第1話  プロローグ

文字数 6,988文字

 少女はいつもの路地を抜け、常に様々な人種が行き来する繁華街を目指していた。
 ウール製の布でできた大きな黒いベレー帽を被り、作業着に似た灰色のつなぎを着た彼女の姿はまるで男の子だ。しかし、帽子から伸びる左右にくくった長いお下げが女の子を主張している。決して身なりが良いとは言い切れない服装で往来を掻き分ける。
豪奢に着飾った見栄っ張りなマダムと、荷物を背負った行商人が顔をしかめる。
 肩が大人の胸の辺りにぶつかっても謝りもしなかった。彼らに自分の印象を持たせないように。軽く謝りでもすれば、捕まえられるのは必至だ。
「なーんなの?あの子!」
 頭ひとつ後ろで甲高い罵声が飛ばされようと、耳を傾けてはいけない。振り返りもせず、前へ進まないと生活ができないでいる。
 繁華街を目指す道程で合計3つの財布を手に入れた。どれもずっしりと重く、札や小銭が詰まっているはずだ。
「へへっ」
 口元をほころばせた少女は、本日の夕飯のメニューは何にしようかと思考を巡らせていた。当面の生活の保障もされたので足取りも軽く、繁華街のアーケードを潜り、脳内で食材の選択をしている。
 あれこれと迷っているうちに小腹が空き、今日は豪勢に屋台で売っている蒸し饅頭を買うことに決めた。
 蒸された竹の匂いと調味された肉汁の匂いが一帯の空気を占領していた。路地の端に蒸籠を2つ重ね、底のほうから熱い湯気がもうもうと立ち昇っているのが見える。
 蒸籠の傍らに立つ小柄な中華人(チャイニーズ)がこちらを一瞥し、微笑むのを、少女は「じゅる」っと唾を飲み込みながら獲物を狙う獣のように見つめた。
 早く饅頭を食べようと歩調を速めた時、不意に視界の隅に次の大物が飛び込んできた。
 野性の本能が働いて、2つの瞳がカモを負い掛ける。
 メイド服を着た大柄な女性と、育ちの良さそうな色の白い眉目秀麗の少年を。
 やっぱり今夜はビーフステーキに変更だ!少女の瞳が怪しく輝き、進路をメイドを連れた少年に向けた。
 少年は少女と歳は変わらないくらいなのだろうが、白磁のように滑らかな肌を持ち、グレーに近い銀髪をさらりとなびかせ、品良くメイドの前を歩いており、遠目から見てだが、澄ました表情が気にくわない。彼の全身を上質な黒い外套が包んでいる。
間違いない!「金持ち」だ。
 メイドのほうを確認する。こちらは紅茶色肌で、エキゾチックな魅力を持つ背の高い女性だ。
 ゴムボールみたいな胸が紺の布地に包まれて揺れているのが遠目から見ても目立った。肩の位置で切り揃えられた黒髪が規則的になびいている。
 間違えるはずがない、「金持ちのボン」がお供を連れて優雅に歩いている!
