第5話  リリスと魔王

文字数 14,253文字

 四度目の朝が来た。
 エルハルトが言った事は嘘だったのだろうか。迎えに来てくれるはずの彼、グレコは来なかった。それに実の兄でさえも。
「………………」
 コレットの信じていたものがささくれ、今にも引き裂かれそうだ。
 自宅はマンホールだからどこからでも帰れるはずだが、エルハルトは許さず、外にも出してくれない。
 本当はグレコを連れてくる目的ではなく、自分を監禁して楽しむために連れて来たのではないかと錯覚を起こし始めた。
 実際、人間社会でも少女を誘拐して監禁し、楽しんでいる男もいる。
 エルハルトもその中の一人だと思ったり、
 エルハルトが仕事でいなくなると、とたんに孤独になり、ほかの事を考える。
 みんなに裏切られたと不安になる。
 高級な布団の中でまどろみ、不安を忘れるためにまた眠る。



 約、一日前。
 ガンガン
 郊外に建つアスモデウス公爵の屋敷の門が叩かれた。
「ちはー、水道局です」
 市役所のロゴが入ったブルーの作業着のガタイのいいニイちゃんとネエちゃんが、工具(?)の入った巨大な麻袋を二人で持って門の前で立っていた。
「水道の定期点検に参りました」
 ニイちゃんが威勢のいい声で目付きの悪い黒服の門番に告げた。
「定期点検の連絡なんか届いてないぞ。帰れ帰れ」
 門番は薄く門を開けて、二人を汚い物を見るような目つきで「しっしっ」と手を払った。
「そーは行かないんですよぉ。こちとら個人事業で来てる訳じゃーないんすからね」
 バン!
 ネエちゃんが素早く動き、門番の頭を片手で掴み、もう片方は門に手を掛ける。
「門に挟まれて首が取れて、医療保険は果たしていくら下りるだろうか?」
 彼女の瞳は真剣だった。ちょっぴり殺意も感じられる。
「はい、すいません! 今開けます」
 半泣きになった門番はリモコンを押して門を開放した。
 ごごごごごごごごごご……

 怪しい水道局のお兄さんとお姉さんは麻袋を台車に載せ、水道管を点検する振りをしながら地下へ進んだ。
 ついでにすれ違う屋敷の者達の属性や数を確かめながら……。
「ご苦労様です」
 すれ違うメイドに挨拶をされながら先を進む。この屋敷の元栓は地下三階にあるみたいだ。
「あれも使い魔か?」
「左様」
「……くう~勿体ねえ。可愛いのに」
「アスモデウスの趣味なのだから仕方なかろう、フン」
「あ、すねるなよ」
 小声で会話をしながら貨物運搬用のエレベーターに乗り込む。
 ガックン
 閉じるボタンを押すと、エレベーターの照明が消え、激しく上下に揺れた。
「おわっ」
 足がもつれ、ヒューゴの水道局の帽子が落ちた。
 台車の上の麻袋が幼虫のように蠢き、中からグレコが顔だけ出した。
「アスモの嫌がらせが始まったみたいだね」
 と、グレコが言った途端、
 ガタンガタン
 またエレベーターが揺れた。
「な、何か上で嫌な音がするんですけど?」
 メリメリメリメリ……
 ぶちっ
 エレベーターのワイヤーが切れる音だった。
「構わないで素直に落ちとくんだ!」
 グレコが強い口調で叫んだ時、降下はもう始まっていた。
「ぎゃああああああああああああああああ」
 天然フリーホールと共に、ヒューゴの悲鳴もたなびきながら地の底に落ちていった。   



