3、サムイ島

文字数 3,371文字

「あっつ、サムイなのにあっつ」
「え、そのダジャレあと何回言えば気が済むの?」
「誠二くん、おっさんと付き合うってのはこういうことなんよ」
「介護じゃん」
 ホテルのプライベートビーチのデッキチェアに横になりながら、本を読む。亮ちゃんはさっきまでスマホゲームを熱心にしていたのに、飽きてしまったみたい。
「なぁなぁ、海行かない?」
「さっき見たけど、赤いフラッグ立ってたよ。波が高すぎるんだって」
「世知辛いなぁ」
 渋々といった様子で、亮ちゃんは目の前のプールに飛び込んだ。本当は一緒に泳げばいいんだけど、タイに来てから毎日泳いでいるのでちょっと疲れた。本を閉じて目をつむると、バトラーがパラソルの位置を変えて日光を遮ってくれた。このままお昼寝しちゃお。

 思いのほか眠ってしまったらしく、目を覚ますと亮ちゃんはいなくなっていた。太陽のまぶしさに耐えながら、スマホに手を伸ばす。
『ヨガのセッションに参加してくる』
 それは、ホテルで提供される無料のアクティビティのひとつだった。了解、と返してからゆっくりと体を起こす。もともと夕方のタイ料理教室にも参加すると言っていたので、今日は夜までひとりの時間になってしまった。バトラーに新しいタオルをもらい、プールサイドをあとにした。

「あの、誠二さんですか?」
 指定されたノラ・ビーチリゾートのロビーに座っていると、俺と同い年くらいの男が話しかけてきた。さっきゲイのマッチングアプリで待ち合わせした男だ。
「そうです、えっと……」
「ジュンです。お疲れ様です。ん? 違うか」
 ちょっと緊張した感じではにかむジュン君は、画像で見るよりもイモっぽいけど、かえって好印象だった。
「誠二です。すんません、急に声かけて。ちょっと時間ができたから」
「俺の方こそ、わざわざホテルに来てもらって申し訳ない。なんか、サムイまで来て日本の人とリアルするなんて変な感じですね」
「それは確かに……でも、東京で会うのとはまた違って面白いかも」
「そうですね! じゃあ、どうします? お茶でもする? アレなら、俺の部屋でもいいですし……」
「……そうしたら、ビーチでも行きません? 俺、まだこっち側のビーチに行ってなくて。トウモロコシ食べたいし」
 いや、食べたくないけどね別に。でも、なんかわざわざタイで会うのに、部屋に行ってヤるっていうのもなんか違わない?
「いいね、じゃあ行きましょう」
 ホテルのロビーフロアを突っ切って、そのままビーチに出た。
 チャウエン・ビーチは、そんなにきれいな海じゃなかった。でも、たくさんの欧米人が思い思いのスタイルでビーチをエンジョイする雰囲気は嫌いじゃない。
 ジュン君とシンハービールを買って砂の上に並んで腰を下ろす。たちまち、全身を日よけグッズで防備した物売りのおばさんが話しかけてきた。4travelで見た通りだ、なぜか焼きトウモロコシを売ってくる。
「誠二くん、食べたいって言ってたよね? Two, please」
「ヒャクヨンジュ、バーツ、だヨ」
 支払いを済ませ、またはにかみ顔をしながら、俺にトウモロコシを渡してくれる。会話の中で同い年だとわかって、職場もそこそこ近いと判明してから、急に距離が縮まった。
「彼氏さんは? 今何してるの?」
「なんか、ホテルのヨガ教室行ってて、そのあと料理教室行くって」
「え、なんかすごいマダム感じゃない?」
「結構年の差あるから……ジュン君のところは?」
「うちの彼氏は、買い物行くって言ってたけど……まあ、たぶんコッチのマッサージ行ってるんだと思う」
「え、すご。カップルで来てるのに」
「うん、うち、お互い外で済ます感じだから」
 今夜は外食で、みたいな感じで言われると面食らってしまう。でも、あまりにもジュン君に悲壮感がないので、なんだかそれはそれでうらやましい気がしなくもない。
「でも、嫌だったりしないの?」
「うーん、わかんないけど……誠二くんは、よく海外旅行とか行くの?」
 この話は終わりにしてくれ、と言わんばかりに満面の笑みでシャッターを下ろされる。あーはいはい。その後は、今までどこを旅行したとか、日本の温泉だとどこがいいとかそんな話をした。
 結局、夕方近くまでビーチで話し込んでいた。
「そろそろディナーの時間だから、帰らないと」
「あ、俺もだ……誠二くん、あの、よかったら日本でも会いたいな」
 ジュン君の左手の小指が、砂の上に置かれた俺の右手の甲に触れた。薬指には、五年前にニューヨークで買ったペアリングが鈍く光っている。
「うん、俺もまた会いたいな」
 ホテルに戻るタクシーが高台を登りきると、見事な夕日が眼下の海を橙色に染めてた。八年前、まだ亮ちゃんと付き合う前、二人で逃避行みたいに行ったバリのジンバランビーチの夕焼けを思い出す。あんなにきれいな夕焼けを、俺はそれまでもそのあとも見たことがなくて、同時に、あんなに誰かをいとしく思って、明日から先のことなんてどうでもよくて、何もかもから逃げ出したくなったのも初めてだった。
 亮ちゃんは、きっと本当にヨガ教室に行っていると思う。ジュン君の彼氏とは違う。違う? 何がどう違うんだろう。何年前からかなぁ、一緒のベッドで眠らなくなったのは。それをきっかけに、段々と俺は、亮ちゃんへの気持ちを正直に亮ちゃんに伝えられなくなった。亮ちゃんをいとしいと思う、その気持ちは本当だと思う。だけど、それは一緒にいる理由になるのかな。俺が亮ちゃんを、そして亮ちゃんが俺をつなぎとめるものは何なのだろう。
 関係は変化するものだと思う。絶えず形と肌触りを変え、心の輪郭をザラザラと磨き、傷つける。俺の気持ちは、今もずっと、あのバリのジンバランビーチにあるし、ブルックリンブリッジにあるし、一緒に願いを空に飛ばした台湾のランタンフェスティバルや、朝焼けのモン・サン・ミッシェルを望んだホテルのバルコニーにあるよ。なのに。
 魂が目に見えたらいい。俺の魂と亮ちゃんの魂が、たしかに絡み合ってることが見えればいい。そしてそのまま永遠に離れず、地面に吸い込まれて地球とひとつになればいい。うわ、なんだこの考え方、カルトかよ。