 間抜けなのは、お供が一人しか付いていない事だ。回りをざっと確認しても、従者はどこにも潜んでいる気配はない。この国を舐めている。
「くふっ……世間知らずのお坊ちゃんだ」
 王制度が廃止され、憲法が執行されるようになってから百年余、悪事の数はだいぶ減ったけれども、法律の隙間を縫った姑息な犯罪は大小合わせるときりが無い。
 少女もその犯罪人の一部になるのだろうか。
 軽やかな足取りで、少年に気を取られているメイドに接近し、しなやかに手首を動かす。
 一般的に主人は財布を持たず、従者に懐を任せている。というのが、少女の定義だ。
「!」
 急に少年が振り返った。
 光を反射しないダークブラウンの瞳が見つめる。そこに表情は無く、生命を感じさせない人形のように精巧で硬質な、空虚な視線が少女を突き刺した。
「         」
 表情が宿らず、ただ口を動かしているだけの声が少年から漏れている。
「え?外人」
 少女は言葉を理解できず眉根を寄せたまま、歩み寄ってきた少年の手のひらに肩が触れた。
「           !」
 メイドが多分、主人の名前を叫んだのだろう。彼女が手を伸ばした瞬間には、
 もう遅かった。
 繁華街に広がっていたありとあらゆる人と物が一気に吹き飛ばされていった。
 ドクン……
 心臓が脈打つたび、視界が真っ白に、芽が潰されてしまうかのような光の洪水が溢れ、
 心臓が血液を体内に送り込む度、視界が墨のような眠気を誘う闇に包まれ、
 心臓が鼓動するたび、得体の知れぬ恐怖に包まれる。
 ドクン……
 ドクンドクン……
「街が……!」
 繁華街の路地が、少女の視界で黒く、赤く、白く、そして明滅しながら深い色に染まっていった。

 すべての景色を潰す光の中心部で、少年は気を失う少女を見つけた。
 帽子が脱げて、少女の顔があらわになる。はかなげな表情で固く目を閉じ、密度の濃いまつげを震わせながら、低めの鼻と開きかけた花弁の唇でかすかに呼吸を繰り返す。
波動で金髪のお下げが上下にゆらゆら揺れている。
「     」
 無表情のまま、だらりと伸びた少女の腕を掴んで寄せた。
 少女の体からはすさまじいほどのエネルギーが放出され、少年の髪が逆立った。
 弾き飛ばされそうになるが、少女を離さんと、表情を変えぬまま、抱きかかえた。
 ガラス球のような瞳を閉じ、
開きかけの花弁に唇を寄せた。
 軽く濡れた音を立てながら少女の唇を吸った。
「んっ」
 少女の体がぴくんと震え、眉間に軽く皺が寄った。
「      ……見つけた」
 唇を離した少年が、後半は少女の国の言葉で喋っていた。
 再び少女の唇に引き寄せられ、一方的に激しく接吻を交わす。
 波動が収まり、少年と少女の髪は重力に従って下へと垂れた。
 胸の奥がうずく熱さと、得も言われぬ心地良さで、少女は我に返った。
 舌先に痺れる甘さを感じて目を開けてみると、先程目が合った少年とキスしていた。それもよりによって濃厚なのを。
 相手は少女が意識を取り戻したのに気付いて、髪を触りながら強く抱きしめてきた。
 見ず知らずの者に初めての唇を奪われた絶望感と共に、焦がれるような唇の熱さが混ざり合い、取り戻せない不安と焦燥感が、全身を駆け抜ける。
「ギャーーーーーーーッ」
 複雑な思いで混乱しながら少年を力いっぱい突き放した。
 少年はもんどりうって尻餅をつくが、表情は相変わらず無表情のままだ。
「乱暴だね、君は」
 少年は確かに、少女の国の言葉でそう言った。
 周りの景色はいつもと変わりなく、買い物客が往来する繁華街の一角だった。
 恥辱感までもが全身を襲う。
「おまえ、な、な……」
 唇を押さえわなわなと震える。
「    」
 側で控えていたメイドが、少年の腕を取り、優しく引き起こした。こちらはやはり理解のできない言葉だ。主人をいたわる言葉だと推測される。
「どうしたの?そんなに僕のキスが気持ちよかった?」
 真顔で言っている少年に、戦慄を覚える少女。
「ふざけんな変態!」
 赤面しながら唾を散らし、少年を怒鳴りつけた。