「コレット様、お茶の時間でございますわ」
 カイがティーセットとケーキを持って現れる。
「………………」
 コレットは視線を上げる事は無かった。
「元気ないですわねぇ」
 テーブルにケーキの皿を置き、カップにお茶を注ぎながらカイはコレットの顔を覗き込んだ。
「お人形さんみたい」
 思ったままの事をカイが言うと、
「もー飽きた。もー帰りたい」
 と、ドレスの袖をひらひらさせながらコレットがぼやいた。実際、エルハルトが新しい服や、貴金属を持ってきても、メイド達が美味しい食べ物を持ってきてもときめかなくなってきていた。
「そればっかりですわ。そんな事より今日のティータイムはザッハトルテですのよ」
 よく見るとケーキはホールごと置いてあった。つやつやのチョコレートがコーティングされただけのシンプルなつくりに、同じチョコでできたバラが小さくあしらってある。
「……これを一人で食べろと?」
「はい! チョコレートお好きでしたよね?」
 何の曇りも無い表情でカイが答えた。
「いらない」
「どぉしてぇ?やっぱり、あたくしが運んだ物は怖いですか?あの時みたいに麻酔と睡眠薬は混ぜてませんわ」
「…………」
 嫌そうな表情のコレット。
「今日は丹精込めてあたくしがお作りしましたのにぃ」
 悲しそうな瞳をするカイが可愛く見えてきて、「しょうがないな」と小さくため息をつき、
「一緒にお茶しようよ」
 コレットは彼女を誘った。
「そ、そんな、できませんわ。エルハルト様に見つかったら、お仕置きされてしまいます!」
 カイは激しく首を左右に振りまくる。
 使用人は基本的に、主人や来客の者と席を共にする事は禁じられているのだ。
「お仕置きって?」
 仕草が面白くて詳しく聞いてしまう。
「あたくしの着物の帯を独楽のように廻して解いてしまうのです……」
 がたがたと小動物のように小刻みに震えるカイ。考えただけで恐ろしいのか、テーブルの下に隠れて小さく丸くなっている。
 その先は何も言わなかったが、
「あははは!大丈夫だよ、そんなお仕置きあたしが受けてやるよ」
 コレットはろくに考えずに笑い飛ばした。
「いけません、世界がぐるぐる回って見えてとても怖いのです!」
「あははは!」
 笑いながらカイに席を勧め、コレットは呼びのカップにお茶を注いだ。
「そんなの、独りぼっちになるよりずうっとマシだよ」



 再び一日前。
 グレコは地下水路に住んでいるドラゴンと戦っていた。
「ギャアアオオオオオウ!」
 咆哮が水路の彼方までこだまし、空気を振動させる。
 ズズン
 大木のような尾がグレコめがけて振り下ろされる。
「ひぃいいい!」
 すくみ上がるヒューゴと一緒に宙に逃れるが、強烈な水しぶきから逃れられない。
 ザッパアァァァァァァァァァン
 水の衝撃で水路の壁が抉れた。
「ギャアアオオオオオウ!」
 ドラゴンは興奮して暴れ、水路を支えていた柱までもなぎ倒した。
 ドカーン
「あわわわわわ……やっぱり手を出すの止めれば良かったのに」
「何を弱気になっている?コレットの兄なのに情けないぞ」
 アイシャは作業着の上着をドラゴンの顔に向かって脱ぎ捨てその上から魔法弾を放った。
 シュビーッ
 容赦なく命中する。
「グギャーーーーーーーーっ」
 ドンドン
 ドラゴンが顔面を気にしながら二、三歩たたらを踏んだ。
「ミザリーちゃんを抑えとけば、少しは戦闘が楽になるさ」
 全身を水浸しにしたグレコがドラゴンに向かって突っ走って行った。
 ミザリーちゃんとは、アスモデウス公爵のペットのドラゴンであり、乗り物の名前だ。ちなみに水路で暴れているのがミザリーちゃん。
「大人しくしろ」
 グレコは魔法でドラゴン用の首輪を練成した。ミザリーちゃんを拘束することで、竜騎士であるアスモデウスは武器を一つ失う。
 ずずず……
 ミザリーちゃんの影が動いた。
「ギャアオォオウ!」
 咆哮し、暴れる動きとは違った独立した動きの影がミザリーちゃんの体を離れた。
「そこまでだおチビちゃん」
 腹の底に届く胴間声が水路に響いた。
「うわぁ!」
 グレコの脚が影に捕まえられ、引きずられた。
 ずずずずずず……
 天井に留まる影。グレコは天井にぶらんと逆さにぶら下がった。
「うちのミザリーに何をする!」
 影が実態を表し、ドラゴンの飼い主、エルハルト・アスモデウスが、三つの頭(牡牛、人間、牡羊)を持った魔物の姿でグレコを捕まえていた。
「こんな所でもう、ボス出ちゃったよ……」
 エンディングは近いのかよ?と思うヒューゴはできるだけ遠くに逃げようと防御しながら水路の奥へ走った。
「久しぶりだね、アスモ。僕の恋人を迎えに来るついでに、君の大好きな嫌がらせをしに参上したよ」
 宙吊りのままグレコが答えた。
「軽口叩いてた割には随分とチープな嫌がらせだな」
 エルハルトは人間の姿で玉座に腰掛け、足を組んだ姿勢でグレコを見下した。
「忍び込まなくても、正面から入れてやったのに」
「僕はちゃんと玄関を通って屋敷に入った」
 グレコは周囲を黒服のガードマンに固められながら真実を語った。
「ふっ、それが嫌がらせか?」
「来客用の玄関にギロチンを置くのはどうかしてるな。ドアを開けたら断頭用の刃物が振ってくるそうじゃないか」
 扮装して玄関を通った時に、メイドが他の職員通過時に玄関のギロチンを制御しているのをチラッと目撃していた。
「絨毯を踏めば槍が飛んでくるし、階段を上りきったところで落とし穴に落とすし、忍者屋敷でも真似たのか?エレベーターも悪趣味だったよ」
 エルハルトは爆笑した。
「ははははははははは!素直に入れば全てのアトラクションが見れたものを、勿体ない」
「君の道楽につき合わされるのは僕の趣味じゃないからね」
 ぎら……
 グレコの瞳が金色に変わり、エルハルトを睨み付ける。
 周囲の空気が揺らぎ、強い瘴気に曝された下級の魔物は全て塵と化した。
「吸魔(アランジュ)か」
 瘴気の影響の無いエルハルトは座った姿勢のまま、グレコが次々と部下を喰らう姿を観賞していた。
「昔の感覚でも戻ったのか、ルシファー」
 エルハルトはかつての皇の姿を見て、触発されたのか徐々に魔物の姿に体を変化させていった。



