十八 丈庵住職

文字数 961文字

 翌月、長月(九月)八日、午前十一時。
 両親の月命日のこの日は雨だった。雪は神田湯島の円満寺の墓地で墓参を済ませ、円満寺に居た。

「丈庵様。何かとお世話になりながら、月命日のお参りの折に御挨拶するだけの失礼をお許しください。先月、大黒屋の身代を継いだ襲名披露の折に、これまでの御礼を申し上げたかったのですが、何かと商いの取り引き先との挨拶がありまして、今日まで御挨拶が伸びてしまいました・・・」
 雪は己の無礼を詫びながら、真の思いを語れずにいた。

「何も気になさいますな。雪さんは襲名披露の折に、取り引き先の商人(あきんど)たちと私に御挨拶して下さった。それで充分なのですよ」
 襲名披露の宴に丈庵住職も招かれて列席していた。雪の眼差しや態度から、丈庵住職は雪が何を思って、今後、何をしようとしているか薄々察していた。

 しかし、町医者竹原松月共々、丈庵住職は御上から、『寝首かき一味』を捕縛するために布佐の事は他言してはならぬと命じられている。
 料亭兼布佐の夜盗といい、大黒屋の夜盗といい、何としても事実を語ってやりたい。なんとかできぬものか・・・。丈庵住職は、雪に己の思いを伝えられぬ状況を歯痒く思っていたが、はたと思いついた。利発なこの娘なら、儂の考えを理解するだろう・・・。


 丈庵住職は話が進むにつれて、甲高い声色に変えて話した。
「商いは如何ですか。御店で変わった事は有りませぬかえ。
 もし何か有れば、逐一、藤堂様に知らせるのですよ。
 決して危険な事はなさいませぬように。
 来たるべき日に備えて、注意するのですよ」
「では、丈庵様も・・・」
『では、丈庵様も御上の指示で、今後、何が起るのか御存じなのですね』
 と尋ねようとして、雪は異変に気づいた。
 丈庵住職の話し方が妙だ・・・。この話し方と声色は・・・。

「私は、あなたの身を案じておりまする」
 まるで、歌舞伎の女形のようだ・・・。ああっ、そうなのかっ・・・。
 雪は気づいた。丈庵住職は布佐さんの気持ちを語っている・・・。
 雪の目に涙が溢れた。

「次の月命日、ここに参ります故、遠くから、顔を眺めるだけになさいませ。
 くれぐれも、言い付けを守のですよ・・・」
「はい、みなの命がかかっているのですね」
「はい、命がけにございまする・・・」
「わかりました。必ず言いつけを守ります」
 雪は納得した。
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