第1話

文字数 20,423文字

 一輝は掛け声と共に、祖母の早夜に向けて薙刀を振った。
 早夜は千段巻の柄で一輝の薙刀を簡単にいなし一輝の肩へ、素早く上段で薙いだ。
 一輝は速さに対応出来ず、刀刃が肩に当たった。痛みと衝撃でよろけた。「相手の動きに動揺するな」薙刀を引いた。
 早夜は継承を理由に、毎朝拝殿に呼び出しては武術を含めた無数の教養をたたきき込んでいた。
 一輝は小柄な少年で、早夜に一度も勝っていない。毎晩、戦術を練っては実行しているが、早夜は裏をかいてくる。
「勝ちに行くから大振りになる。勝ち負けは結果でしかない、こだわるな」
「でも、勝ちに行くのは当然じゃないか」
 早夜は一輝に近づいた。「願望は妄想だ。自らを惑わし、最善の行動に曇りを与える。己を切れ」
 一輝は眉をひそめた。
「理解出来んか」早夜は苦笑いをした。薙刀を一輝の眼前に向けて勢いよく振った。一輝は恐怖で引き下がったが、動きを読んで薙刀を突いた。薙刀の先端が一輝の鼻先に触れた。
 一輝は息を飲んだ。
 早夜は薙刀を引いた。「本能のままに動けば容易に次が読める。誰でも同じ手段を取るからだ」
「誰でも、じゃあお婆ちゃんも」
 早夜は薙刀を壁に立て掛け、指でこめかみを示した。「打ち込んでみろ」
 一輝は中段で構え、大きく息を吐いた。意を決して、早夜のこめかみに向けて薙刀を振った。
 早夜は表情も動きも変えない。
 一輝は薙刀がこめかみに入る前に薙刀を止めた。早夜の動じない態度に恐れを覚え、薙刀を下ろした。
「普通は薙刀が飛んでくれば身構え、引き下がる。何故か分かるか」
「怖いから」一輝は自信なさげに答えた。
 早夜はうなづいた。「正解だ。防ぐ為に避けたがるが、身構えるより薙刀を振る方が速い。何をしても無駄だ」
「でも怖いよ」
「恐怖による感情や勝ちを求める欲望は理性より先に来る。本能だからな。欲からくる行動は誰でも取るだけに相手には容易に読め、スキを与える。相手に読ませず動くなら、己を縛る欲や本能、しがらみを捨てて無意識で最善の手を打つんだね」
 一輝は眉をひそめた。早夜の言葉が今ひとつ理解出来ない。
「精神の類いは経験を積まねば分からんし、説教じみて古臭い。頭の片隅に置け、必要な時に分かる。続けるぞ」早夜は薙刀を構えた。
 一輝は早夜に倣って薙刀を構え、鍛錬を再開した。動きは早夜に比べてぎこちなかった。
 拝殿の隅に置いてある目覚まし時計が6時半を示した。タイマーが鳴り響く。
 早夜は構えを解き、薙刀を奥の置き場に立て掛けた。
 雅彦も、早夜が置いた薙刀の隣に立て掛けた。
「お婆ちゃん、今日もテレビの人が来るの」
 早夜はうなづいた。「面倒な輩だよ、ツツジ祭りのついでで、奥宮を見せろとせがんでいる」
「入れるの」
「氏子ですら立ち入り禁止の場所だ、誰が部外者を入れるか」
 一輝はうなづいた。
 奥宮は境内の奥にある鎮守の森から進んだ、岩戸と称する海岸に面した場所の前にある。氏子を含めた一帯の人間ですら立入禁止で、神社を管理している星宮家だけが立ち入り出来る。
 一輝は早夜から、元服していないのを理由に一度も立ち入っていない。
「何で人を入れないの」
「見ず知らずの人間を部屋の奥にまで案内する奴がいるか」早夜は一輝の正面に来た。「朝飯の時間だ、お前には学校がある」
 一輝はうなづき、早夜と対峙した。「ありがとうございました」早夜に礼をした。
 早夜も一輝に合わせて礼をした。
 一輝は荷物をまとめて拝殿を出た。境内は木々と草で満ちた鎮守の森が囲っている。人気はなく静まり返っていた。
 早夜は拝殿から出て、扉の鍵を締めた。
「本当に、奥宮にオニがいたの」一輝は早夜に尋ねた。
「今はいないがね」
 一輝は拝殿から、住居を兼ねた社務所に向かった。
 星宮家が管理している星宮神社は海岸の脇にあり、周辺は閑静な住宅街になっている。一帯は高い金工技術者を抱えた宿場町として栄えていたが次第に廃れた。代わりの産業がなかった為に過疎が進行していたが、近年の都心回帰の影響で回復の兆しがある。
 自宅を兼ねた社務所は鳥居から拝殿に向かう参道の脇にある。
 一輝は玄関から部屋に入り、稽古着から普段着に着替えた。着替えを終えるとリビングに向かった。
 テーブルには和食を中心とした料理が乗っていて、両親が食事をしている。
 一輝はテーブルに着いた「いただきます」手を合わせて食事を取った。
 早夜がリビングに戻ってきた。
「すみません、お母さん。早速なんですが」父親の雄一は早夜に声をかけた。
 早夜はテーブルに着いた。
「観光協会から、祭りの時だけでも奥宮まで開放してくれと要請がありました」雄一は早夜に話を持ちかけた。観光客はツツジ祭りで大挙して来るが、神社の収支は厳しいままだ。自分の神社にしかない目玉を公開し、観光に火を付けて収入を増やす必要がある。観光協会の要請を盾に、頑なに奥宮の開放を拒む早夜を折る作戦に出た。
 早夜は雄一の話を聞くなり、渋い表情をした。
 雄一は口をつぐんだ。結論を早夜の表情から察した。「駄目ですか」
「いわく付きの場所だ、トラブルが起きれば誰が責任を持つ」
「道の整備もしますよ。今時オニの伝承なんて、真に受ける人間は誰もいませんよ」
「楽観するな、ならんと言えばならん」早夜は声を上げた。
 母親の奈津は気難しい表情をした。氏子衆に影響を持つ早夜の反対がある限り、夫婦で話した目玉は実行に移せない。
「今に伝わるには理由がある。開放すれば区域は破滅するぞ」
 両親は早夜を見て眉をひそめた。早夜は食事を取り始めた。
 早夜は一輝の方を向いた。「カズ、お前は奥宮について話しとったな」
 一輝は白飯を頬張った状態でうなづいた。星宮家の人間でありながら、一度も奥宮に行っていない。
「次の休み、鍛錬が終わったら案内してやる」
 一輝は驚き、口に入れていた白飯を一気に飲み込んだ。むせてせき込んだ。
「ただし条件がある。奥宮で何があって、何が起きたか口外してはならんぞ」
 一輝は何度もうなづいた。
「元服するまで入れないって言ってたのに。固いお母さんが珍しい」雄一はぼやいた。子供の要求は聞かないが、孫の要求は聞くのか。
 早夜は黙って食事を始めた。
