1、バリ島

文字数 2,808文字

 CHANCEは俺がずっとつけ続けてきた香水で、いつも海外に発つときに免税店で購入すると決めている。そんなにたくさん行くわけではないので、毎回一〇〇ミリリットル。一日ツープッシュしかつけていないのに、一年ちょっとですぐなくなってしまう。だから毎年最低一回は海外旅行に行きたいし、今回も絶対に買う。
 金曜夜の羽田空港国際線ターミナルは、希望に溢れていると思わない? 出国、旅立ち、離陸、翼、Departures、空の旅……ほら、未来しかない。
「夕飯は? 食べてきたん?」
 仕事帰り、スーツのまま合流した亮介さんは、いつもに増して素敵。
「バスの中でパン食べたよ。亮介さんは?」
「俺はなんも。機内食まで耐えられへんし、なんか食べていい?」
「うん、おれも食べる」
「うどん食べよ、つるとんたん行こ」
「いいよー」
 亮介さんは関西人なので、うどんがとても好き。初めて会った時も、うどん屋さんに行こうと案内された。意味わかんねえ男だなと思ったけど、思っていたうどん屋さんとは違い、高級感のある店構えに一気に緊張したのを覚えてる。うどんを中心に設計された小鉢と焼き魚、天ぷらなんかが目の前に出されるたびに、おいしさとラグジュアリー感に、こんなところに連れてきてもらえる自分は特別なのではないかと錯覚した。三八歳男性管理職、こうでなくちゃね、と。
 チェックインを済ませ、エスカレーターでレストランフロアへ移動する。手すりに置いた俺の左手に、後ろに立つ亮介さんの左手がかすかに触れる。振り返ると、亮介さんは垂れ下がった目じりをさらに下げて笑った。
 ホテルに着いたのは、インドネシア時間で朝九時。市街地から離れたヌサドゥア地区にある、「ザ・ムリア」。ロビーはオープンエアになっていて、入り口を抜けるとすぐ向こう側に、青い空と豪華なプール、そしてビーチが広がっていた。ヤバ絶景。
 亮介さんがチェックインを済ませている間に、スマホでそこら中の写真を撮る。ホテルのWi-Fiもすぐにゲットできたので、LINEを起動し、彼氏に海の写真とメッセージを送った。もちろん、亮介さんと来てることなんて言っていない。友達三人と女子会設定だ。
 バトラーの運転するバギーで、少し離れたヴィラに向かう。バリ風のドアを開くと、白い砂でできた遊歩道がヴィラの入口へ延びていた。ヴィラの奥には、十人座れそうなソファの置かれたラナイと、十メートルほどのプライベートプール。明日の夜はたしか、このラナイでバーベキューをやる予定だったはず。高級感をいやというほど煮詰めた情報量に、頭が熱っぽくなる。いつもはオフィスでひたすらメール打ちまくる日々なのに、今ここにいるなんてすごい。
 バトラーは一通りの説明を終えると出ていった。ラナイのソファに座って、湿った空気を感じながらプールに反射する太陽を見ていると、隣に亮介さんが座った。
「すごいところだね……こんなところ来るの初めて」
「な? だから言うてん、来ぉへんと後悔するって」
「うん。ありがとう」
 もともと、亮介さんは彼氏さんとこの旅行に来る予定だった。向こうが急に来られなくなったとのことで、俺を誘ったのだ。浮気で海外旅行はさすがにやりすぎかもと思ったけど、今の俺は結構な勢いで亮介さんにハマっているので、急遽有休をとって来てしまった。あと、お金も航空券だけでいいって言うことで、せっかくだしね。
 亮介さんは俺の肩に腕を回し、首筋に顔をうずめて鎖骨にキスした。
「これ、誠二のにおい……なんの香水?」
「CHANCEだよ、シャネルのCHANCE」
「あー、羽田で買うてたやつか。ええにおい、俺好きだわ」
「俺は亮介さんが好きだよ?」
「よう言うわ。彼氏ラブなくせに」
「それはお互い様じゃん」
「せやで。でも、誠二のことも二番目に愛しとる」
 未来のない愛の言葉には、責任がない。でも、だからいい。目の前だけに没頭できる。
「疲れたなぁ。どうしよ、寝るか? それとも海行くか?」
「……せっかくだし、ここで泳げば?」
「せやんなぁ。じゃっ」
 にやりと笑うと、亮介さんは音速で全裸になった。
「おっさきー」
 小学生のように、嘘みたいな高さまでジャンプしてプールに飛び込む。水しぶきがプリズムとなって、虹色の光を俺に浴びさせる。すぐに俺も服を全部脱いで、プールに飛び込んだ。
「つめたっ!」
「ほら、おいで、あっためたるわ」
 軽々とした動作で、亮介さんは俺の腰を抱き寄せる。浮いていた足で、そのまま亮介さんの腰をカニばさみした。
「水の中だと、誠二の身体でも持てる」
「小さいもんね、亮介さん」
「だまれ」
 そのまま、むさぼるようにキスされる。夢中になって亮介さんの舌を吸っていると、同じタイミングで、お互いの身体をお互いの勃起が押し上げた。
「ギンギンやん」
「亮介さんもね」
「俺のはただの疲れマラ」
 亮介さんの右手が、俺のケツまで下りてくる。人差し指が、ぐっとアナルに押し込まれる。
「え、ちょっ……ここで?」
「……さっきウォシュレットで洗ってたやん。知ってんねんで」
 バレてた。
「誠二はエッチやなぁ。めっちゃかわいい」
 水中で指を入れられると、いつもと違う体温と感触に余計感じてしまう。いや、シチュエーションのせいか。
「んっ、水、入っちゃうっ」
「んじゃぁ、栓したるわ」
 指が抜かれて、代わりに亮介さんの硬いのが無理やり押し込まれる。痛いけど、いやじゃない、この感覚をなんと表現すればいいんだろう。満足感とも違う。しかも生だし、きっとこのまま中で出されるし、プールの水も入ってきてお腹壊す。あとで絶対後悔するのに、それでもむしろ、喜んで迎え入れてしまう。罪も痛みも裏切りも、全部いけないことって教わってきた。なのになんで大人になると、それらはイコールではなくなるんだろう。

 せっかくなのでベタにジンバランビーチに繰り出した。サンセットを見ながら、シーフード料理を食べられる、ガイドブックにも必ず載ってるスポットだ。
 砂浜に整然と置かれたテーブルセットは、座ると身体がちょうどビーチに面した形になる。後方の市場で選んだエビや魚を、好みの味付けで料理してくれる。
「うーん、値段の割にはうまい」
 手づかみでエビの塩焼きを食べる亮介さんを、かわいいと思う。目の前には、ラベンダーとマンダリンを溶かしたような、淡く扇情的な夕暮れの空。コーヒーに垂らしたミルクのように、ランダムに広がる雲に橙がにじむ。穏やかな波と黄昏。こんなに素敵な景色を、俺は彼氏ではなく、亮介さんと見ている。エビをむさぼりながら、心の奥底ジワっとしみこむ亮介さんへのいとしさを感じながら。
「……なんで、日本で見るよりきれいなんやろ」
「ね。彼氏にも、見せてあげたいな」
「せやんなぁ、ホンマ」
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