第2話

文字数 13,141文字

 境界を越えた先は万華鏡で見た光景に似た、虹色のゆがんだ光であふれていた。
 一輝は自分の手を取る馬酔木の姿を見た。姿が大きくゆがんでいる。手を離せば終わりだ。馬酔木の手を強く握る。
 馬酔木は迷わず真っすぐ歩いている。一輝は手を引っ張る感覚だけを頼りに歩く。
 白い光が周囲を覆っていく。



 白い光が消えた。
 空は薄暗い青に染まっていて、地面には玉砂利が敷いてある。遠くには室町時代を想起する殿がある。馬酔木と似た姿をした二人の女性が境界近辺を調べていた。
 一輝は経験のない世界に戸惑いを覚えた。同時に荷物が重くなった気がした。肩ひもがずれたのだと判断し、調整した。
 馬酔木は一輝をつかんでいる腕を離し、二人に近付いた。
「馬酔木様」一人の女性が声をかけた。
 馬酔木は後ろを向いた。壁が大きく揺らいでいる。
「大丈夫です、心配をかけてすみませんでした」一輝の方を向いた。「境界が弱まった時に一人、迷い込んだ磯女を見つけました」
「境界の弱化前からですか」女性の一人はいぶ単衣を馬酔木に見せた。「ごめん、着方が分からないんだ」
「外とは服が違うんでしたね」馬酔木は脱衣室に入った。
 戸が閉まった。
 馬酔木は慣れた手付きで、一輝に単衣を着せた。単衣は普段から着ている磯女でも手間がかかる。着付けを手伝うのはありふれた作業だ。
 一輝は単衣を着終えた。馬酔木より背が低く、見た目の違和感はない。馬酔木の目線の先を見た。カゴに飾りと共にカツラが置いてある。
「変装のカツラを」馬酔木は棚に目をやった。黒髪の腰まであるカツラを被り、内蔵してある髪留めで止めた。
 馬酔木は一輝が被ったカツラを調整し、飾りを付けると一輝の姿を眺めた。他の磯女と似た容姿で安心した。
 一輝は軽く体を動かした。単衣は層が厚く、袖や足に干渉しているが柔らかく、重みがない。着替えとタオルをビニール袋に入れ、バックパックに入れた。
「では行きます」
「行くって」
「皇都です。内裏にいる大皇に会いに行きます」
 一輝はうなづき、バックパックを背負った。境界に入る前は普通に持ち上がったが、境界に入る前に比べて重い。軽くよろけた。
 馬酔木は一輝の動きを見て、心配になった。「大丈夫ですか」
「大丈夫、急に重くなったけど」
「気の影響ですね」
 一輝は眉をひそめた。
「私が外に出た時と同じです。力が入りにくくなっています」
「馬酔木の力は、常世で戻ったの」
「貴方達程ではないですが。案内します」馬酔木は一輝の手を取り、脱衣所から出た。
 一輝は電気が走るのかと力が入ったが、何もなかった。安心して力を抜いた。
 戸が閉まった。一輝は戸に木片を差し込んだ。
 棟から殿を通って庭から外に出た。
 通りは簡素な衣を着た妙齢の磯女達が行き交っている。
 一輝は一面に広がる世界を、目を丸くして眺めていた。何もかもが初めて見る光景だ。
 馬酔木は門の隣にある、人の乗っていない牛車に近付いた。
 牛車の隣で待機している牛飼童が馬酔木に近付き、話を進めた。懐から金属の板を取り出して渡した。
 牛飼童はうなづき、板に指で書き込みをして馬酔木に返した。
 馬酔木は一輝の元に駆け寄った。「牛車を押さえました」一輝の手をつかんで引っ張り、牛車の後ろに来た。
 牛飼童は牛車の後ろへ向かい、持っていたクビキを下した。
 馬酔木はクビキを踏み台にし、牛車の後ろから乗った。
 一輝も馬酔木に倣って、屋形に乗った。
 内屋形の内部は畳が敷いてあり、ひじ掛けの付いた座椅子が置いてある。天井には照明が点いていて、壁には無数の歯車が付いている。
 馬酔木は左側に座った。一輝は右側にバックパックを下ろして座った。
 牛飼童は二人が乗るとクビキにあるスイッチを押して後ろの簾を下げた。次に前に移動し、牛に乗った。牛が変形して車輪が現れ、蒸気機関車に似た形状に変わった。
 一輝はスダレを通して見える牛を見て驚いた。
「珍しいですか」馬酔木は一輝に尋ねた。
「牛が変形するなんて、すごいなって」