 一輝は朝食を食べ終え、部屋に戻って学校に行く準備をした。道具をまとめてから、机に置いてある懐中時計を手に取り、鎖をボタンに引っ掛けた。
 懐中時計は隙間がない。金メッキに似た輝きを持ち、半透明の盤を通して歯車が透けて見える構造になっている。父の雄一が幼い頃に早夜から不気味だからともらった品で、通学に使うバスの時刻を確認する為に受け取った。
 一輝は玄関に向かい、靴を履いた。「行ってきます」社務所を飛び出した。
 中学校は近隣の地域にない為、一輝はバスで通っている。
 一輝は人見知りをしない性格で、中学校に入学するなり周囲のクラスメイトと簡単に打ち解けた。
 祖母の厳しい教育により学業は同学年で上位だったが、精神は未成熟なままだった。仮入部で先輩と囲碁や薙刀の試合をした時に先輩を立てず、トラブルになるケースもあった。
 学校から戻ると祖母の鍛錬に付き合いながら、神社の手伝いをした。
 5月の連休前後に開催するツツジ祭りは区域一番の名物で、観光客が全国から訪れる。祭りの準備は氏子と家族の総出となる。一輝は連休前に休みを取るのが恒例だった。
 一輝は手伝いを終え、西の空を見た。日が暮れかかっていた。リビングに戻り、夕食を取ると部屋に向かった。部屋で机に置いてあるラジオをつけた。音楽がノイズ混じりに流れだす。ノートに課題を書き写し、宿題を解きながら早夜の試合に勝つ手段を模索していた。
 夜が更けると眠くなった。ラジオのスイッチを切って布団を敷き、眠りについた。



 日曜日の早朝、一輝は普段通りに懐中時計を含めた荷物を持ち出し、早夜と拝殿で鍛錬をした。
 一輝は奥宮に何があるのか、期待と不安で落ち着きがなかった。早夜は一輝の不安定さに気付いていたが追究しなかった。
 二人は鍛錬を終えた。薙刀を袋にしまい、荷物をまとめて外に出た。
「奥宮に案内する約束だったな、付いて来い」早夜は拝殿の裏に向かった。一輝も早夜に続いた。
 拝殿の奥は木製の柵が打ち込んであり、端には金網の扉があり、しめ縄が付けてある。扉の隣には地元の教育委員会が設置した看板が立っている。
 一輝は看板の内容を読んだ。幕末の頃に一人の武士が未来を憂い、先にある海沿いの崖から身を投げたと書いてある。「死んだ武士の幽霊でもいるの」早夜に尋ねた。
 早夜は笑った。「死んだ奴が出てくるなら、森で踏み潰したゴキブリも出てくるよ」しめ縄を丁寧に外して柵にかけ、鍵を回して扉を開けた。
「何があっても騒ぐな」
 一輝は早夜の言葉にうなづいた。緊張で動悸を覚えた。
 早夜は鎮守の森に入った。一輝は早夜に続いた。
 鎮守の森は小山で、樹齢が100年以上の木々が密集している。鳥の鳴き声や葉がこすれる音が響いていた。
 早夜と一輝は獣道をたどり、奥へ進む。
 次第に木々が減り、白い岩が増えてきた。潮の匂いが同時に漂ってきた。
 木々のない、開けた場所に出た。一帯が白い岩で構成していて、青空と海が眼下に見える。
 一輝は立ち止まり、胸ポケットに入っている懐中時計を取り出して時間を確認した。7時を示していて、文字盤が赤くなっている。
「何をしている、奥宮はすぐだ」
 早夜は海岸沿いの道を進んだ。
 一輝は懐中時計をしまい、早夜に続いた。
 分かれ道に出た。双方とも石の鳥居が建っているが、片方はしめ縄で封鎖している。鳥居の足元が削れて小石が転がっている。「一方は岩戸に続いている。普段は危険で立ち入り出来ん」
 一輝はしめ縄の付いた道を見つめた。立入禁止なら、何故バリケードを置かないのか。
 歯車がかち合う音が、懐中時計から大きく響いた。
 一輝は懐中時計を取り出した。懐中時計は熱を持ち、時計盤には不可解な記号が浮かんでいる。しめ縄がある側の道を見た。奥から電化製品が放つ、モーター音に似た低く鈍い音が聞こえる。恐怖を覚え、早夜の向かった道に足を動かした。
「早く来い」
 一輝は早夜の言葉に従い、奥宮に向かった。
 奥は白い岩が囲っていて、ササが隙間から生えて荒れている。奥宮が開けた場所に1棟だけ建っている。
 早夜は奥宮に向かい、扉にかかっているしめ縄を外して戸を開けた。鈍く、木材同士がこすれる音がした。扉が開き切ると入った。一輝は早夜に続いた。
 奥宮の内部は光がスリット状の窓から差し込んでいて、木の匂いが染み渡っていた。天井にはクモの巣が張っていて、中央には木製の黒く腐食した棺が置いてある。
 早夜は腐食した棺に近づき、蓋を開けた。
 一輝は棺に近づいてのぞき見た。すぐに目を向けた。棺にはボロ布と見間違う程に傷んだ和服が着せてある、人間の白骨死体が入っていた。脇には文様を刻み込んだ黒いサヤに入った刀と、銀色の半透明な金細工が置いてある。
 早夜は顔をしかめた。「オニの死体だ」
「オニ」一輝はつぶやき、白骨死体の頭部に目を向けた。角に似た骨が頭部に転がっている。
「分かったろ、行くよ」早夜は棺に蓋をして外に出た。
 一輝が続いて外に出た。
 早夜は奥宮の扉に鍵をかけ、鎮守の森へ向かった。
 一輝は岩戸と奥宮との分かれ道で立ち止まり、岩戸へ続く道を眺めた。奥宮の奥にある岩戸は危険だと、幼い頃から聞いていた。危険なのにバリケードを貼らず、しめ縄だけで処理している。不自然さを覚えた。
 砂利を踏み潰す音が岩戸から聞こえた。
 一輝は不気味さを覚えた。音は徐々に大きくなる。全身に緊張が走った。熊は今の季節に出てこない。猿だと小声で言い聞かせ、きびすを返して鎮守の森に向かった。
「ヒトか」女性の声が一輝の後ろから聞こえた。
 一輝は立ち止まり、声がした方を向いた。目の前に十二単を着た、18歳程の少女がいた。直後に少女の額から、文字に似た記号が浮かび上がる。視界がゆがみ、意識が飛んだ感覚がした。意識は戻ったが景色はわずかに揺らいでいて、耳に入る音に残響が付いている。先には赤い和服を着た屈強な男がいた。男は金属の光を放つ溶接マスクに似た仮面をかぶっていて、額から鈍い光を放つ牛の角を生やしている。手には金砕棒を持っている。「オニ」戦慄した。
 鬼は一瞬で一輝の目前から消え、懐に入り込んだ。
 一輝は今までの鍛錬から危険だと察知し、素早く後ろに下がった。
 鬼は金砕棒を斜めに払ったが、一輝に当たらず空を切り、地面にかすった。衝撃で砂利や砂がまき散る。