「そんなに怖がらなくてもいいよ、君は僕の一部なんだから」
 彼の言葉と正反対の無表情がいっそう気味悪く感じる。全身の産毛も怖気総毛立つ。
「うわぁぁ!嫌だーーーーーー!」
 少女は脱兎のごとく繁華街の外へ走り去って行った。
 少年とメイド、それから彼女の帽子が取り残されていた。
「やれやれ、照れ屋さんだな」
 残された帽子の埃を払い、少女の代わりに少年が被った。それは誂えたようにしっくりはまっていた。



 浮浪者の行き交うスラム街に、寄せ集めの木材で補強された朽ちかけのアパートが点在する。
 あらゆる所から吐き出された汚物の臭いが充満し、行き場を失った生物達が無理やりそこに押し込められているようだった。路地はゴミの堆積物で埋め尽くされ、汁がにじみ出て所所ぬかるんでいる。付近の住民がいつ病気になってもおかしくない不衛生さだ。
 めいいっぱい顔をしかめながら、買い物袋を提げた少女が大股でゴミの敷き詰まった路地を踏みしめて行く。
 彼女の進む先には、廃材で固められた一軒のあばら家があり、
ご丁寧に『HUGO(ヒューゴ)』という名前のダンボールと質の悪いペンキでできた表札まで立て掛けられている
 ドアの前に立つと、軽く足を上げた。汚れの付いた靴の裏でささくれた板を押した。
 立て付けの悪そうなドアは、意外とすんなり開いてしまう。
 家の中に入ると、
バゴンッ
 力を込めて、また足の裏で押した。機嫌が悪いせいか、ドア板がひしゃげた。
「こらーっ!」
 突如、この家の主である金髪で筋肉質の青年がチェックのエプロン姿で少女を怒鳴った。
「ただいま、兄ちゃん」
 むっつりした表情で、出迎えた兄ヒューゴを押しのける。
「ただいま、じゃねえ!コレット、誰がドア修理すると思ってるんだよっ?」
 ヒューゴがドアの状態を見て悲鳴を上げている隙に、コレットと呼ばれた少女がリビングと称される廃材だらけの空間に大股で踏み込んだ。
「おまえなあ、一三歳のいいお年頃なんだぞ!いい加減女の子らしくしやがれ!」
 工具を取り出してドアを修理する健気な兄に妹は、
「あーはいはい、そのうちな」
 聞き飽きた様子で古タイヤとアルミの看板でできた簡素なテーブルの板をずらして、貯金箱を取り出した。
「兄ちゃんだってその歳(二二歳)にもなってもまだ彼女できないくせに……」
「あだーーーーっ」
 コレットの毒舌を聞いてか、ヒューゴは金槌で親指を打ち付けていた。
「……さて」
 買い物袋を壊れかけのソファーに放り出し、戦利品を懐から取り出す。今日のコレットの稼ぎはパンパンに膨れた財布が三つとダイヤの指輪だった。
「あれ?指輪なんか掏ったっけな?」
 覚えの無い指輪を指先でつまんで観察する。白金の輪の窪みにダイヤが収まるシンプルな作りになっている。輪の円周はかなり細く、持ち主は女性か子供だと断定できる。
「…………!」
 女性と子供で思い当たるのは、
先程自分のファーストキスを奪った少年と連れのメイドしかいなかった。不本意にも頬がかぁっと熱くなる。
(いつの間にあいつらから掏ったんだろ?)
 スリの習性というのだろうか。
「お、今日はすげー大漁だな」
 ひょい、とドアの修理を終えたヒューゴが背後から顔を出す。
「ま、まあ、伊達に遠出はしなかったから」
 赤面した顔を兄に見られないよう、顔を伏せて答える。
「ほほー、指輪まであるじゃん。当分食うに困らないな」
 コレットの隙を狙って指から指輪をつまみ取った。
「あっ……」
「まだまだ甘いぞ、コレット」
 鼻で笑うヒューゴだが、むしろおかしくも何とも無く、瞳は複雑な色をしている。
「しかしよ、いつもすまないな。兄ちゃんがまともな職に就いていればなあ」
 自分の情けなさと妹が犯罪に手を染めるのを止められない愚かさを呪っている。
「今更何湿っぽい事ほざいてんのさ?兄ちゃんだって生活の為にこいつ(スリ)やってオイラを育てたんだしさ、今度は恩返しする番なんだよ」
「せっかく足洗って就職したのに日雇いの大工しかなくて……ううっ」