 唇に何かが触れる感覚に、びっくりして目を覚ます。
「おはよ。目覚めのキッスよ」
 窓の外、まだ薄暗い空を背景に、亮ちゃんが笑っている。寝ぐせで髪の毛ぼうぼう。昨日は遅くまで二人でプールバーでビールをあおっていたせいか、顔はパンパン。きっと俺もそう。
「朝のお散歩にでも行きませんか?」
「いいよ、行こ」
 なんで、このひどいコンディションのおっさんでも、こんなに好きなんだろう。好きって何?
 点在するヴィラの間を縫う道を、ゆっくり歩いていく。日本とはまた違う、じめっとしつつもどこか冷たさを帯びた空気をたくさん吸い込むと、肺の形がわかる気がした。高くそびえるヤシの木、遠くに見える海、ゆっくり地面を横断するカブトムシ。
「手ぇ、つなぐ?」
「どうしたの、急に。亮ちゃんいつもそーゆーのしないのに」
「……付き合ってすぐのころ、ニューヨーク行って橋渡ったじゃん?」
「ブルックリンブリッジ?」
「そうそう。あの時、俺、誠二にチューしてん、公衆の面前で。覚えてる?」
「写真撮った時でしょ? めっちゃ覚えてるよ」
「今、急にそれ思い出してん。だから、誠二に触れたくてしゃーない」
 ほら、と伸ばされた亮ちゃんの手を取る。ぎゅっと力を込めると、同じ強さで握り返される。手なんてつないだの、久しぶりかも。亮ちゃんの指の付け根のマメが、ひどく懐かしい。
 亮ちゃんが、俺の頭の後ろの方をまぶしそうに見上げた。黒みがかっていた瞳に光が差し込んで、本当は亮ちゃんの瞳が、透き通ったチョコレート色なのだと知る。
「朝日や」
 少しもやのかかった空気に、太陽の光が絹の帯のように伸びて、亮ちゃんと俺を照らす。文字通りきらきらと輝く世界の中、この世にお互いしかいないみたいで、実際にそうだった。
「……超きれい」
「誠二のほうがきれいやで」
「当たり前じゃん」
 またここに、心の一部を縫い付けよう。今までと同じように。
「泣いてんの?」
「あくびだし」
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