 一輝は衝撃に耐え切れずによろけ、膝を付いた。顔に強烈な痛みを覚え、さすって手を見ると血が付いている。恐怖を覚えつつ、鬼の足元を見た。
 金砕棒がかすった地面はえぐれている。
 鬼は鋭い目で一輝をにらんだ。
 一輝は荷物を下ろし、薙刀を袋から外して構えた。鬼を見据えるも覚悟を割り切れず、体が恐怖で震えて行きは荒くなり、目が泳ぎだす。
 鬼は一歩を踏んで一輝に近づいた。
 一輝は腰が引いた状態で引き下がる。鼓動が耳にも明確に聞こえる程に高揚し、震えている。
 男は更に一歩を踏んだ。
 一輝は体が震え、更に一歩下がった。攻撃を払って反撃で仕留めると決めたが、稽古用の薙刀で筋骨隆々の相手が倒れるか不安だ。呼吸と動悸が早まり、冷静な判断を削ぎ落とす。
「牛鬼め」大声がした。一輝は我に返り、声がした方に目を向けた。
 早夜が薙刀を持って男に駆け込んだ。
「お婆ちゃん」一輝は声を出した。武術に長ける早夜でも見知らぬ、まして衝撃で地面を砕く怪力の鬼だ。相手が出来るのか。
 鬼は金砕棒を上段に構えた。
 早夜は駆け足の体勢のまま、素早く柄を短く持って八相の構えに移行した。
 鬼は早夜に踏み込んで金砕棒で素早く払う。早夜は引き下がらずに金砕棒を薙刀の柄で受け止めた。同時に力をかけ、金砕棒を弾いた。
 金砕棒は簡単はさばけ、鬼はよろけた。
 早夜は薙刀を投げ捨てると同時に、鬼の懐に踏み込んだ。鬼は投げ捨てた薙刀に目を向け、隙が出来た。目をそらしている間、拳を作って鬼の顔面を殴りつけた。
 鬼は拳を受けて意識を失い、金砕棒を手から離して仰向けに倒れた。
 一輝の視界が真っ暗になったが、すぐ元に戻った。ゆらぎはなく、地面のくぼみやヒビと顔の痛みと血が消えていた。鬼に目を向けると、透き通った十二単を着た、すみれ色の髪を腰まで伸ばした少女が倒れていた。金砕棒は周辺にない。突然の出来事に困惑し、足元に落ちている懐中時計を拾って恐る恐る早夜の元に近づいた。早夜は怒りとも、同情とも解釈出来る表情をしていた。
「自らに課した封を解いたか」早夜は少女の首に触れて脈を測った。脈はある。安心し、転がっている角を取った。ごく普通の牛の角だ。落とした薙刀を拾い、一輝の方を向いた。「大丈夫か」
 一輝はさすって手を見た。血は付いていない。眉をひそめた。「さっきまで血が付いていたのに」
「外術が解けたからな」
 一輝は不可解な表情をした。外術がなにか理解出来ない。少女に近づいた。「死んでいるの」
「生きとるよ」早夜は一輝が持っている懐中時計をひったくり、眺めた。記号が文字盤から浮かび上がっている。「何故、持って来た」
 一輝はうつむいた。「お父さんが大事にしろって言ってたから、家を出る時は持っているんだ」
 早夜はうなり、しめ縄のある側の道を見た。しめ縄が外れている。一輝に懐中時計を返した。「来たのは一人だけだ」
 一輝は不安げに少女を見ていた。少女は動いていない。
 早夜は一輝の方を向き、薙刀を差し出した。「あたしは磯女を診て運ぶ。お前は荷物を持って雄一と奈津に、磯女を保護したから部屋と救急箱を用意しろと言ってくれ」
「磯女って、昔話に出てくる」
 早夜は鎮守の森へ続く道を見つめた。「急いで伝えとくれ」
 一輝はうなづいて早夜の分の荷物を持ち、道を引き返した。
 早夜は少女の姿を眺め、衣に触れた。触れた手に電気が走る感覚がした。顔をしかめ、強く衣を握った。手を通して腕にしびれる感覚がするも、構わずに肩に担いだ。しびれは次第に薄らいだ。
 一輝は急いで拝殿に向かった。
 拝殿では氏子達が参道の脇に植えてあるツツジの整備をしていた。雄一は計画書を見ながら氏子と打ち合わせをしている。
 一輝は雄一の元に向かった。「父さん」あえぎを抑えながら声をかけた。
 雄一は一輝に気付いた。「随分早いな、ビビって戻ってきたか」
「違うよ、お婆ちゃんが」
 雄一は一輝の言葉に驚いた。「母さんが倒れたのか」
「磯女を保護したから、部屋と救急箱を用意しろって」
 雄一は眉をひそめた。「磯女って昔話のか」
 一輝はうなづき、深呼吸をして調子を整えた。
 雄一は笑った。「磯女ってな、昔話で出てくるだけで実在しないんだ。何かと間違えたんじゃないか」
「本当だって。鬼が襲ってきたんで、お婆ちゃんが倒したんだ」一輝は雄一に強く訴えた。
「お前が怖がって逃げたのは分かる。鬼だの磯女だの、昔話をしないでだな」
 氏子と打ち合わせをしていた奈津は、二人の話を聞いて雄一の元に来た。「何を話しているの」
 雄一は奈津の方を向いた。「カズが鬼が出たってさ。鳥かタヌキにビビって逃げたって言えばいいのによ」
 奈津は拝殿の方を向いた。早夜が少女を担いでいた。「お義母さん、誰ですか」
 早夜は雄一の元に来た。「用意もせずに無駄話をしおって」一輝に目をやった。
「信じてくれなかったんだよ」一輝はぼやいた。
 雄一は早夜を見てたじろいだ。「お母さん、担いでいる人って」
「磯女だよ、カズは話さなかったのか」
 雄一は眉をひそめた。
「磯女でも何でもいい、怪我人に変わりないんだ。布団を敷いて救急箱を用意しな」早夜は社務所に向かった。
 奈津と一輝は即座に社務所に向かった。
 雄一も社務所に向かおうとしたが、氏子が雄一の元に割って入った。
「すみません。屋台の設置場所ですが、計画のままですと参道と干渉します」氏子は雄一に地図を見せて説明した。
 雄一は苦々しい表情をし、奈津と一輝を尻目にした。
「すみません」氏子は雄一に尋ねた。
 雄一は氏子の質問で我に返り、応対した。
 一輝達は社務所に着き、玄関から来客用の和室に入った。
 奈津が押入れから布団を出し、急いで敷くと早夜は少女を布団に寝かせた。
 奈津は少女を見つめた。少女の姿は人間と変わりない。「磯女だなんて、単に迷い込んだ人ではないのですか」早夜に尋ねた。
「鎮守の森に人は来んよ」早夜は言い切った。「岩戸から来たんだ、入り込んだでは説明がつかん」
「お義母さんの言葉こそ、説明がつきません」
 早夜は一輝の方を向いた。「お前の意見は」
「僕は」一輝は返答に困った。
「訳が分からなくても、いたのは事実だ。救急箱を取ってくる」早夜は部屋から出た。
 一輝は少女を見つめていた。伝承は神社の縁起に深く関わっているとして、早夜や父親からしつこく聞いていた。磯女は架空の存在だと認識していたが、鬼に化けた少女が今、眠っている。伝承が架空なのか事実なのか、混乱してきた。