 十時間前、
「くっそ!どうしろっていうんだ?」
 ヒューゴはアイシャの手を引いてドラゴンから逃げ続け、水の迷宮を彷徨っていた。
「ネジが切れそうだ」
 走りながら、動きが鈍くなったアイシャがぽつりと言った。
「なにーーーーーーーっ?」
 走りながら器用にヒューゴの目玉ががーんと飛び出す。
「ヒューゴ、私を置いて逃げろ……」
 アイシャはたちまち瞳の焦点を失い、足をもつれさせて倒れた。
 バシャン
「アアア、アイシャさーん?」
 倒れられた勢いにつられてヒューゴも体勢を崩してしまう。
「私に構わず……、御前様と……コレットの所……へ……」
 ネジが完全に切れたアイシャはヒューゴの瞳を見つめながらただの人形に変わってしまった。
「ちょっと、ねえってば、起きろよ!」
 アイシャの肩を揺さぶるが起きるはずもない。試しに胸に付いたゴムボールを鷲掴みにしてみるが反応が無い。マネキンのように固まったままだ。
 ズシン……
 鱗を持った柱のような物体ががヒューゴの真横に振り下ろされた。
「………………?」
 ヒューゴは「まさか」とか思いながら覆いかぶさる影を見上げた。
「アイヤーーーーーーーーーーーーッ!」
 体に似合わず臆病なヒューゴの悲鳴がドラゴンの耳をつんざいた。

 ばしゃばしゃ
 ヒューゴはアイシャをおんぶして必死で走っていた。魔族と関わった事に後悔しながら、自分の運命に翻弄されながら、妹の無事を案じながら。
「ひぃぃ~っ」
 体格がいいので持久力が続くのか、もしくは巷では「火事場の○○力」と呼ばれる生きる事への執念か、走るスピードは変わらない。
 そんな体力自慢の彼にもピンチは乗り切れなかった。
 ざざざざぁぁぁぁぁぁぁぁ
 袋小路に追い詰められた。後方には上から流れ落ちてくる上水道の激流。
「グルルルルルルルル」
 ドラゴンが喉を鳴らしてにじり寄ってきた。
「……ア、アイシャ」
 テンパリ続けているヒューゴはアイシャを高くなっている床に降ろし、心肺蘇生を始めるが、相手は人形なので意味が無い。
「アイシャーーーーーーッ!」
 悲痛な叫びが激流の音でかき消されそうだ。
「グルルルルルルルル」
 ドラゴンの熱い鼻息が蒸気となって辺りの視界を悪くする。
 コン
 アイシャを抱きしめた時、彼女の作業着のウェストポーチに硬い物が入っている事に気付いた。一か八かポーチを開けた。
「美人と一緒に心中するのは本望だが、こんな所で野垂れ死んでたまるかあああ!」
 ヒューゴはドラゴンに銃を向け、引き金を引いた。
 ガァン!
 銃声が激流の音に勝り、水路に響いた。