 馬酔木は眉をひそめた。「貴方の世界に車はないのですか」
「車はあるけど、変形はしないよ」
「土ボコリが入ると困りますから」
 一輝は馬酔木の説明にうなった。「内裏で何をするの」
 牛車は皇都前にある宿場町に向けて走り出した。
「大皇に話をして終わりです。大丈夫、すぐに帰れますよ」
「話してくれなかったら」
「証拠があるんです、話してくれますよ」馬酔木は余裕のある表情で返した。「と言いましても万が一があります。荷物を置く場所も必要ですから、まず宿を確保します」
 一輝は馬酔木の根拠のない自信に不安になった。
 門の前に来た。
 牛飼童は衛士に半透明の板を見せた。衛士は通行を許可し、門を開けた。
 牛車は門を通過し、皇都に入った。
 皇都はレンガで舗装していて、磯女と牛車が行き交う大通りを基準に、1町程の正方形を1区画のマスで構成している。
 牛車は奥へ進み、内裏の正門前で止まった。門は歯車がむき出しで付いている。牛飼童は牛から降りた。機械に変形していた牛は、元の牛を模した姿に戻った。
 牛飼童はスダレを開けた。「着いたよ」二人に話しかけ、クビキを車の前に置いた。
「ありがとうございました」馬酔木はクビキに足をかけて降りた。
 一輝も馬酔木に倣って降りた。
 馬酔木は衛兵の前に来た。「すみません。私は大皇、花苗の子で馬酔木と申します。大皇へ、供との謁見を望みます」懐から板を取り出して衛士に渡した。
 衛士は板を受け取り、板を取り出した。文字が板に浮かび上がり、馬酔木を見て照合する。合っていると分かり、顔を上げた。「大皇は今、墓宮に出向いていまして、内裏にいません」
「墓宮ですか」馬酔木は眉をひそめた。墓宮は特殊な領域で、高位職である墓守か司政官でない立ち入りが出来ない。
「戻る時間は」
「夕刻以降に戻ると聞いています」
 衛士の一人は、一輝に目をやった。「連れの方は」馬酔木に尋ねた。
「友人の行商です。母が探している品を見つけたとの話で、是非謁見をと」馬酔木は適当に返した。
「分かりました、託けをしておきます」衛兵は懐から符契を取り出し、半分に割った。最初から2つに割れる仕組みで、再会の時に照合して確認する仕組みだ。馬酔木に渡した。「皇都近辺の宿にいます。準備が出来次第、また連絡を」
 馬酔木は符契を受け取った。「伝達が完了次第、使いを出します」
「ありがとうございます」馬酔木は衛士に頭を下げ、一輝の肩をつかんだ。「宿に行きます」
「宿って」
「皇都の端にあります。遠方から来た人が待機する場所です」
「牛車は」
「使うまでもありません。歩いてすぐです」馬酔木はきびすを返した。
 一輝は馬酔木に続いた。
 衛士は二人の後ろ姿を見送った。二人が視界から消えたのを確かめると門の脇にある通用口を開けて内裏に入り、近くにいる役人に話をした。役人は急いで舎に向かった。



 墓宮は皇都から遠く離れた場所にある霊園で、皇都と同じ面積と区割りをしている。区域内は建物の代わりに慰霊施設と無数の墓が立っている。
 は神谷の奥は内裏がある。内裏にある院の縁側で一人の女性がツツジを中心とした庭園を眺めていた。女性は足まで伸びた紫の髪を結い、腰に2つの袋を結んでいる。
 側近が女性の元に駆けつけてきた。「大皇、皇都の内裏にいる衛士から託けが来ています」
 大皇は側近の方を向いた。「乱恥気騒ぎかえ。治安なら坊令に任せると良い」
「娘の馬酔木様から託けです。大皇が欲する品を知り合いの行商が手に入れたとの理由で、謁見を望むとの話です」
 大皇は眉をひそめ、符契を受け取った。馬酔木とは校に入った時に家を出ていて以来、ろくに話をしていない。符契には時刻と共に、馬酔木の名前ともう一つの符契の場所が写った。行商に覚えはないが、存在は気になる。「真か、委細承知した。衛士は何と返したか」
「連絡次第、滞在する宿へ使いを出すと返しました」
「貴の者共に体調不良を起こした故、政の集まりを切り上げると伝えよ。車を用意せい」
「すぐにですか」