 早夜が救急箱を持って部屋に入った。少女の隣に向かい、救急箱を開けて体を触り調子を見た。「ショックを起こしただけならいいがね。脊髄でも折れてたら大変だ、磯女でも殺したくない」腕に擦り傷を確認し、消毒液を吹き付けて手当を始めた。
「脊髄って大げさだよ。殴っただけで折れるなんてあり得ない」一輝は早夜に尋ねた。
 早夜は少女の頬を布でふき取った。「飲み物でも出してくれ」
「はい」奈津は部屋を出た。
 少女は目を覚ました。視界に天井が見える。意識が回復して周りを見た。早夜達の姿が見える。ヒトだ。抵抗する為に体を動かすが、腰に痛みを覚え、上半身を起こしただけで動きを止めた。「私は」
「殴ってすまなかったね、調子は大丈夫か」早夜は少女に話しかけた。
 少女は腕を見た。すり傷が付いている。状況から事態が分かり、徐々に表情が曇った。「私は負けたのですね」
「磯女、お前らは体が弱い。正面からぶつかれば当然の結果だ」早夜はぼやいた。
 少女は早夜の方を向いた。「すみません、女苗を知っていますか」
 早夜は少女の態度にあきれた。「唐突だな」
「すみません」少女はうつむいた。
「あたしは知らん。大体会っても名も分からんし、誰が母で誰が他人だか格別がつかん」
「ですね」少女は落胆した。
「磯女。お前は何者で、何用で来た」早夜は少女に尋ねた。
「私は馬酔木と言います」馬酔木と名乗る少女は胸に手を当てた。「私は側近から、母は物心つく前に人が殺し、育て上げた者が祖母だと知りました。大皇である祖母は話をしてくれず、詳細を知る為に境界で機会を伺っていました」
 早夜は気難しい表情をした。「大皇ねえ」
 馬酔木は腰の痛みを堪えて早夜に近づいた。「知っているのですか」
「磯女を人間が殺したなんて話、無数にあるよ。ちまちま調べてもいいが、あたしの寿命が尽きるのが先になっちまう」
 馬酔木は早夜の話を聞いて不安になった。早夜は磯女を知っているが、大皇を知らない。
「鬼になったんだけど、変身出来るの」一輝は馬酔木に尋ねた。
「たぬきと同じで化けるだけさ。現にすぐ戻ったろ」
 一輝は早夜の言葉に疑念を覚えた。「化けているなら、奥宮にあるオニの死体は」
「カズ」早夜は声を上げて一輝の言葉を遮った。悪意はないのは分かっているが、オニの死体を口外してはいけない規則を破ってしまった。顔をしかめて目をそらした。
「オニの死体って何ですか、まさか母の」馬酔木は一輝に食って掛かった。
「磯女とは関係ない」早夜は平然と言い切った。
 馬酔木は早夜に怒りを覚えた。「関係ないって言い切れるんですか」
 奈津が温かい茶を3つ、盆に入れて持って来た。「怪我は大丈夫」
「はい」馬酔木は穏やかな表情をして茶碗を手に取って茶を飲んだ。甘さが苦味に混じっている。
 一輝と早夜も茶を飲んだ。
「お義母さん、私はお弁当を受け取りに行きますから、飲み終わったらシンクに置いてください」奈津は部屋を出た。
 早夜は茶を飲み干し、湯飲み茶碗を置いた。「動けるか」
 馬酔木は起き上がり、体を動かした。痛みが背中や腰に残っているが、意識を戻した時より軽く、支障はない。「はい」
「奥宮に行くよ、何か分かれば納得して帰ってくれるんだろ」
 馬酔木はうなづいた。
 早夜は茶を飲んでいる一輝の頭を軽くたたいた。「あたしは星宮早夜で、今、茶を飲んでるガキは孫の一輝だ。ついでに出たのは息子の嫁で奈津だ」
「星宮、早夜さんに一輝さんですか」馬酔木は早夜と一輝を交互に見て確認し、茶を飲み干して盆に置いた。
「一輝、片付けをしとけ。あたしは馬酔木と奥宮に行っとるよ」
「僕も一緒に行きます」
「構わんよ、待っとる」
 一輝は盆を持ってキッチンに向かい、シンクに置いた。廊下を渡り、玄関から外に出た。
 外には馬酔木と早夜がいた。
「行くよ」早夜は馬酔木と一輝を連れて奥宮に向かった。
 早夜は馬酔木に近づき、文化や服装、生活習慣に関してしつこい程に尋ねた。
 馬酔木は早夜の質問に悪びれずに丁寧に答えた。早夜は興味深く話を聞いた。
 三人は奥宮に着き、早夜は鍵を開けて入った。一輝と馬酔木が続いた。
 早夜は棺を開けた。
 一輝は神妙な表情で、棺に入っている死体を見つめた。初めて見た時と何の変化もない。
 馬酔木は表情一つ変えずに死体を眺めた。服がはだけて骨盤が見えている。顔をしかめた。「磯女ではありません」
 早夜は馬酔木の言葉に顔が強張った。
 一輝は驚いた。「偽物なの」一輝は声を漏らした。
「骨格が男です。磯女は女しかいませんから、少なくとも私達と無縁です」
 早夜はうなづいた。「だね」
 一輝は馬酔木の言葉を聞き、早夜を疑念の目で見た。鬼が偽物だと最初から知っている素振りだ。
 馬酔木は刀と金細工に目を向けた。サヤに刻んである文様を見て、目つきが変わった。「刀を持ってもいいですか」
「構わんよ」
 馬酔木は刀の置いてある位置に近づき、手を伸ばして刀の柄に触れた。柄をつかんで持ち上げるにも重くて動かない。
 早夜は馬酔木の行動を見かねると、刀の柄とサヤをつかんで持ち上げ、サヤから抜いて棺の蓋の上に置いた。
 刀はサビがなく、刃は周辺の光景を反射していた。刃にはサヤと同じく、漢字とも絵とも言える文様が無数に埋め込んである。
 一輝と馬酔木は刀を見つめていた。
 早夜はサヤと刀を棺の蓋に乗せた。「感想は」
「抜粋、私達の外術です」馬酔木は両手の人差し指で刀身とサヤに軽く触れた。人差し指と刀の間から光が現れ、一瞬で刀の文様が浮かび上がり、光を放って板状に変化した。人差し指は文様をなぞると、他の文様も板状に変化した。
 一輝は周辺の状況に驚き、早夜は冷静に馬酔木を見ていた。
 馬酔木は記述している内容を見ると、顔を手に当てて困惑した表情をした。一瞬で光の板が消えた。「記憶が巧妙に重なっています。取り出せません」
「記憶って」一輝はオウム返しに声を上げた。
「外術の一つで、空間や人物の記憶を抜き取って物体に埋め込めるんです」馬酔木は文様を見て眉をひそめた。「細工がしてあって、読めません。埋め込んだ記憶は読み取るのが前提ですが」
 早夜は苦笑いをした。「打ち込んだ女苗(メノウ)にでも聞くしかないね」