 八時間前、
 エルハルトの蛇の尾が鎌首をもたげながら敵を見据えている。
「しゅーしゅー……」
 蛇は未だ興奮している様子で毒の混じった唾液を口から垂らしていた。
 不完全な人間の姿のエルハルトは黒曜石の床にうつぶせになって倒れている子供を六つの目で穴が開くほど見つめていた。
「お前はこんなものだったか?」
 かつての皇帝(ルシファー)の姿は、彼の脳裏を掠めていくが、すぐに砂の城のように崩れては消えていく。無残な地獄の支配者の抜け殻が目の前で息も絶え絶えに這い蹲って呼吸している。
 子供の前髪を掴み、引きずり起こした。
「……げほっ、ぜえ、ぜえ……」
 地獄の王として恐れられたルシファーは血を噴き出しながら、左目を潰されながら、公爵の顔を睨み続けていた。
「魔力も失って翼で逃げることもできないか……」
「…………げほっ、げほっ」
 内臓が傷付けられているので血の嘔吐を繰り返している。
「ところで、他の魔王には会ったか?」
 突拍子も無いところでエルハルトが質問した。
「……あれ以来会ってない」
 グレコは目を伏せ、血を床に落としながら答えた。
「逃げるのが精一杯で……」
 その言葉を聴いたエルハルトに、手の力が入らなくなり、グレコを床に落としてしまった。
 どさ
「……………………」
 エルハルトは破れた紺のシャツをグレコの顔に掛け、背を向けて部屋を出て行った。
「誰か、この者の始末を!」



 三時間前、
「コレット、今日の君は一層チャーミングだ。寝顔も愛しかった」
 枕元にエルハルトが座っていた。
「エルト……おかえり」
 寝乱れた髪を梳かれたコレットはぼやけた眼差しで彼を見つめた。昨夜、彼は出掛けていたので、あえて「おはよう」とは言わなかった。
「寂しかったかい?姫君」
 エルハルトは切ない表情でコレットを見つめ、彼女の前髪を上げて額にキスをした。
「………………」
「俺はとっても寂しかった」
 コレットの返事も聞かぬまま、彼女に覆いかぶさり、抱きしめる。
 男の強い力に、香木の香りに安らぎを覚えながら、ほんの刹那、コレットはエルハルトに身をゆだねた。
「……コレット、俺の愛人にならないか?」
 エルハルトは本気でコレットの少女の魅力に惹かれていた。
「それはできないよ。あいつを裏切る事になるから」
 コレットの瞳にエルハルトは一切映っていなかった。彼女には別の魔王の姿が、地獄帝国始皇帝ルシファーの影が映っている。
「…………そうか、」
 エルハルトは何もしないコレットから離れた。肩をすくめ、椅子に掛けてあったジャケットを掴んだ。
「いかなる女性を惑わすアスモデウスの名を持っていたとしても、あなたの心は動かないのだな、リリス」
 彼もまた、コレットの陰をしたかつて愛していた女性の姿を瞳に映していた。
「エルト、もう行くの?」
「デザインの仕事がまだ残っているからね」


 五時間前、
 バシャン
 ヒューゴは右足を引きずり、アイシャを背負いながら近くの階段を目指していた。ドラゴンとの戦闘であちこち擦り剥き、血が噴き出している。銃に弾丸は一発しか残っていないが、常に右手に構えていた。
「ちきしょーっ、脚が重てえ!」
 ヒューゴの通った水の通路に血の濁った線が残る。
「あんたを背負ってるせいじゃないからな、決してな」
 返事のできない女の形をした塊に話しかけた。本当は背負っているアイシャの重量は普通の女よりも重く感じた。
 階段にたどり着き、一段一段足元を確かめ、引きずりながら上の階を目指した。




 カイはエルハルトの事を良く喋った。
「それでエルハルト様は……」
 嬉しそうな彼女の表情。夢見がちな少女の瞳に星がたくさん瞬いている。「怖い人」と言っておきながら、エルハルトにほのかな思いを寄せているようだ。
「あなたがいらしてから、エルハルト様はあなたしか見つめなくなりましたの。凄―く羨ましいです、ああっ、あたくしもあのお方の瞳を独占したい……!」
「へ? そうなの?」
「はい、以前は他の女の人の事を考えていらしたから」
 どこか寂しげなカイの表情。
「エルトには奥さんがいるの?」
 起き抜けに「愛人にならないか?」と誘われたので気になる。
「いいえ、ずうっと独身の筈です」
「?」
「恋人は世界中にいらっしゃいますが、奥様と呼べるような女性は一人も……」
「???そう……」
 心に引っかかりながらケーキを紅茶と一緒に飲み下した。
「他の女の人って誰?」
 コレットはつい好奇心でカイに話を掘り進ませる。
「あたくしも詳しくは知りません、ただ、お機嫌がよろしい時にベッドの上でお話をしてくれた事があります」
「……ベッドの上って?」
 カイの言動にぎょっとしながら聴く。
「たまにあたくし達メイドはエルハルト様の玩具や慰み者になりますの」
 さらっとした答えに、コレットの顔は一瞬で真っ赤になった。あんな事やそんな事をされるのかと思うと、自分にも身の危険を改めて感じないでもなかった。今までエルハルトに何もされてなかったのが不思議な位だ。
「……ちょ、あんたはそれでいいの?」
「はい?あたくしはあの方に愛されなくても充分幸せですわ」
 彼女の歪んだ愛情に少々心を痛める。
「……………………」
「その女性はリリスと言うそうです。かなり昔、エルハルト様に付いていらしたモデルさんだそうで……」
 それ以上の事はカイは詳しく知らなかった。
 コレットの姓は「リリス」なので、やっぱり、このリリスという女性と関係があるのではないかと思った。

