふ」は「考える」の語源である。
最初の「か」は発語(言葉を発音するための語)、「む」は「身」、「かふ」は「交ふ(交う)」、語全体では「自身が身をもって相手と交わる」という意味を持つ。
相手と交わるということは、その人(そのもの)の身になってみるということ、自他の垣根を越えて相手と心を通わせようとすることである。
それは真のコミュニケーションと言えるものであり、それこそが「考える」という行為の根本にあるべきものである。
私はこの時、物事に向き合う時にあるべき姿勢を先生から教わった。

あれから5年ほど経ったが、100円玉が見せてくれた景色と、対峙した時の濃密な時間をいまだに忘れることができない。
いまでもあの時の授業を時々思い返すことがある。
ただ、思い返す時というのは、大抵日常に物足りなさを感じている時である。
普段生活していると特別なことでもない限り何かをじっくり眺めるということはしない。
やることはだいたいパターン化しているし、何か見るにしてもだいたいはスマホかテレビで、それらの画面は常に流したり流れたりするものだから、1つの画面を時間をかけて眺めるということは意識的に一時停止でもしないとできない。
そんな風に過ごしていると、目の前のことも、時間も、何もかもが手から滑り落ちていくような感覚に襲われる。
感じるべきものを十分に感じきれていないような、どこか消化不良になっているような気がしてくるのだ。
そう考えると、私はすごく口惜しくなる。
きっといつも日常的に触れているものも、じっと向き合ってみたらあの100円玉のように豊かな世界を見せてくれるのだろう。
この世界にはそれぞれのものが持つ豊かな世界が数えきれないほど存在していて、私の残りせいぜい60~70年くらいの人生では、それらを味わい尽くすことは到底できない。
しかし、それでも生きている限りはこの世界を思いっきり味わいたい。
世界をこの身をもって“考え”尽くしたいという願いは、私の身に余りすぎているのだろうか。

そう願う割には、私は日常を送るのにあまりに忙しくしすぎているような気がする。
私の日常に限らず、現代という時代の流れは速い。
情報の流れも、技術の進歩も、まともに見ると毎日が目まぐるしい。
もし人類の心持ちをイソップ物語のウサギとカメに分けることができたとしたら、現代に生きている人々のなかには多かれ少なかれウサギがいる。
もとからウサギである、というよりは、そうならなければという努力の結果、ウサギになっているような感じがする。
グローバル化、人類全体の均一化、画一化が進む現代ではそうしなければ時流においてけぼりにされてしまう。
だから、自分の周りを常に確認しながら、なんとか速く進まなければと前へ前へと進んで行こうとする。
イソップのウサギと比べたら、現代のウサギ達はだいぶ必死の形相をしている。
しかし、ウサギも長くは続かない。
普段歩くスピードが速くなると、日常の時間の流れも速くなる。
速く流れる日常はいつの間にやら私達を追い越して呑み込むほどになり、気づいたら速すぎる日常に取り残されて、自分のやっていることがわからなくなってくる。
そんな自分が馬鹿馬鹿しくなってもうなにもかもどうでもいいやって全部投げ出してしまうか、頑張ろうにも頑張りきれなくなって倒れてしまうか、いずれにしろウサギ状態はどこかで限界がくる。
現に、もうすでに社会のそこかしこで限界が来ている。
社会的転換点の原因となった歪みの裏には、近現代的ウサギ根性も少なからずあったはずである。
心のどこかでそれをわかりきっている私達は、本当は自分がウサギであることに飽き飽きしている。
昨今の価値観の大転換はもとはこういうところから来ているのではないだろうか。

これまでの在り方が飽きられてきているいま、真に憧れの的になっているのは実はカメの方である。
カメはゆっくりだ。
先を行くウサギに比べたらちっとも前に進んでいない。
速さだけを見たら、誰もがウサギの方が優れていると言うだろう。
だが、カメはただのろいのではない。
ゆっくりな分、彼には自分を取り巻く世界がよく見えている。
その世界に魅力されているカメはただひたすら我が道を行く。
周りの視線なんか彼の眼中にはない。彼にそんな暇はないからだ。
カメは周りのもの達と心を通わせながら、豊かな世界を味わい、噛みしめながら歩いている。
そして歩きながら、この世界の不思議について考えている。
心という内的現実、言葉にならない言葉、世界と心を通わせようとした先にある世界、
そういったものに、彼は彼のすべてをもって応えようとしている。
そんなカメに、世界もきっとあの100円玉と同じようにいろんなことを打ち明けているに違いない。
こうなってしまえば、ウサギに先を越されていようが、ウサギを追い抜いていようが、そんなことはカメには関係ない。
それどころか、ゴールに着くという目的すら彼にとっては二の次なのかもしれない。
カメはゆっくりのスピードでしか歩けなかったとしても、世界との無限的なつながりを感じていることができればそれで十分なのである。
これ以上豊かな人生ってあるだろうか。

私はそんなカメがうらやましい。

私はカメになりたい。

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