(三・八)ラヴ子十歳(その5)・祖父の死

文字数 2,052文字

 そしていよいよ保雄に、最期の時が訪れた。春四月、横浜の港に桜が舞い散る頃であった。
「ゆきはいるか……」
「おじいちゃん、ゆきならここだよ」
「あゝ良かった。ゆき、俺の手を握ってくれ」
「うん、いいよ」
 恐る恐るゆきは、保雄の痩せた手をぎゅっと握り締めた。すると保雄は安堵したように、大きく息を吐いた。
「ふう、気持ちいい……」
 そしてしみじみと、こう続けた。
「いつも思ってたんだ。ゆきの手に触れると、不思議に落ち着くんだよな。何でだろ?何て言うのか……安心するんだよな、安らぐって言うのかさ。丸でそうだなあ……地球?そうだ!地球に、大地のやさしさとぬくもりの中に、すっぽりと包まれている感じって言うのかな?そんな気持ちになるんだよ。子どもん頃、おふくろに抱かれていたみたいな……そんな気持ちさ。不思議だろ?」
「うん……ありがとう、おじいちゃん」
 ただ保雄の言葉に耳を傾け、頷くゆきたち三人。
「それにゆきの歌を聴くと、やっぱり安らぐんだよな、なぜか!なんか懐かしいような……丸で子守唄でも聴いてる気分になってさ。だからいつも眠くなっちまって、欠伸ばかりしてただろ、俺?」
「そうだったっけ?そうそう、そうだったね、おじいちゃん!じゃ……今日も歌おうか、おじいちゃん?」
「待ってました!頼む、頼む。そしたら、安らかに眠るみたいに、楽に死ねるだろ!」
 周りの三人は吃驚。
「おじいちゃん!」
「おとうさん!嫌ですよ、そんな言い方」
「悪い冗談言うなよ、おやじ!」
 すると保雄は、腹を抱えて大笑い。
「ハッハッハッハッハ。すまん、すまん。じゃ、ゆき、『サルビアの花』を歌っておくれ」
「うん」
 ゆきの歌声の中、そして保雄はゆきの手をぎゅっと握り締めながら、静かに目を閉じた。保雄が眠っているものと思い、ゆきはそのまま歌い続けた。しかしゆきの手を握り締めた保雄の握力は徐々に弱まり、やがてスルリとゆきの手から滑り落ちたのである。
「おじいちゃん!」
 はっとしたゆきは、目で健一郎と秋江に訴えた。
「おとうさん」
「おやじ」
 狼狽える秋江と健一郎。ゆきが大声で保雄を呼んだ。
「おじいちゃん、しっかりして!」
 しかし目を閉じたまま、保雄の反応は無い。尚も叫ぶようにゆきは、必死に保雄を呼んだ。何度も何度も呼び続けた。
「おじいちゃーーん、起きてーーっ……」
「おやじいーーっ」
「おとうさーーん」
 されど三人の呼び掛けも虚しく、保雄が再び意識を取り戻すことはなかった。保雄はそのまま、そして帰らぬ人となったのである。
「おじいちゃん、死んじゃったの?」
 今にも泣きそうな目で問うゆきに、健一郎は冷静に答えた。
「おそらくな……。先生に診てもらおう。秋江、先生を呼んで来るから、ゆきを見ててくれ」
「分かった。ゆきちゃん、落ち着いて!大丈夫だからね……」
 しかし秋江のフォローも虚しく、ゆきは絶叫した。
「おじいちゃーーん」
 そしてゆきはベッドに横たわる保雄の体にすがり付き、大声で泣き出したのだった。
「おじいちゃん、おじいちゃん。おじいちゃん、てば……」

 それは初めての出来事だった。ゆきにとっての身近な人との死別……。ゆきはもう、かなしくて悲しくて堪らない。大粒の涙が止め処なく溢れ出し、ゆきの頬を濡らした。
 さっきまで生きていたおじいちゃんが、死んじゃった!呆気なく死んで、もう自分の目の前にはいないのだ。何てことだろう。ずっといつも仲良く遊んでくれたおじいちゃんが、たくさんいろんなお喋りをし、たくさんの事をそしてたくさんの歌を、教えてくれた。あの、大事な大事なわたしのおじいちゃんが、もういないなんて!もう会えないなんて、信じらんない……。
 突然失った保雄という、ひとつの生命の存在。その喪失感と、胸にぽっかりと空いた大きな穴……その空虚さ、寂しさ。まだ子どものゆきは、それらの感情をどうして良いか分からず、ただ戸惑い、嘆きかなしむばかりであった。
「おじいちゃんは、何処に行っちゃったの?もうこの家には、帰って来ないの?もうゆきと、遊んでくれないの?」
 悲痛なゆきの問いに、健一郎も秋江も返す言葉が見つからなかった。ふたりとも無宗教で、魂や天国など一切信じていなかった。ゆえに死という現実は、ただ重苦しい悲劇、災い、不幸でしかなかったのである。
「でもまあ、秋江。これから世の中、どんどん悪くなる一方だし。その前に死ねたのが、せめてもの救いじゃないか?」
「まあ、そうね。あなた……」
 健一郎と秋江は、そんな言葉で互いを慰め合うしかなかった。だからゆきを慰められる言葉など、思い浮かぶ筈もなかった。だからただひたすらゆきは、涙とかなしみに暮れ、それに身を任すしかなかった。そして時が癒やしてくれるのを、待つしかなかったのである。
 身近な者の死と、その者との死別、永久の別れ……。ゆきと、サンシャイン並びにムーンの死に接した際の狼山のマザー(エデン)との、何という違いであろうか。しっかりとした死生観の有無によって、これ程の違いが出て来るという訳である。
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