 馬酔木は女苗の名を聞き、いぶかしげな表情をした。「女苗、祖母の名前です。大皇を知っているのではないですか」
 早夜は顔をしかめた。「女苗が大皇か。詳細は知らんが伝説の磯女の名前だ。お前らにとっては昨日いた人間かもしれんが、あたし達人間からすればはるか昔の人物だから詳細は知らん。なあカズ」一輝に目を向けた。
 一輝は早夜が突然振ってきたのに驚いた。「え、ええと鬼と言うか、磯女と言うか」
 馬酔木は、慌てている一輝を見てから早夜に目を向けた。早夜は涼しい顔をしている。早夜は何かを知っていると悟ったが、尋ねてもはぐらかすので追究をしないと決めた。「確かに多重に、かつ巧妙に複雑な外術を使えるとなると、大皇だけです。施した理由と内容は直に聞き出すしかないですね」
「手がかりはなし、か」早夜は腕組みをした。
「刀を借りていいですか」
「返してくれたらな」早夜は意地の悪い口調で答えた。
 馬酔木は不安げな表情をして、刀をつかんで力を入れた。わずかに持ち上がるが重さに耐え切れず、腕が痛みで震えた。手を離し、刀を置いて見つめた。
「持って行かないのかい」早夜は馬酔木に意地悪く尋ねた。
 馬酔木は刀を見つめた状態で顔をしかめた。「持って行かなくとも、大皇に話をすれば分かります」馬酔木は奥宮から出た。
 一輝はオニの死体に目を向けた。オニの死体は鬼ではなく、ただの死体だった。がく然とすると同時に、頭に新たな疑問が浮かんだ。オニの死体は何者なのか。
 早夜は刀をサヤに入れ、元の場所に入れると棺に蓋をした。棺から背を向け、外に出た。
 一輝は気難しい表情をして、早夜に続いて奥宮から出た。
 馬酔木は二人と対峙し、頭を下げた。「すみません、大皇が境界を封じる程ですから、母の死に関する証拠があるのではないかと踏んだのですが、何もなかったのですね。ご迷惑をかけました」
「何もなかったのが分かっただけ、いいさ」早夜は笑みを浮かべた。「お前さんの祖母は、母の死について今まで話をしてくれたかい」
 馬酔木は首を振った。「母の死について、何も話してくれませんでした。都合の悪い内容でもあったのですか」
 早夜は首を振った。「都合か、私には分からんよ」
 馬酔木は納得出来ない表情で背を向け、外に出た。
 分かれ道に来ると、早夜は立ち止まって一輝の方を向いた。「一輝、お前は帰っていいぞ」
「見送らなくていいんですか」一輝は早夜に尋ねた。
「道を整備していないから、下手をすると海に落ちる。戻ってくるまで家で待っているんだ。戻りは分かるね」
 一輝はうなづき、鎮守の森に向かった。
 馬酔木はうなづき、しめ縄の外れている道を歩いた。早夜も続いた。「貴方は博識ですね」
「元々欲があってね、学者連中が来るのもあって話をよく聞く。知識がたまれば吐き出したくもなる」早夜は笑った。「大皇は仕事でストレスを解消出来るから言わないだけだよ。かわいい孫の要求だ、強く言えば吐いてくれるさ」
 馬酔木の表情が緩んだ。早夜は肝心な話ははぐらかすが、雑談をすれば返してくれる。年長者では周りにいない人物だった。「貴方と一緒なら、飽きないで済みます」
「最初は刺激があっても、次第に飽きるよ」
 開けた場所に来た。堅牢な木造建築があり、周辺を石灯籠で囲っている。
 馬酔木は建築物の前に来て、手を差し出した。建築物の前に透明な見えない壁があり、先に伸ばせない。壁に触れた手から光が現れる。
 早夜は馬酔木を真剣な表情で眺めていた。
 光は強まり、文様が現れたがすぐに消えた。一方で壁は消えない。馬酔木は驚いた表情をして手を離した。光が消えた。
「戻らんのか」
「境界が弱くなりません。まさか大皇が」馬酔木はがく然とした。
 早夜は見えない壁に出て軽くたたいた。感触はアクリルガラスに似ていて、音もなく手を弾いている。「推測にしかすぎんがね。大皇の力や、まして自然現象でで弱まってなんかいないよ」
 馬酔木は早夜の方を向いた。「では何ですか」
「ついて来な」早夜は引き返した。
 馬酔木は早夜に続いた。早夜に疑念を持ちつつ、他に手段がないと判断した。
 二人は奥宮から境内に戻った。
 早夜は境内で生垣の調整をしている氏子に近づいた。「ちと聞くが、孫の一輝を見かけたか」
「社務所に向かって行きましたよ」氏子は明瞭な口調で答えた。
「ありがとう」早夜は社務所に向かった。
 馬酔木は早夜に続いた。「祭りですか」
「つつじ祭りと言って、地域のかき入れだから役場の人間も借り出して準備するんだ。と言ってもすぐ廃れるがね」
 馬酔木は境内で祭りの準備に勤しむ氏子達を眺めた。氏子の一人は並木の整理をし、別の氏子は玉砂利を整えている。共に高齢だった。
 早夜は悲しげな表情をした。「若いのがいないんだ、皆都会に行っちまったきり戻って来やしない。氏子衆も持たないって話ばかりで気が重くて参るよ」
 馬酔木は氏子の一人を見た。生き生きとした表情をして雑談をしている。「悲しげに見えませんが」
「先を見ると黄泉の世界しか浮かばんから、逃避しているだけさ」
 馬酔木は気難しい表情をした。



 一輝は社務所に戻った。氏子達がツツジ祭りに向けて準備をしている。玄関に向かい、戸を開けて入った。「ただいま」靴を脱ぎ、部屋に向かって荷物を片付けた。
 死体の正体は神通力を持った鬼ではなく、単なる人だった。人魚の死体だの何だのと、他の神社で話題になっている珍物が、動物を繋いだ剥製だった落ちはテレビで散々見かける。奥宮にある鬼の死体も例外ではないと分かったが、動物ではなく人の死体だ。人の死体なら正体は誰で、何故鬼として祀っているのか。拝殿の裏の立て札に書いてあった、幕末に自殺した侍ではないかと疑念を持ったが、断崖から飛び降りた神社に縁のない人間を、わざわざ祀る理由が分からない。別人だとしても神社と縁があるのか、公開出来ない理由は何か。新たな疑問が次々に湧いて出てきた。
 一輝は片付けを終え、縁側に向かった。猫が日向で寝転んでいた。猫を撫でると、喉から鳴き声を出した。
 早夜と馬酔木が社務所に着いた。
 一輝は早夜と馬酔木に気付くと猫を撫でるのを止め、二人に近づいた。猫は縁側から境内に向けて駆けた。
「戻らなかったの」
「懐中時計を持っとるか」早夜は一輝に尋ねた。
 一輝はうなづき、縁側から家に入った。
