5、ウベア

文字数 2,656文字

 天国に一番近い島。それが、ニューカレドニアのウベアの通称。昔、原田知世主演で映画化されたらしい。
「すげ~やべ~マジですごい。なんにも言葉でない」
 目の前に広がる海は遠浅で、小麦色の海原の向こうに、嘘みたいなエメラルドグリーンが広がっている。
「ね。色々リゾート行ったけど、ここが一番透明度高いかもしれない」
「誠二さん、ありがとう、連れてきてくれて。俺すごいうれしい」
 耕太郎が満面の笑みを俺に向ける。耕太郎は恐ろしく語彙が少なくて、でもそこがわかりやすい若さに感じられて、かわいかった。
「あ、見て見て、蝶々! めっちゃ蝶々飛んでる!」
 指に蝶を止めたいのか、耕太郎は人差し指をフックのように曲げて空に向けていた。ビーチにはところどころにハイビスカスも咲いていて、なるほど本当に天国に一番近いのかもしれない。
「でも、本当によかったの? 俺なんて連れてきてもらって」
「当たり前だろ。耕太郎とだから来たかったんだよ」
 といいつつ、本当はジュンが来れなくなってしまったので、急遽お声掛けしたのだった。
 ウベアには、リゾートホテルが一つしかない。「パラディ・トゥ・ウベア」。目の前の砂浜は文字通りプライベートビーチで、白い砂浜がまぶしい。何一つ余計なもののない、完璧な景色。でも、俺はここ以外にも完璧な風景をいくつも知っていた。
「ねえ誠二さん、泳ごうよ」
「うん、それもいいけど……俺は部屋に戻って、耕太郎とイチャイチャしたいけどな」
 耕太郎の中で二回果てたあと、海で少しだけ泳いでディナーに向かう。ドレスコードがあるので、ドレスシャツを着こむ。耕太郎を見ると、ちょうど香水を振っているところだった。
「あ……」
 この香りは、シャネルのCHANCE。昔、俺の匂いだった。
「どうしたの?」
「いや、懐かしい匂いがしたから」
「CHANCE?」
「うん……四、五年前までは付けてたんだよ、俺も」
「今は?」
「何もつけてない……あんなに好きだったのに」
「じゃあ、貸してあげる」
 言いながら、俺の返事も待たずに耕太郎は俺のうなじにCHANCEをワンプッシュかけた。意識が、急に脳の中心に、まるで蟻地獄のように吸い込まれる。かつて見たいろんな景色がめぐっていく感覚。あの日もあの時も、時系列もなくそれぞれの光景が目の前を通り過ぎていく。いろんなところに、その時の俺がいる。さわやかで甘い、でも奥の方にはドロドロとしたねちっこさの残る、この香りをまといながら。そこにいるのはいつの俺だろう。めちゃくちゃ若い。水着姿でプールサイドで読書をしている。ああ、サムイ島行ったときか。この時の選択がよくなかった? 面倒くさがらないで一緒に泳いでいればよかった? 一緒にヨガすればよかった? ニューヨークはクリスマスに行くべきだったのか、もしくは俺がステーキ全部食べればよかったのか、バリ島にはこそこそと浮気なんかじゃなくて堂々と誰のものでもない状態で行けばよかった? 多少寝つきが悪くても同じベッドで寝ればよかったのかもしれないし、あっちの望み通りに猫飼えばよかったかもしれないし、栄転にうつつなんて抜かして仙台転勤なんてしなければよかったのかもしれないし、あの日コーヒーこぼさなければ手を洗う必要もなくてだから指輪だってなくさなかったかもしれないし、久々の再開だからって張り切って箱根の旅館なんて予約しなけりゃ噴火の影響でキャンセルになることなんてなかったかもしれないし、あっちのお母さんが亡くなったときに変な遠慮とか意地なんてかなぐり捨ててお葬式に行けばよかったかもしれないし、あの夜飲みの席だからって電話スルーしないでちゃんと出て話せばよかったかもしれない。
 でも、全部違う選択をしていても、結局はこの今にたどり着いていそうな気もする。

 ニューカレドニアの旅は、驚くほどスムーズに終了した。若い若いと思っていた耕太郎は、ただ語彙が少ないだけで、気遣いや感覚は同年代の子たちよりも成熟しており、一緒にいて居心地がよかった。自分がこのくらいの年だったころ、と考えると頭が下がる。
「どうもありがとう誠二さん。お疲れ様でした」
「うん、耕太郎も。来てくれてありがとう」
 イミグレを通り、スーツケースが出てくるのを待ちながらお互いに頭を下げた。
 荷物をピックアップしてから、耕太郎のリクエストで展望デッキへ向かった。まだ早い時間だというのに、デッキにはたくさんの見物客がいる。デッキの端の方に移動し、ウッドベンチに並んで腰掛けた。
「超寒い、東京」
 耕太郎の吐く息が白い。冬の東京の空は南国と違ってどこか白んでいて、古いガラス瓶の底から覗いているみたいだ。
「日本が正月真っ只中ってこと、忘れてたね」
「うん。帰ったらガキ使見ようっと」
 言いながら、耕太郎が俺の右腿に、すごく自然な動作で手のひらを乗せた。その手が予想よりも冷たくて、俺も手を重ね、薬指の付け根をそっと撫でた。耕太郎はくるっと手首を返し、指を絡めて握り返してきた。
「あったかい、誠二さんの手」
「俺の体温、全部持ってっていいよ」
「みーんな写真撮ってるね、飛行機の」
「ああいうのなんて言うんだろう、撮り鉄? いや、それは鉄道マニアか」
「っていうかなんで飛び立つところばっかり撮るの?」
「未来志向だからなぁ、人間はみんな」
「どういう意味?」
「なんていうか、離陸って未来って感じがするじゃん。旅立ちっていうか、希望に向かっているというか」
「そう? だったら、着陸の方がもっと未来じゃない? 行って帰ってきてるんだから」
「たしかに」
「変なのー」

 機内で爆睡したせいで機内食を食べ損ねていたので、出国ロビーの上にあるレストランフロアを見て回る。
「あれ、ここつるとんたんなかったっけ」
「つるとんたんって何? タン塩?」
「いや、うどん屋なんだけど……潰れたか」
「あ、あっちに蕎麦屋あるよ。うどんと蕎麦って似てるからそっちにする?」
「あ、いや……そうだね、蕎麦でいっか」
「名前書いてくる!」
 耕太郎は小走りに、蕎麦屋に向かっていく。ぴょんぴょん上下するその背中に、頬が緩む。耕太郎、君はこれから俺と付き合うのかな。いつか終わりが来るかもしれないけれど、それまででもいいなら、幸せにするよ。かつて俺がもらった、世界で一番幸福だった気持ちを、全部君にも選んで欲しいよ。
 ねえ、これでよかったんだよね、亮ちゃん。
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