「待ち人に余計な時間を与えるは失礼に値する」大皇は矢立と帳を出して指示を書き込んだ。書き終えると帳の一枚を破った。破った紙を側近に渡した。
 側近は頭を下げた。「直ちに列車を用意致します」引き下がった。
 大皇は顔をしかめた。馬酔木が境界の測候任務に入ったのは聞いているが、ヒトを連れて来るまでは読めなかった。



 馬酔木と一輝は内裏から大路から外れた堅牢な造りの宿が並ぶ区域に入った。牛車やカートを運搬している磯女達が行き交っている。
 一輝は慣れない土地での不安と、肩にのしかかる重みで疲労を覚えていた。
 二人は宿に入った。
 宿の入り口は飾り気がなく、江戸時代の宿に近い間取りをしていた。中央にある通路の右側は滞在に必要な物資を販売する店があり、左側はカウンターになっている。奥は客間で磯女達がくつろぎ、茶を飲みながら雑談をしていた。
 馬酔木はカウンターにいる受付に近付き、懐から板を取り出して差し出した。「すみません、空いてますか」
「理由は」受付は板を確認し、カウンターの脇にある本の束から1冊を取り出して開いた。墨書きの文章が隙間なく書き込んである。
「迷い人の捜索に伴う滞在です」馬酔木は平然と答えた。
 受付は相づちを打ち、ページをめくって筆を執って書き込んだ。「利用は二人か。一人は馬酔木様で片方が迷い人か」
「はい。戸籍票でも身分すら分からないのです。墓宮に向かい、記憶を取り出して調べます」
「墓宮か、墓守が許可を下ろしてくれるといいがな」
 馬酔木は適当に相づちを打った。
 受付は一輝をにらんだ。一輝は目をそらした。「迷い人よ。鎮魂による記憶整理の都合か、身分を失い記憶に支障をきたし流浪になるのも珍しくない。見も知らぬ者を警戒するのは分かるが、気を静かに持て。取っては食わん」受付は馬酔木の方を向いた。「坊令には話したか」
 馬酔木は首を振った。
 受付はうなった。「つかぬ質問ですが馬酔木様、まさか鎮魂を受けた罪人ではあるまい」
 馬酔木はうなづいた。
「馬酔木様の供だ、信用する」
 受付は符契と馬酔木が差し出した板を差し出した。「経費で引いておく」
「ありがとうございます」馬酔木は板を受け取った。
「案内はいるかね」
「不要です」
 受付はうなづいた。
 馬酔木は通路の奥に向かった。一輝は馬酔木に続いた。
 受付は二人を見て、書き込んだ本を閉じて元の場所に置いた。
 馬酔木は階段を登り、二階の通路に来た。「滞在にするにあたって、カワヤと井戸は外にあります。私が戻るまでの間、宿から外に出ないで下さい」
 一輝はうなづいた。見知らぬ土地だ、宿から外に出れば迷うだけだ。「さっき話した墓宮って、何」聞かない言葉に疑問を抱き、馬酔木に尋ねた。
「遷都の跡地を利用した霊園です」馬酔木は一輝の質問に答えた。
 二人は戸の前に来た。
 馬酔木は符契を戸のスロットに差し込んだ。符契が内部に入り込み歯車が回る音が響く。戸が自動で開いた。先には10畳程のスペースの和室になっている。
 一輝は靴を脱いで和室に入り、バックパックを下した。肩の重みからの開放に安心した。
 戸が閉じ、符契がスロットから抜き出てきた。馬酔木は符契を受け取った。
「馬酔木さ、いや馬酔木は」
「一旦殿に戻ります。大皇は夕刻に戻るとの話ですから、仕事を早く切り上げて戻ります」馬酔木は部屋から出た。
 一輝は外とを遮る障子の窓に近付き、手をかけて開けた。ゆらぎのある窓ガラスの格子がある。格子を開けると宿場の路地が見えた。
 路地は人々や牛車が行き交っている。空は太陽も雲もなく、濃い青に染まっていた。大皇に会って話をすれば、オニの死体の正体が分かる。すぐに終わると言い聞かせ、懐から懐中時計を出して眺めた。変化はない。時間は部屋にかけてある和時計と同じく、5時を示していた。



 馬酔木は牛車を探しに宿から大通りに向かった。二人の検非違使が一組の磯女を呼び止めたのを見かけた。検非違使は般若の面を被っていて、薙刀を背負っている。検非違使から目を背けて去った。