 部屋の外が騒がしくなって、コレットの落ち着きが無くなってきた。
「ねえ、外に出ちゃ駄目?」
 もしかしたらグレコがやっと自分を迎えに来たのではないかと期待していた。
「いけませぇん。あなたは一応、人質なのですよ? エルハルト様の許可が下りるまでお部屋の外に出る事は禁じられています」
 カイの表情が曇った。
「……!」
 思いついたように窓の外の景色を見るが、コレットの視界の中に入るのは見慣れた下界の庭と、遥かに見える市街の建物の景色だけだった。
 外は何の動きも無かった。
「ほら、何もありませんわよ」
 と、カイ。
 それでも屋敷は妙な空気に包まれていた。


 二時間前、
「はぁっ、はぁっ」
 ヒューゴはアイシャを抱え、倉庫の奥に身を潜めていた。
「犯罪者の気分だぜ。な、アイシャ」
 水を全身に被り、更に足に怪我をしたせいで熱が上がり、全身の震えが止まらなくなっている。
「………………」
 アイシャはヒューゴの問い掛けにも答える事は無く、瞳孔が開いたまま中空を見つめ続けていた。
「……俺、怖いよ、妹やあいつの無事を確かめに行くの……」
 せめて、会話の相手に反応が欲しかった。
 孤独で息が詰まって、死んでしまいそうだ。
「はぁっ、はぁっ……」
 アイシャを抱きしめ、震えが来るのを押さえようとする。柔らかな肉人形の感触はどこか懐かしい安心感と同時に、意識を遠のかせる。
 ぎいっ……
 倉庫に光が差し込み、ヒューゴの意識が少しだけ戻った。
「やあ、絵描きさん、こんな所にいたのか」
 気が付けば、意外な表情でエルハルトがヒューゴの目の前で立っていた。
「大将、酷いぜ、魔王だったなんてな」
 ガチャ
 いきなりヒューゴはエルハルトに銃口を向けた。
「どうした? 俺に銃を向けても効かないぞ」
「妹は無事か?」
 荒い息をしながら肩を上下させる。
「ああ、今のところは何も」
 エルハルトは真顔で答えた。冗談を言っている訳ではなさそうだ。
「そっか……ならいいや……」
 少し安心したのか、ヒューゴの瞳が白くなり、気を失いかけた。
 ガッ
 エルハルトの蹴りがヒューゴの頬を直撃した。
「ぶっ!」
「気を失ってもらっては困る」
 エルハルトはしゃがみ込み、ヒューゴに視線を合わせると、彼の顎をつまんだ。
「俺がお前に聞きに来た意味が無いだろう」
 鬼気迫る視線がヒューゴの網膜を襲う。
「リリスの意味を知っているか?」
 その質問にヒューゴは躊躇いながら、
「おう、俺の苗字だからな」
 肯定して答えた。
「コレットには教えてねえけど、魔王の妻ってやつだ。お陰で俺達は人間なのに親戚に魔王扱いされてる」
 胸糞悪そうに吐き捨てる。
「先祖にリリス・リリスという女がいるだろう?」
「さあ? ニアミスだが、俺の母親はリリムだ。それしか知らん。あの女も消えたから詳しい事はな」
 期待している答えとは違い、エルハルトは凄い形相でヒューゴを突き放し、立ち上がった。
「魔王の妻がもう一人……」
 エルハルトはうわごとのようにつぶやき、ふらふらと後退した。
「ああ、男だけどな」
 頬の痛みで意識がはっきりしてきて軽口を叩くヒューゴ。
「俺と結婚してみる? アスモデウス公爵」
 考えただけでも身の毛もよだつが、ヒューゴはろくに考えもせず言い放った。
「わはは! 俺がお前に永遠の愛を誓えば地獄の実権が手に入るというのか! いかに悪魔らしい考えだ」
 エルハルトは爆笑しながら感心する。
「おえ、言うんじゃなかった……」
 どうやら「淫欲」の罪を背負った魔王はどちらでもいけるクチみたいだった。
 ずずず……
 ヒューゴの背後にあった影が蠢き、目の前のエルハルトが消え、
「コレットの求婚に失敗したら、お前を花嫁に考えてやってもいい」
 アスモデウスがヒューゴの肩を抱きしめ、頬ずりした。
「ごめんなさい勘弁して下さい……」
 ヒューゴの体温が急激に下がり、涙目になった。口は災いの元である。