 馬酔木は眉をひそめた。質問の意図が分からない。
 暫く経った。一輝は早夜の元に戻り、懐中時計を差し出した。
 早夜は懐中時計を受け取り、馬酔木に手渡した。「印象は」
 馬酔木は懐中時計を観察し、人差し指を盤に合わせて触れた。境界で現れたのに似た文様が浮かび、驚いて人差し指を離した。光はすぐに消えた。馬酔木は何かに気付き、懐中時計を見つめた。「境界が弱まったのは」
 早夜はうなづき、馬酔木から懐中時計を取って一輝に返した。
 馬酔木は一輝に近づいた。「すみません、時計を貸してもらえますか。帰るのに必要なんです」
 一輝は懐中時計を見つめた。「死体は誰だか、分かりますか」馬酔木に尋ねた。
 馬酔木は一輝の質問に戸惑った。
「死体があるってのは、生きていた人なんです。寿命が長いなら、一度でも会っていませんか」
 馬酔木は一輝の方を向いた。「すみません、境界から来たのは初めてで、何も分かりません。お役に立てなくてすみません」
 一輝は早夜の方を向いた。「お婆ちゃんは分かるの」
 早夜は一瞬、顔をしかめて首を振った。
 一輝は早夜の反応に眉をひそめた。何かしら知っている。「誰なの」
「鬼の死体だと伝わっている、としか知らん」
 一輝は馬酔木の方を向いた。「なら一緒に境界に行って、大皇から聞き出す」
 馬酔木と早夜は、一輝の言葉に驚いた。
「死体は誰で、何で御神体になっているのか、分からないまま祀るなんて不自然だ」一輝は胸に手を当てた。「訳が分からないまま、神社を継ぐなんて出来ないよ」
「危険を犯してまでもか」早夜は一輝に尋ねた。
 一輝はうなづいた。
 早夜はあきれ、馬酔木に目を向けた。馬酔木は困惑した表情で一輝を見つめた。
「私は貴方を連れて行く理由はありません」馬酔木は言い切った。
「理由はないが、使い道はあるよ」
 馬酔木は早夜の言葉に眉をひそめた。「何があるのですか」
「荷物持ちだ」早夜は言い切った。「お前さんが持てなかった刀でも持たせてやりな。証拠の一品でも持って行けば、大皇も態度を変える」
 馬酔木は早夜の言葉に眉をひそめ、一輝を眺めた。自分より背丈の低い少年に荷物が運べるのか。
 早夜は馬酔木の表情を見て、疑念を察した。庭に積んである茶箱に目を向けた。「持てるかい」馬酔木に声をかけた。
 馬酔木は茶箱を持った。箱は重く、力を入れても動かない。
 早夜は笑みを浮かべた。「一輝、茶箱を運べ」
 一輝は馬酔木の元に向かった。「すみません、どいてください」
 馬酔木は一歩下がった。
 一輝は茶箱を力を入れずに持ち上げた。「部屋に運ぶんですか」
「奥の部屋に茶箱が積んである場所があるから、乗っけといてくれ」
 一輝は縁側に向かい、靴を脱いで部屋に入った。
 馬酔木は一輝の動きを見て、早夜の方を向いてうなづいた。証拠の品を持ち運ぶ人物として、一輝を認めた。「貴方の案を受け入れます」
「準備がいる。1日待っとくれ」
「待つしかないのですから、構いません。私は何をすればいいのですか」
「客としてのんきにしてくれ」早夜は縁側に向かった。
 馬酔木は神妙な表情で、早夜の背中を見つめた。
 日が暮れる時間になった。氏子達は帰り、神社は静まり返った。
 一輝達はリビングに集まり、食事を取った。馬酔木も混じっていた。
 馬酔木は椅子に座って食べる行為に戸惑ったが、家族の動きを見て真似た。テーブルに並んだ料理は和食で、箸を丁寧に使って食べた。味は薄めだった。
 一輝の両親は、衣を脱がずに食事をする馬酔木を奇異な人として見ていた。
「彼女は明後日に戻る。一人では不安だ、一輝を連れに出す」
 奈津は早夜の言葉に驚いた。「連れって」
「つつじ祭りで手が離せん。暇なのは、あ奴位しかいない」
「でも学校が」
「あたしから言っておく。家業を継ぐと決まっているのだから無駄に学を得る必要もないし、明日から連休の入りだ、影響も少ない」
「お母さん、行く日数は」雄一は早夜に尋ねた。
 早夜は壁にかけてあるカレンダーに目をやった。「長くて一週間だな」
 奈津は馬酔木に目をやった。箸を丁寧に使い、焼き魚をさばいて骨を取り除いている。
「一人で大丈夫かしら」
「一人でキャンプに行っている、大丈夫だ。あたしが保証するよ」
 両親は困惑した表情をした。
 食事を終えた。馬酔木は料理を多めに残した。代謝能力が低い分、食は細い。
 馬酔木は奈津の案内で客間に入った。
 客間は静かで、窓から見える景色は暗い。
 馬酔木は天井からつり下がっている照明に興味を持ち、照明から下がっているひもを引っ張った。照明が消えた。ひもを下げると照明が点いた。照明を不思議がり、何度も見回したが動力装置の類いはない。蛍光灯に振れると熱くなっていて、手を離した。暫くして飽きを覚え、上の衣を衣紋掛に掛けるとひもを引っ張って照明を消し、予め敷いてある布団に入った。
 布団に入ると天井を見つめながら、人への印象を脳裏に浮かべた。人は粗暴だと聞いたが、実際には優しかった。安心すると同時に、早夜が話していた伝承は母に関係しているのか、疑念が湧いた。思考が膨らむうち、意識が遠のいた。



 翌日、馬酔木は日が昇ると同時に起き上がり、布団を畳むと衣紋掛にかかっている衣を着て縁側に出た。庭では早夜と一輝が手提げ袋を持ち、薙刀の入った袋を背負って拝殿に向かう準備をしていた。
「おはようございます」馬酔木は二人に声をかけた。
 二人は馬酔木の方を向いた。
「おはよう、よく眠れたかい。体は痛くないか」早夜は気さくに返した。
「はい、体は大丈夫です」馬酔木は頭を下げた。「すみませんが、朝早くからお仕事ですか」
「日課だよ、付き合うかい」早夜は馬酔木に尋ねた。
 馬酔木は部屋を見た。畳んだ布団だけが部屋に置いてある。
「はい、奥宮に行くのですか」
「拝殿だよ」
 馬酔木は眉をひそめた。「ハイデン、ですか」
「行けば分かる、来るかい」
「待ってください」馬酔木は急いで玄関に回り込み、玄関で履物を履いて、早夜のいる庭に回り込んだ。
 早夜は馬酔木が合流してから拝殿に向かった。
「すみません、伝承と言っていましたが」
「気になるかい」
 馬酔木はうなづいた。
「落ち着いたら話すよ」早夜は立ち止まった。拝殿に着いていた。
 馬酔木は眉をひそめた。また、はぐらかすのか。