 二人の検非違使は話を終えると一輝のいる宿に入り、カウンターに向かった。受付は客を粗方さばき終えていて落ち着いていた。
 受付は検非違使を見て、包み隠さず顔をしかめた。厄介者が来た。「衛士様、ご用ですか」
「近い時間に迷い人がいると聞いた。一人は大皇の親族で、一人は膨大な荷を担ぐ怪力だと聞く」
 受付は机に積んである本から1冊を取り出して開いた。馬酔木の名前が書き込んである。「一人は迷い人と聞いていますが、はて罪人ですか」
「分からん、単なる確認だ」検非違使の一人は平然と答えた。
 受付は符契を差し出した。
 衛士の一人は符契を受け取った。「一人で十分だ、来なくとも良い」通路に向かい階段を上がった。
「行かんのか」受付は待機している検非違使に尋ねた。
「新人のくせに血気盛んでさ。来た途端にカチコミだって鼻息荒くして突撃だよ。無事に帰ってきたからいいけどさ。独断専行すると痛い目を見るって、勉強した方がいいよ」検非違使は甲を脱ぎ始めた。
 受付は検非違使の態度にあきれた。般若の面に付いているボタンを推した。面は機械音を立てて広がり、ゆるくなった。面を外して甲と共に置いた。任務中なのに甲を脱ぐのか。
 検非違使は脱いだ甲を置いた。簡素な単衣を着崩していて、やや乱れた髪を背中まで伸ばしている。「坊令ですら普通の格好してるのに、動きにくくて仕方ないよ。単なる身分証明で着こむなんて酷いよ」検非違使は長々と話を始めた。
 受付は検非違使の話を延々と聞いた。
 もう一人の検非違使は、一輝がいる部屋の前に来た。符契をスロットに差し込むと歯車が回転する音がして、戸が開いた。
 一輝は馬酔木が戻ってきたと判断し、窓から戸に目線を移した。馬酔木と異なり、甲を着て般若の面を付けた磯女が立っている。異質な姿に警戒した。
 検非違使は一輝の物怖じしない目に懐かしさを覚えたがすぐに我に返り、部屋の端に置いあるバックパックに目をやった。文様を刻んだ刀が差し込んである。「磯女ではないな」
 一輝は答えなかった。相手は自分を捕縛する為に来た。返答をしてもしなくても一緒だ。
「馬酔木が連れた者だと分かっている。何故、来た」
「社にあるオニの死体が何かを知る為だ」一輝は検非違使に答えた。自身の出自を知っているなら鬼の死体を知っている。「分かれば素直に出る」
 検非違使は一輝の手に懐中時計を持っているのに気付いた。境界の封印を外す鍵を持っている。境界を通過したヒトだ。「封を解いたか」
 一瞬で一帯の景色がゆがみ、真っ暗になった。
 一輝はゆがみに軽いめまいと同時に、既視感を覚えて次に何が起きるかを悟った。馬酔木と対峙した時と同じだ。
 景色は間もなく戻った。
 検非違使は筋肉質で着物を流した禍々しい鬼の姿に変わっていた。一瞬で一輝の目前に移動した。
 一輝は不意の行動に驚き、ひるんだ。
 鬼は一輝がひるんだ瞬間、緩んだ手から懐中時計を奪い取り、首をつかんで倒した。「お前が封を解いたか」一輝に顔を近づけて尋ねた。
 一輝の首は鬼の手で締まっている。酸欠と痛みで苦しみを覚え、顔がゆがんだ。鬼の姿は早夜の言葉から、幻影だと分かっている内心で言い聞かせたが、感覚は本物で、苦しさが理性を上書きして正常な判断を奪っている。
「他に何がある」
 鬼は一輝をにらみ、目の動きを観察した。ウソを付いていない。
 一輝は鬼の腕をつかみ、力を入れて握りしめた。姿を変え、感覚を植え付けても身体機能は変わらない。ヒトの力で磯女の腕の骨を折るのは容易だ。
 鬼は腕に痛みを覚えた。暗示をかけても力を保つとは相当な信念を持っている。賭けるに値するが、力を抑えねば余計な破壊を引き起こす。一輝をにらみつけた。
 一輝は鬼と目が合った。ツツジに似た文様が瞳孔に焼き付いた。文様は一輝の視界からは見えていない。文様が鈍い光を放つと、力が徐々に抜けた。
 鬼は一輝を放り投げた。
 一輝は壁にぶつかり、痛みでうめき声を上げた。痛みと同時に視界と意識が揺らぎ、真っ暗になった。
 元の景色に戻ると、鬼の姿は麗しい女性の姿になっていた。痛みは消えていたが、全身にしびれがある。こらえて立ち上がるも、酔った感覚がした。