 広間に子供用の棺が静かに運び込まれた。
 目の部分だけくり抜かれた頭巾をかぶった黒服達が血まみれの少年の体を持ち上げ、ぞんざいに棺の中に放り込んだ。



 急に心臓の鼓動が早まり、コレットはいても立ってもいられなくなった。押さえようのない胸騒ぎが、誰かの危険を知らせている。
「もー我慢できない!」
 急に椅子から立ち上がり、広すぎる監禁 部屋から外に出ようとドアに向かった。
「コレット様! 駄目!」
 カイが慌ててコレットの二の腕を掴むが、
「放して!」
 振り払い、ドアを開けようと手を伸ばす。
 ガシッ 
「行っちゃ駄目です!」
 必死になったカイがコレットを後ろから羽交い絞めにする。
「これ以上待っていたら、あたしボケ老人になっちゃうよ!」
 振りほどこうと抵抗するが、カイの締め付けはきつく、ドアの外に出ることを許してはくれない。
「駄目ですう! エルハルト様に怒られてしまいます」
「ふんぐぐ……」
 首を腕で締め付けられ、鼻と口を着物の袖で押さえつけられても、コレットは顔を真っ赤にしながら耐えた。
「エルハルト様、怒ったらとても怖い!」
 涙声で引き止めるカイの表情は怯えと、エルハルトに対する忠誠心や恋心が入り混じった複雑なものだ。淫欲の魔王に絶対服従を誓い、コレットに道を譲らない。
 がぶっ
「きゃ!」
 コレットに腕を噛まれて力を緩めてしまう。
「このお!」
 カイを渾身の力で突き飛ばした。
 どたっ
 コレットはカイが倒れた隙にドアも部に手を伸ばし、回してみた。
 想像した通り、開かない。鍵は外から架かっている。
「ううっ、あたしを外に出せよお……」
 暫くドアと格闘していると、
 ぶんっ
「人質は大人しくするのが礼儀です!」
 掃除用のモップを持ち出したカイがコレットを果敢に引きとめようと襲い掛かってくる。
「うあっ、キレやがった!」
 武器を持たないコレットは逃げる事しかできず、部屋中をモップの間の手から逃げ回る羽目になった。
「えい!」
 モップの一突きが風圧を生み、部屋の調度品をかち割る。
「わ!」
「とう!」
 ぶん
 一薙ぎがカーテンを風圧だけで切り裂く。
「なんじゃお前はーーーーっ?」
 モップ一本で成しえない荒業にコレットは大声で叫んだ。
ガシャアアン
 モップが窓ガラスに突っ込み、カイに隙ができた。
「そうか! その手があった!」
 窓ガラスで閃いたのか、コレットはカイに突っ込んでいった。 



「コレット!」
 エルハルトは監禁部屋にいた少女が消えていることに気付き、部屋中を歩き回った。
「コレット!」
 呼んだって返事が聞こえる筈も無い。
「コレット!」
 神経質気味に彼女を呼ぶ。
 彼の足の裏に着物の破片が纏わり付いた。
「………………」
 よく見ると着物の袖の部分だ。
 そして窓を見ると、カイが半魔物化した姿で壊れた窓枠に引っ掛かっていた。
「リリス、君はなぜ、俺から逃げる?」
 割れた窓に首を突っ込み、下の様子を伺う。
 窓の下に子供なら立てるほどの大きさの突起が東西に伸びている。隣の窓にモップが不自然に外から立て掛けられていたので、コレットは窓を壊し、隣の部屋に渡って行ったのだろう。