 早夜は鍵を開けて入り、一輝と馬酔木も続いた。
 二人は背負っている薙刀を袋から取り出し、薙刀を置き場において準備をすると準備運動をした。準備運動を終えると置き場にある薙刀を手に取り、修練を始めた。
 馬酔木は隅で修練を見学していた。
 修練は激しく、一輝が膝を付く状況もあった。早夜は厳しく、正確に指導した。
「休憩だ」早夜は置き場に向かい、薙刀を置いた。
「はい」一輝はあえぎながら返事をし、置き場に向かうと袋から水筒を取り出して飲んだ。
 早夜は息が上がっていない。馬酔木に近づいた「行きの時に伝承について聞いてたね」一輝の方を向いた。
「何だよ、お婆ちゃん」
「伝承だ、話してみろ」
 一輝はため息をついた。
 早夜は一輝をにらんだ。
「分かったよ」一輝は渋々話を始めた。
 遠い昔、町は質の良い魚が獲れていたが、突然海が荒れて水が腐って赤く染まり、魚の死体が浮かび上がった。海に住む竜が夏に集落の近辺に現れ、暴れだしたのだ。
 人々は岬にあるほこらにろうそくを灯し、鎮まってくれと祈ったが、竜の暴走はやまなかった。
 呪い師に助言を求めると、星降る夜が開ける頃、少女を犠牲にすれば収まると告げた。
 集落の人々は相談し、岬に住む漁師の娘を選んだ。家族は反発したが、人々の決定は変わらなかった。
 星が降る夜、少女はいけにえとして海に沈む前にと岬に向かい、祈りをささげた。すると突然、岬に向かって星が大きな音を立てて落ちて来た。
 人々が何だと岬に向かうと、少女の前に美しい女の姿をしたタマが、仲間を引き連れて立っていた。
 女は少女の訴えを聞くと海に向かった。
 海に向かうと町に向かっていた竜が現れた。
 竜は女を一目見ると美しさにほれ込み、結婚を申し込んだ。
 女は人間へ危害を加えている輩と結婚する気はないと拒絶した。
 竜は女の拒絶で怒り狂い、巨大な波を起こして女を集落もろとも飲み込もうとしたが、女は仲間と共に金の砂を海にまいた。海の水は一瞬で固まり、水に住む竜を縛り付け動きを止めた。
 竜は苦しみに音を上げ、女に屈服した。
 女は悪さをすれば同じ目に合わせると警告し、竜は素直に引き下がった。
 海は固まった状態から戻り、静寂を取り戻した。
 以後竜は暴れず、海が腐り荒れる事態はなくなった。
 人々は岬から来た女に感謝し、岬に住処と祭る神社を建てた。星が降る夜に女が現れた為、建立した神社を星宮神社と命名し、女達はタマから磯女と称するモノとして土着し、人々に知恵を与え宿場町として発展する基礎になったと言う。
 一輝は話を終えると、一息ついて水筒の水を飲んだ。
「嫌になる程、聞かせた意味があったよ」早夜はうなづいた。
「竜を鎮めたタマが、大皇だと」馬酔木は早夜に尋ねた。
「かもしれんがね、昔話だし、磯女はこつ然と姿を消してしまったので検証も出来ないままだ」早夜は両肩を軽く動かした。「あんたのいる場所にも伝承はあるかい」
 馬酔木は顔をしかめた。「人は私達を惑わす粗暴な存在だと、聞いています」
「惑わして食らいつくすのはあんた達だけどね」
 馬酔木は早夜の言葉に一瞬、いら立ちを覚えた。
「母親について分かったかい」早夜は馬酔木に尋ねた。
 馬酔木は首を振った。
「昔話や伝承なんて、信用出来ないってのは分かったろ」早夜は一輝に目を向けた。「さて、やるか」
 一輝は水筒を袋に入れ、立て掛けた薙刀を持って立ち上がった。
 修練を再開した。
 馬酔木は互いの打ち合いを目の当たりにしていた。徒手空拳を交えた組み方は、自分が校で学んでいた武術と似ているが異なっていた。
 時計が鳴った。
 早夜は時計を止め、馬酔木の方を向いた。「感想は」
「結構、動くんですね」
 早夜は笑った。「動かない武術があるのかい」出した用具を片付け始めた。
「他の人は修練をしないのですか」
「雄一は神事があるからね。指導なら学校に指導しに出向いとるが、素養のない人間は鍛える値打ちがない」早夜は拝殿の中央に移動した。
 一輝は早夜と対峙し、深々と頭を下げた。「ありがとうございました」
 早夜も頭を下げた。
 一輝は壁際に向かい、荷物をまとめ始めた。
「次は何をするのですか」馬酔木は早夜に尋ねた。
「飯を食って、息子の嫁が買い出しに行っとる間に装備を整える」
 一輝は片付けを終えた。袋に入れた薙刀を担ぎ、荷物を持った。「出るよ」拝殿の外に出た。
 早夜も荷物を持って一輝に続き、最後に馬酔木が拝殿から出た。
 三人は社務所に戻った。
 馬酔木は早夜の指示でダイニングに向かった。既にテーブルに朝食が乗っていた。「すみません、早夜さんと一輝さんは」テーブルに座っている奈津に尋ねた。
「着替えが終わったら戻ってくるわ」
 暫く経った。
 着替えた一輝と早夜が入ってきた。
 早夜と一輝の家族は一斉に食事を取った。
 食事を終えると、一輝と早夜は社務所の脇にある倉庫に向かった。馬酔木は二人に続いた。
「何で来るかね、暇なら境内で遊んでいればいいのにさ」早夜は面倒くさげに馬酔木に尋ねた。
「何もしないのは性に合いません」
「刀の一振りも持てんのにか」
 馬酔木はいら立った。「邪魔ですか」
「手伝いは多い方が楽だよ」早夜は倉庫の扉を開けた。乾いた粉の匂いが漂ってくる。扉の脇にある照明のスイッチを入れると、白熱電灯の光が天井から差し込んだ。登山用のアイテムが棚に置いてある。
 早夜は壁に掛けてあるバックパックを下ろした。一輝は別の棚から用具を下ろした。
 馬酔木は何を下していいか分からず、困惑して周囲を見回していた。
 早夜は馬酔木に近づいた。「バックパックに下ろした荷物を整理して入れてくれ」
「バックパックって、肩掛けの袋ですね」
「合っているよ」早夜はうなづき、早夜はシュラフに手をかけて下ろした。
 馬酔木は二人が棚から下ろした荷物を整理した。大きめの荷物は持てないので、小さいアイテムを中心に丁寧に整理し、バックパックに詰め込んだ。
 早夜は荷物を入れ終え、脇にある戸を開けた。レトルトパックや缶詰が大量に入っている。レトルトパックを次々に取り出して敷いてある布に向けて投げた。
 馬酔木は水分が入っているレトルトパックを軽くもみ、不可思議な表情をした。「何ですか」
「食べ物だよ」一輝はレトルトパックを回収してはバックパックに入れ、早夜の方を向いた。「お婆ちゃん。量、多くない」