 女性は一輝の動きを無視してバックパックに近付き、刀に触れた。刀に刻み付いた文様が浮かび、虹色に変化して女性を囲んだ。懐から真っ白な扇子を開いてかざすと、文様が扇子に染み入り、筆記に似た文字が浮かび上がる。
 一輝は一連の光景に驚きつつも、刀に目を向けた。文様が消えている。
 女性は一輝を見て、軽蔑に近い表情をした。「朕は花苗。童、主の語る鬼の死体、知る術は常世にない。境界を抜けて戻れ。境界は目の文様で開き、戻れば力は戻る」
 一輝は鬼への恐怖より、懐中時計と文様を取り戻す義務と使命が湧いて出てきた。感覚を振り切り、花苗に向けて拳を振った。
 花苗は一輝の拳を簡単にさばいた。
 一輝は花苗の行動に驚いた。磯女は体の弱さから受け止めず、殴り切ると予測していた。
 花苗は一輝の腕を引っ張り、簡単にひねって倒した。一輝は倒れた衝撃で痛みを覚え、うめき声を上げた。「力以外の手段を取らぬ野蛮さ、愚行と悟らぬか」哀れみに似た表情で、一輝を見つめた。
 一輝の全身に動悸が走り、体が震えた。恐怖ではない、敵わないと分かって屈した時の感覚だ。体にしびれが染み渡り、汗が体からにじみ出てくる。
「娘の馬酔木に内裏に戻ると伝えよ。お前には目付を置く。常世をさまよい、求めても絶望するだけぞ。意気地なく諦めて去ると良い」
 チリが花苗の周囲に集まりだし、一瞬で燃え上がった。炎が消え、甲を着た検非違使の姿になった。
 花苗は部屋から出た。戸が閉まった。
 しびれが一輝の体から消えた。
 一輝は立ち上がり、文様の消えた刀に近付きバックパックから外して手に持った。重く、片手で持ち上げるにしても負担がかかる。次にバックパックの背負いひもに手をかけ、持ち上げる。バックパックは動かない。歯を食いしばっても動かない。息が上がった状態でバックパックを見つめた。常世の影響で力が抜けているだけではない。花苗の影響だ。焦燥で汗がにじみ出てきた。
 花苗は戸から出ている符契を抜き取った。戸は自動で閉まった。懐から本を取り出し、書き込むと通路を降り、受付に向かった。
 受付では検非違使が受付に軽快な口調で話をしていた。
「金蓮、片は付いた」検非違使に話しかけた。
「終わったんだ、相手は」花苗が金蓮と呼んだ検非違使は、明瞭な口調で尋ねた。
「大人しくしている」
「終わりだね、宿舎に戻ろ」
「金蓮、お前に花苗の勅命が来ている」懐からしおりを挟んだ本を出して金蓮に渡した。
 金蓮は本を受け取り、しおりを挟んだページを開いた。真新しい文字が書き込んである。内容を読んで、嫌な表情をした。「ご飯は、寝床は」
「給仕は頼めば来る。同室で寝ると良い外で雑魚寝するより楽だ」
「アンタも同じでしょ」
「大皇を捜索せよと命令が来ている」
「アタシ一人でやれっての。普通さ、監視任務って二人でやらない。大皇は気まぐれで遊びに行っちゃうから、探さなくってもすぐ戻って来るって」
「金蓮」花苗は金蓮をたしなめた。
「分かってるよ、勅命なら逆らえないもんね」金蓮は不安な表情をした。「相手は暴れない」
「力は抑えている。うかつに手を出して傷物にするなよ」花苗は金蓮に符契を渡し、宿から出た。
 金蓮は受付の方を向いた。「てな訳でよろしく。甲は預かり所に置いといて」符契を受付に見せつけた。
「重いから金取るよ」
「墓宮にツケといて。墓守の金蓮って言えば分かるよ」金蓮は通路に向かった。
 受付はあきれた。
 金蓮は通路を経由して、符契を差し込んで戸を開けた。「ほんじゃ、お邪魔します」軽い調子で一輝の部屋に入った。
 一輝は呆然とした表情で、バックパックを見つめていた。
「監視任務で来たよ」金蓮は一輝に話しかけた。「随分暗いね。君、友達いないでしょ」金蓮は笑いながら一輝に話しかけた。
 一輝は拳を握って金蓮をにらんだ。
 金蓮は一輝の目を見て、引き下がって素早く身構えた。
 一輝は金蓮の表情を見て我に返り、拳を下げた。