「もしかしたら俺、あの化け物の嫁にされちまうんじゃないか……?」
 アスモデウスに頬擦りされた後は何事も無かったが、ヒューゴの心に深いダメージを与えたのは間違いない。
 未だ、倉庫の隅で丸くなっていた。
「冗談じゃねえ、俺はアイシャが好きなんだよ」
 人形のままのアイシャを抱きしめる。
「ああ、どうやったら動いてくれるんだ?」
 悲痛な表情で彼女の体を撫で回した。
「ガソリンか? 電気か? 魔力か?」
 アイシャの動力の事はあまり覚えていない。いつもグレコがエネルギーを補給してあげているから、詳しい動力源は分からないのだ。
 撫で回しているうちに変な気分になってきて、どうせ死ぬのならと投げやりな感情も生まれ、アイシャの服を脱がしにかかった。
 Tシャツを脱がせ、上半身をブラジャーだけにする。純白のレースの生地は彼女の紅茶色の肌を際立たせた。
「こいつ、いい趣味してるぜ」
 とか言いつつ、ヒューゴは鼻の下を伸ばしながらブラのホックを外そうとアイシャの背中に手を伸ばした。
 ヴォン
 ヒューゴの手に蓋か何かの薄い金属が当たった感触がした。
「ン? 何だ?」
 不審になって彼女の背中を覗き込んでみると、背中の蓋が開いて、オルゴールの内部のような構造がちょっとだけ見えた。中央には小さなネジが刺さっている。
 考える事も無く、先入観だけでネジを巻いた。
 カリカリカリカリ……
 全て巻き終わり、蓋を閉じてやると、蓋は皮膚と同化して消えた。
 ウィーン……カシャカシャ
 アイシャの瞳に文字が流れ、消えていく。
「……ここは?」
 すぐに意識を取り戻した(作動し始めた)彼女は、側にヒューゴがいることを認識した。
「……ヒューゴ、私を置いて逃げなかったのか?」
 がばっ!
「馬鹿野郎! そんな卑怯な事できるか」
 ヒューゴはアイシャをきつく抱きしめ、相手側からも抱きしめてくる感触を確認した。
「良かった、アイシャ」
「どうして私を……? ……それに、ネジは御前様しか巻けぬはず」
 アイシャはきょとんとしながら抱きつくヒューゴを抱きしめ返していた。
「……まあ良い、息を吹き返してくれてありがとう。万が一御前様に何かあれば、二度と動かないと思っていたのだ」
 暫く二人はお互いの存在を確かめ合いながら抱き合っていた。



 ひょおおおおおおおお……
 下から風が吹き込み、コレットのスカートが煽られ、舞い上がった。
 細い縁を伝い歩き、何とか廊下に出られる策を考えていた。窓の中は全て部屋になっており、下手をすると外に出られない可能性もある。
 ずるっ
 足が滑った。
「きゃあっ!」
 短く女の子らしい悲鳴を上げながら何とか両手で縁を掴んで落下を免れた。
「お……お……」
 命綱も、空を飛べる翼も持っていない。落ちたら即効で自分の体がミンチ肉に早変わりしてしまうだろう。
 ここまで来てしまったが、どうしたらいいのだろう?ゲームオーバーになるのは確実である。



 八時間半前、
「その力、どこで取り戻した?」
 魔物の姿に徐々に変化するエルハルトがグレコに訊いた.
「さあ?どこだろうね」
 金色の目を光らせるグレコが答える。
「リリスか?」
「………………」
「リリスの生まれ変わりをこんなにも早く見付けてしまうとはな」
 エルハルトは忌々しそうにグレコを見つめ、椅子から立ち上がった。
「しかしあれもまだ幼体、今のお前の体で契りが交わせると思うのか?」
「………………」
 グレコは過去の事を少しだけ思い浮かべた。
 地獄帝国の皇帝でありながら、人間界に召喚され、召喚した人間の女性と恋に落ち、そのまま人間界に入り浸る事になる。その要因を作った女というのがリリス・リリスというファッションモデルである。
 リリスの美しさに惑わされ、彼女を手に入れるため、ファッションの勉強をしてデザイナーになった。ただの人間の男としてリリスを愛し、彼女もまたグレコを愛した。
 グレコはリリスを愛するあまり、魔力を半分上げてしまう。グレコの愛を受け取ったリリスが幸せになったかというとそうではなく、特別な存在という驕りの精神が生まれ、堕落した。そして、皇帝の座を狙っていた臣下の者達がグレコを陥れ、力と七つあるうちの六つを等分して吸い取った。
 魔力をどうリリスに与えたかというと、現在のグレコがコレットに魔力を分け与えてもらってる行動と同じように、粘膜を介して受け渡しができるのだ。
 リリスは人間なのでしばらくすると息絶え、その子孫に魔力が受け継がれたと推定できる。 
 魔力を奪われ、同時に感情までもが消失し、生きる気力までもが失われようとしていたが、リリスに再び出会う願いは諦めなかった。
 歪んだ心ではなく、真実を受け止められる愛情を与えようと。
「……彼女が僕を愛してくれれば大丈夫だよ」
 エルハルトのえげつない質問には笑って答えた。
「訊きたかったのはそれだけか?」
「まあ、な」
 エルハルトは言葉を濁した。