「常世の食料を食べると戻れなくなるからね、多くて丁度いいんだ」
 一輝は早夜の話に驚いた。「え、本当に」
「ウソです。でなければ、私は境界を越えて来ません」
「磯女とあたし達では食習慣が違うんだ。たった一人の孫だよ、何かあったら大変だ」
「たった一人の孫ですか」馬酔木はつぶやいた。
「ねえ、馬酔木さん。境界から先って何があるの」
 馬酔木は笑みを浮かべた。「馬酔木でいいです」
 一輝はうなづいた。「では馬酔木さん、先に何があるのですか」
「先、常世ですか」馬酔木は眉をひそめた。普段から住んでいる場所を相手に説明するのは難しい。「すみません」
「いいんです」一輝は作業に戻った。
「馬酔木か、食料がなくなったら一輝を即帰すんだ。いいね」早夜は馬酔木に声をかけた。
「はい」馬酔木は早夜の言葉に返事をした。
 一輝は食料と荷物を入れ終え、バックパックを立てた。「お婆ちゃん。服と水を入れると一杯だから、もう無理だ」
 早夜は空箱をまとめてビニール袋に入れた。「一輝、バックパックを家に持って行き。服と水諸々を入れるよ」
 一輝はバックパックを背負った。
「すみません、姿を隠す服はないのですか」馬酔木は早夜に尋ねた。
「何でだい」
「境界を突破した時、捕まってしまいます」
 早夜は掛けてある合羽の袋を取り出し、一輝に投げた。
 一輝は袋を受け取った。
「行く時に着るんだ」
「何でまた」
「磯女の言葉通りだよ」
 一輝は渋々うなづいた。
「行くよ」早夜は倉庫から出た。
 馬酔木は倉庫から出た。
 早夜は倉庫を閉めて社務所に向かい、社務所の和室に入った。
 部屋には奈津が用意した服や装備品が置いてある。早夜達は救急道具や服、大量の水筒をバックパックに入れた。馬酔木は丁寧にパッケージをして、薙刀をひもでバックパックに取り付けた。バックパックは大きく膨らんでいた。
 馬酔木は興味を持って、バックパックを持ち上げてみるが、動かない。
「懐中時計は持ったな」
 一輝は羽織っている上着から懐中時計を取り出し、二人に見せた。特に変化はない。
「奥宮で刀を取ってから境界に行く、いいね」早夜は外に出た。
 一輝はバックパックを持ち上げ、担いで外に出た。馬酔木が続いた。
 拝殿から鎮守の森を通って奥宮に向かった。
 一輝は重くても平然と歩いていたがよろけ、バランスを崩した。
「大丈夫ですか」馬酔木は一輝に手を出し、腰に触れた。
 一輝は一瞬、電気が走る感覚がしてうめき声を上げた。
 馬酔木は一輝の反応に驚き、手を引いた。
 一輝はバランスを戻した。
「あんたの服、相当電気が溜まっているね」早夜は馬酔木に話しかけた。
 馬酔木は衣を擦ったが、反応はない。「悪気から守る防護膜です」
「あたし達には刺激が強すぎる、気を付けな」早夜は注意した。
 馬酔木は自分の衣を手で軽く払った。
 奥宮に到着した。
 早夜は扉を開け、内部に入った。続いて、馬酔木と一輝が入った。二人が棺に近づいたのを確認すると棺の蓋を外し、入っている刀を拾い上げた。「なまくらだけど、鉄の棒だから殴れば死ぬ。無闇に抜くな、ついでに他人に渡すなよ」
 一輝はうなづき、刀をバックパックに結びつけた。
 馬酔木はバックパックに付いた刀を見つめた。余計重くはないか。
「次は岩戸だ」早夜は外に出た。
 一輝は外に出た。
 馬酔木は一輝がまだ動けると安心し、外に出た。
 一輝はバックパックを下ろし、袋から白い登山用の合羽を出して着た。体温が合羽と服との間に充満して暑い。手で団扇を作り、顔に向けてあおいだ。
 馬酔木は一輝に近づいた。「すみません、余計な手間をかけてしまって」
「気にしなくていい」一輝は頭のフードを深くかぶり、バックパックを背負った。熱気は徐々に合羽の隙間から抜け、涼しさを覚えた。
 奥宮を出て、分かれ道に来た。しめ縄が境界へ向かう側の鳥居に張ってある。
 早夜はしめ縄を丁寧に外し、鳥居から先に足を踏み込んだ。
 一輝は胸ポケットに入れている懐中時計を取り出した。記号が盤から浮かび上がり、赤く鈍い光を発している。熱はない。
 馬酔木は懐中時計に目を向けた。
「読める」一輝は馬酔木に尋ねた。
 馬酔木は首を振った。「薄いですね、読むには厳しいです」
 早夜は立ち止まり、二人を見た。二人は懐中時計を眺めている。「ぼさっとしてないで、行くよ」奥に向かった。
「はい」馬酔木は我に返り、駆け足で早夜の元に向かった。
 一輝も懐中時計をしまい、早夜の元に向かった。
 道は薄黄色の岩を切り開いた構造で、片側が断崖になっていた。断崖から潮の匂いと波の音が響いている。
 奥に進むと、開けた場所に出た。奥宮と異なった、堅牢な構造の木造建築が建っている。
「伝承では磯女が住んでいた場所になっている。実際に住んでいたかは分からないが、常世との境界になっているのは確かだね」
「何で分かるの」
 馬酔木は建築物の前に来て、壁をたたく動作をした。建築物の前に見えない壁があり、手を弾いた。
 一輝は建物の前に近づき、手を伸ばした。壁に当たった感触がある。
「懐中時計を出しな」
 一輝は早夜の指示通り、懐中時計を取り出した。懐中時計から放つ赤い光が強まっていて、記号が文字盤から浮かび上がっていた。
 記号はチョウが飛ぶのに似た動きで見えない壁に向かい、触れて溶けた。見えない壁が虹色に染まると水紋を発生し、砂に変化して周囲一帯に拡散する。周囲は海の底に入ったと錯覚する程、大きく揺らぎだした。
 馬酔木と一輝が驚く一方で、早夜は動じずに先を見つめていた。「行きな」
「はい」馬酔木は一輝の手を取った。「一輝さん、戻るまで手を離さないでください」
 一輝はうなづき、馬酔木の手を握りしめた。瞬間、手から電気が走る感覚がした。痛みに耐え切れずに手を引くが、馬酔木は一輝の手をつかんだ。痛みで手に力が入った。痛みは徐々に引く。安心し、力を抜いた
 馬酔木と一輝を連れて建造物に向かった。壁があった場所を通り過ぎると二人の姿が水紋のゆらぎを放ち、消えた。
 景色のゆらぎが消え、元の建築物がある光景に戻った。
 早夜は神妙な表情をして、きびすを返した。
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