 金蓮は構えるのをやめた。「気楽でいいよ、勅命で監視対象になるって、何やらかしたの。大皇のご飯でも食べた」金蓮は一輝に近付いた。汗の匂いが漂ってきた。磯女の匂いではない、閉ざしていた本能を刺激する匂いだ。金蓮はにやけて一輝の袖をつかみ、押し倒した。
 一輝は金蓮に抵抗したが、力が入らない。金蓮が仰向けになった体の上に乗っかった。開いている瞳孔と笑みに恐怖を覚えた。
 金蓮は一輝の瞳を見つめた。「いい匂いだね。剥がして食べてみたら、美味しいかな」
 一輝は体を動かすが、金蓮が両腕を握っていて動かせない。
 金蓮は一輝に顔を近づけた。一輝の瞳に入っている文様に気付いた。大皇の呪印だ。「何だ、大皇が取ってるんだ」残念な表情をして一輝から離れた。
 一輝は助かったと悟り、安心して体を起こした。「取るってなんだよ」
 金蓮は一輝の言葉に疑問を持った。本人は呪印が埋め込んであるのに気付いていない。自分の目を指さした。「文様、目に埋め込んであるよ。大皇が直に罰を与えるなんて、よっぽどだね」
「目に」一輝は驚き、目を擦った。痛みはない。確かに花苗は目に文様がと言っていた。
 金蓮は懐から手鏡を取り出し、一輝に見せた。一輝は自身の目を見た。ツツジの花に似た文様が瞳孔に写っている。
 一輝は驚き、何度も目を擦った。呪印は消えない。
「何やらかしたの」
 一輝は顔をしかめた。説明しても理解出来るか分からない。
 金蓮は笑った。「もしかして、常世の外から来たんでしょ」
 一輝は金蓮の言葉に驚いた。
「外を知っているのか」
「おかんから話聞いたよ、何したの。ねえ、話してよ」金蓮は一輝を揺すった。
 一輝はうなづいた。吐けば楽になると判断し、外から常世に来た経緯を話した。
 金蓮は話に驚かず、興味深く聞くと刀に目を向けた。文様はない。「駄目だったね。諦めて帰る」金蓮は一輝に尋ねた。
 一輝は首を振った。荷物を置いて出る気はない。
「ならじっとしてるしかないね」
「アンタは誰なんだよ」
「あたしは君を監視する任に就いた金蓮だよ。君は」
「星宮一輝」一輝は金蓮へぶっきらぼうに名乗った。
「星宮、変わった名前だね」金蓮は一輝を眺めた。
「トイレでも監視するの」
「トイレって何」金蓮は一輝に尋ねた。
 一輝は眉をひそめた。トイレなる言葉は、常世にないと分かった。「カワヤだよ」
「当たり前でしょ」金蓮はさも問題なく、落ち着いて答えた。
「だね」一輝は眉をひそめた。
 暫くの間、二人は沈黙していた。
 重苦しい空気が漂ってきた。
 一輝は気分が悪くなってきた。気を紛らわすきっかけを求め、ふすまを開けた。上段に布団が入っていて、下段に囲碁や将棋の盤や、ツタで編んだカゴが置いてある。
 金蓮は囲碁の盤に目をやった。「囲碁、出来る」一輝に話しかけた。重苦しい空気に耐えないのは金蓮も同じだ。
「お婆ちゃんから教えてもらっているけど」
「暇なら相手するよ」
 一輝は囲碁の盤と、奥に入っているゴゲを取り出した。フタを開けるとと白と黒の石が入っている。盤とゴゲを部屋の中央に置いた。
 金蓮と一輝は盤を通して一輝と対して座った。「漠然とやっても面白くないよね、何か賭ける」
「対局してからでいいよ」
 金蓮は眉をひそめた。「欲がないね」ゴゲの一つを手元に置いた。
 一輝はもう一つのゴゲを置いて対局を始めた。
 囲碁のルールは一輝が把握しているのと異なる点があるが、混乱する程ではない。一輝は基本に忠実に打ち続けた。
 金蓮は眉をひそめた。子供だからと侮っていたのがアダになった。一輝が優勢になった。
 対局が終わった。金蓮の顔は渋くなっていた。一輝の地が金蓮の地を圧倒している。
 一輝は自分の石を回収し始めた。
「勝ったから、アタシから何を取るか言っていいよ」
 一輝は立ち上がった。何をしてくれと言っても、浮かばない。「水があって、火が使える場所ってないかな。食事を取らないと」
 金蓮は一輝の言葉に意図を察した。「外なら使えるよ。給仕に頼めば持ってきてくれるのに」
「給仕」一輝はオウム返しに尋ねた。
「食事係、頼めば持ってきてくれるよ」