 少女は棺の前に佇んでいた。
「やっぱり……彼はあたしを迎えに来てくれてたんだ……」
 気付くのが遅かったのか、それとも気付きたくなくてわざと遅れたのか、よく分からなかった。
 彼から盗んだ指輪を薬指にはめ、
 棺の蓋を開けた。

 棺の蓋を閉め、コレットは棺の上に腰を掛けた。
 床に散らばっていたあらゆる羽根が蹴散らされているように宙に舞い上がり、落ちる。
 ずずずずずずずずず……
 天井から三つの頭が顔を出した。
「リリス、俺と一緒に地獄を治めないか?」
 三つの顔を持つ悪魔にエルハルトの面影は無かった。
「お前は、元は俺の女ではないか」
 ずずずず……
 影が壁を伝い、コレットの側に近づく。
「俺の何が気に入らない?」
「……………………」
 コレットは何も答えなかった。伏し目がちになりながら自分の両手を見つめている。
「金品や魔力以外の財産は全てお前にやると約束した筈だ」
 古の約束に興味は無いみたいだ。
 両足をぶらぶら動かし、指輪を見つめている。コレットの表情は変わらず。
「俺の全てが欲しいのか?」
 逆上したアスモデウスが人間の姿になり、抵抗する仕草も見せないコレットを押し倒した。両足を開かせ、棺の上に乗った。
「………………」
 コレットは瞬きをしながらアスモデウスだけを見つめていた。しかし、瞳には相変わらず彼は映っていない。
「浅ましい女だ! ルシファーは死んだぞ」
 アスモデウスがコレットの首を絞めにかかった。
「……それが何か?」
 熱の無い口調で彼女は答えた。
「やいやいやい! 魔王の花嫁はこの俺だ!」
 すっかり開き直ったヒューゴがアイシャを引き連れて乱入してきた。
「いや、リリスはお前ではない」
 アスモデウスは言い切り、コレットの小さな体に身を埋めた。
「くぉらーっ!妹から離れろ!」
 魔王と張り合うのが恐ろしいので遠くのほうから叫ぶヒューゴ……。かなり情けない。
「そんな所から叫んでも、奴は離れてくれないぞ」
 アイシャはヒューゴの肩に手を置きながらアスモデウスを指差した。
「ううう……」
 自分が無力な人間と一番分かっているので手が出せないでいる。
「心配ない、私が付いている」
 ヒューゴの手を握った。意外と彼女の手は暖かかった。
 お互いの手を取り合い、アイシャは魔法、ヒューゴは銃でアスモデウスに立ち向かった。
 バチン!
 力が弾き返され、後方に吹っ飛んだ。
「!」
「!」
 魔王なので魔法生物や人間に歯がたつはずもない。
「丁度よい、ルシファー、お前の他に見物人が二人に増えたぞ」
 アスモデウスは親指でコレットの唇を撫で、台にしていた棺に話しかけた。
「よく見てるがいい、リリスが俺に犯される様を!」
 絶望的な表情で無力な男女は棺の上の様子を見つめていた。
 次第に棺が激しく揺れ、蓋ががたがたと鳴り始める。
「悔しいか? 死して尚も、欲望を露にするのか!」
 揺れる棺の上でアスモデウスは笑い転げた。
 レースのちりばめたドレスが脱がされていく……。
「…………………………」
 コレットは殆ど裸にされた状態で棺の蓋を見つめ続けていた。
 アスモデウスがコレットの肌に触れる。
「やめろーーーーっ!」
 ヒューゴの悲痛な叫びも棺の音と一緒に空間いっぱいにこだました。

 アスモデウスの背中に剣が刺さっていた。
「ごふっ……」
 気が付かないうちに黒い血を吐き、コレットの肢体を濡らした。
「彼女はコレットだ。馬鹿者」
 銀髪の青年がアスモデウスの背後で言った。
「ルシファー、生きて……」
「死んでると思ったか?」
 彼は軽蔑の眼差しでアスモデウスを見下した。
「言っただろう、嫌がらせしに来たって」
 剣を抜き取り、一振りしてから微笑する。
 十二枚の黒い翼を持つ美しい堕天使がコレットを抱え、天井の窓ガラスを割って飛び去っていった。

 ルシファー(グレコ)とコレットが姿を消した後、嫌がらせ第二号が発動した。
 ごごごごごごごごごご…………
 屋敷の地下に張り巡らされていた水路が陥没した。
「なあ、俺達の存在無視してない?」
 崩れ落ちる屋敷の中で、ヒューゴは納得行かない顔をした。
「御前様は傲慢だからな」
 アイシャは無様に体を引きずるアスモデウスの影を踏み続けていた。
 公爵の敷地は嫌がらせ発案者の趣味で六芒星に陥没した。






〈終〉





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