「食料ならある。自分で出来るからいい」一輝はバックパックを開け、レトルトのパックとコッヘル、ガスコンロとマッチと共にビニール袋を取り出した。
 金蓮は一輝が取り出した、見知らぬ道具と銀色のパックに興味を持った。「何に使うの」一輝に尋ねた。
「食事をするって言ったろ」一輝は部屋から出た。
「監視任務だから、一緒に行くよ」金蓮も続いて部屋から出た。
 一輝は戸を閉じた時に出てきた符契を回収し、金蓮の案内で奥にある土間に出た。
 裏庭は砂利が敷いてあり、手押しポンプのある井戸とカワヤがある。井戸の脇には竈門のある東屋があるが、利用している人はなく薪も置いていない。もう一方には縁側があり、磯女達がくつろいでいた。
 一輝は東屋に向かい、テーブルに道具を置くとコッヘルを持って井戸に向かった。井戸で水をくむとガスコンロを乗せ、マッチで火を付けた。次に水の入ったコッヘルをガスコンロに乗せ、レトルトパックを入れた。
 水は湯になった。
「星宮、何してるの」
 一輝は何も答えず、レトルトパックを眺めた。レトルトパックが膨らんできた。ガスコンロのつまみを回して火を消した。湯を釜戸の下に捨てると、熱くなった2つのレトルトパックをつかんで開け、コッヘルに中身を入れた。一つは白飯で、もう一つは玉子丼だった。スプーンを使って食べ始めた。
 金蓮は一輝の食事を羨ましく見ていた。
 一輝は金蓮の表情に気付き、食べるのをやめた。「一口、食べる」
 金蓮は勢いよくうなづいた。
 一輝はコッヘルとスプーンを金蓮に渡した。
 金蓮は玉子丼を一口食べた。甘みのある絶妙な味に衝撃を受けた。二口目を入れる瞬間、一輝がスプーンとコッヘルを奪い取った。金蓮は一輝を恨めしくにらんだ。
「一口だけだ」
「別にいいじゃない、ケチ」
「ケチでも何でもない、貴重な食料だ」
「食料って、他にもあるの」
「2、3日分はある」
「同じのが」
 一輝は眉をひそめた。「同じだと飽きるから、別のが入ってる」
 金蓮は一輝の言葉に驚き、肩をつかんで揺らした。「囲碁で勝ったら頂戴」
「給仕が持ってきてくれるんじゃないのか」
「給仕が出す食事って、少ないんだよ。店で買うとすごい高いし冷たいし。好きな時にあったかい料理が出来るって、すごいんだから」
「勝ったら、何をくれるんだ」
 金蓮は一輝の言葉に詰まった。差し出す装備品と言えば甲位しかないが、一輝が欲しているかは分からない。「服でいい」
 一輝は顔をしかめた。服をもらっても使い道はなく、相手が脱ぐのを楽しむ趣味もない。
「勝ったら任務、切り上げる。帰るから」金蓮は強く訴えた。
 一輝はため息を付いた。「仕方ないな」渋々了承した。馬酔木が戻ってきた時に説明するのが煩わしくなる。弱いし、帰ってくれるなら受けていいと判断した。
 金蓮は大喜びをして、一輝の手を取った。「すぐやろ」
「飯を食い終わってからだ」一輝は手を差し出した。
 金蓮はスプーンを一輝に渡した。
 一輝は食べ終えた。金蓮は一輝が持っている、米粒の付いたコッヘルを羨ましく見つめていた。井戸に向かい、くんだ水をコッヘルに入れた。
「捨てる場所ある」金蓮に尋ねた。
 金蓮はカワヤの隣りにあるダストボックスに似た設備を指で示した。
 一輝は設備の前に来た。扉は閉じたままで、隣にスロットがある。
「符契を入れるんだよ」金蓮は一輝が持っている符契を指し示した。
 一輝は符契を取り出し、スロットに入れた。符契はスロットに格納し、歯車の回る音がして戸が開いた。土が入っていて、生ゴミの匂いはない。
「中身、捨てちゃっていいよ」金蓮は一輝に説明した。
 一輝は手でかき回してコッヘルに溜まった汚れを取り、設備に流した。こびりついた汚れは懐から取り出したティッシュペーパーで拭き取り、設備に捨てた。戸を閉めるとスロットから符契が飛び出た。符契を受け取り、竈門に向かった。金蓮が空になって潰れているレトルトパックに興味を持っている。
「何か」
 金蓮は一輝をにらんだ。「囲碁」
「片付けるから待っててよ」金蓮が持っていたレトルトを取り上げてビニール袋に入れ、ガスコンロを分解して片付けた。
 金蓮は一輝の行動を眺めていた。片付けているのを邪魔すれば、勝負までの時間が延びる。
 一輝は片付けを終え、宿に戻った。
 金蓮は一輝の隣に向かい、部屋まで付いて行った。
 二人は部屋に入り、囲碁の対局を始めた。
 一輝は簡単に勝てると侮っていたが、金蓮は本気を出してきた。簡単に盤石を固め、一輝の目を潰していく。打ちの速さと正確さに驚いた。
 対局を終えた。金蓮の圧勝だった。
 金蓮は満面の笑みで一輝に顔を近づけた。「勝ったから頂戴」
 一輝は仕方なく、バックパックからレトルトのパックを一つ取り出した。
 金蓮はレトルトパックをひったくった。「もう一勝負する」
「もう十分だよ」一輝は適当に返した。技量が違いすぎる。負け続ければ食料がなくなる危険があり、帰りざるを得なくなる。
「やる」金蓮は一輝の腕を取ってにらんだ。
 一輝は腕を振って金蓮の腕を解きにかかるが、解けなかった。力が落ちているのだ、従うよりない。「分かった」囲碁の盤を見つめた。鼓動が強まる。本気で挑まないと負ける。負ければ滞在期間が短くなり、鬼の死体は何者なのかを知る機会を失う。
 金蓮は得意げな笑みを浮かべ、囲碁に臨んだ。
 二人は対局を再開した。



 馬酔木はふすまで区切った、膨大な量の本で埋まっている部屋で机に向かい、本を開いて半透明の板を通して内容を読み込んでいた。殿の境界測候と監視任務に就き、関連する出来事を調べるうちに、母は物心がつく前に境界から出て死に、母とみなしていた大皇が祖母であったと知った。
 外の環境に馴染めずに客死した可能性も、野蛮やヒトの手にかかった可能性もある。何にせよ、外の出来事から大皇が封をかけたのは間違いはない。では何故、封を外す権利を、懐中時計を相手であるヒトに与えたのか。仮説の捻じれに混乱してきた。頭を整理する為、筆を執り白紙の本を開いて書き込みを始めた。
 壁に設置してある歯車が動いた。
 馬酔木は音に気付き、ふすまを見た。ふすまが開いていて、同僚と衛士が立っていた。
「馬酔木様、衛士が大皇より勅命をを承っていると」
 馬酔木は衛士の腰に目をやった。2つの袋を結んでいる。目を細めた。「出て」同僚に声をかけた。
 同僚は衛士に目をやった。衛士は馬酔木と目が合ってうなづいた。部屋を出た。
 天井の歯車が動き、ふすまが閉じた。部屋は閉鎖した空間になった。
「お婆様、何の用ですか」馬酔木は顔をしかめた。衛士の体からチリが飛び散り、花苗の姿に変わった。
 花苗は懐から扇子を取り出し、開いて馬酔木に見せた。
 馬酔木は扇子に書いてある文様を見て驚いた。刀に刻んである文様と同じだ。
「お婆様か」花苗は馬酔木の反応を見て、笑みを浮かべた。「外よりヒトを連れて来おって」
 馬酔木は驚いた。「一輝に何をしたのです」強い口調で花苗に迫った。
「かの名は一輝と称するか」花苗はにやけた。「境界からヒトが来たと聞き駆けつけてみればタダの童、落とすのは容易かったぞ」
 馬酔木は顔をしかめた。母の死因を迫る証拠が、刀の文様が相手の手の内にある。管理していた一輝と接触し、危害を加えたのだ。「殺したの」
「目付の気分次第よ。用があるなら」
 馬酔木は花苗が話をしている途中で半透明の板を机に置き、ふすまを開けて駆け出した。
「話を聞かんのは変わらずよの」花苗は開いたままのふすまと、廊下を駆ける馬酔木の後ろ姿を見た。
 同僚が廊下から駆けつけてきた。「馬酔木様、何が」ふすまの先に目を向けた。花苗がふすまの先にいる。
 花苗は同僚と目が合い、笑みを浮かべた。「朕に何か付いているかえ」
「大皇」同僚は花苗を恐れ、引き下がった。
「恐るるでない。内裏まで案内を頼もう」
「近衛を呼んできます」同僚は急いで廊下へ走り去った。
 花苗は同僚の態度を見て、単衣の袖に触れた。馬酔木に案内を命じれば良かったと後悔した。
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