 スラム街出身者は過酷な条件で仕事をしても、支払われる給料は一般の労働者階級の楽な低賃金アルバイト程度しかない。
 ヒューゴが涙を滲ませていると、
「鍋吹き零れてるよ!」
 感傷に浸る間を持たせず、妹の一声で我に返る。
「おわーーーーっ」
リビングの奥ではゴムチューブが剥き出しのガスコンロの上で鍋の中の液体が煮えたぎり、鍋蓋が激しく踊っていた。
 アウトドア用の簡素な調理器具と、水を流すしか能が無い台所が小ぢんまりと置いてある狭いスペースに、筋肉質のヒューゴが小走りで火を緩めに行く。
「やれやれ」
 わが兄ながら間抜けだと思いつつも、いつの間にか指輪が自分の手のひらの中にあるのは感心する。


 今夜は珍しくヒューゴの作った料理が食卓に並ぶ。
「今日が俺の休日だった事に感謝しろよ」
「案外「もう今日から来なくていい」って親方に言われてたりして……」
「うっ、残酷(リアリティ)な事言うなよ」
 メンタル的なダメージがヒューゴの心のHP(ヒットポイント)を削った。
 あらかじめでき上がっていた物を温め直すだけで良かったので、いつも食事担当であるコレットは大助かりだが、料理の見た目の悪さに不満が残る。
 朝食の残り物と、主食にしているパンの耳、昨夜のサラダの残骸がごった煮にされている一品が本日のメインディッシュだ。
貧乏性のヒューゴはあえて勿体無いからと、コレットが買い足した材料は使っていない。
 コレットが深刻な顔になるのを兄は見逃さない。
「どうした?何か言いたそうな顔をして?」
「はっきり言っていい?」
「ん、ああ」
 期待を含む表情で息を整える。
「まずい」
 ため息と共に吐き出される感想。
 ヒューゴは青白い顔のまま固まる。久しぶりに作った料理がたった一人の家族に否定されたのだ。
 無論、この小屋の住人は兄妹しかいない。母親はコレットが生まれた後に蒸発し、父親は彼女が身支度を一人でできる年頃になってから疫病で死んでしまった。以来、兄妹二人で必死に生きてきたのだ。
「昔は口答えしない可愛子(かわいこ)ちゃんだったのによ」
「絶対あたしの雑草料理のほうがましだ」
「おえっ、聞いただけでも寒気がすらあ」
 妹に文句を言っておきながら、
 自分の料理に初めて口をつけたヒューゴの表情が面白い。みるみる雲行きが怪しくなった。生まれた後に蒸発し、父親は彼女が身支度を一人でできる年頃になってから疫病で死んでしまった。以来、兄妹二人で必死に生きてきたのだ。
「昔は口答えしない可愛子(かわいこ)ちゃんだったのによ」
「絶対あたしの雑草料理のほうがましだ」
「おえっ、聞いただけでも寒気がすらあ」
 妹に文句を言っておきながら、
 自分の料理に初めて口をつけたヒューゴの表情が面白い。みるみる雲行きが怪しくなった。
「そういえばお前、今日繁華街行って来たよなあ?」
「何が言いたい?食材無駄遣い男」
 不機嫌な表情のコレットが答えた。
「ちゃんとしたパンとかは買ってこなかったのか?」
「…………………………買うの忘れた」
 わざとではなく本当に忘れていた。
「なんだとおぉ?スリ以外気が回らねえとは、何があった?」
 声を荒らげたヒューゴの一言に、コレットは複雑な表情を浮かべる。
「はは~ん、さては男ができたか?」
 胡散臭そうな顔のヒューゴがコレットの顔を急に覗き込んだ。
 顔が気持ちと反対にかあっと熱くなる。
今日あった事は恥ずかしくて話すなんて無理だ。手塩にかけて育ててくれた兄が悲しむ顔は見たくない。「変態」に遭遇したなんて。
「……今日は張り切りすぎて、稼ぎをいつもより多めに回収してたら……し、失敗しちゃってさ」
 落ち着きの無い態度は説得力に欠けるが、あながち嘘ではない。結論を言ったまでだ。
「ふ~ん、怪しいな」
 半眼の瞳の兄を見ることもなく、コレットは大慌てでごった煮を食べ始めた。
「………………………………」
 コレットはごった煮の味が判らなくなるほど、物思いにふけってしまった。

 あの少年にキスをされる前に見た夢は現実だったような気もする。
 少年の手に触れてしまった時に、確かに見えていたはずの世界は壊れてしまったはずだ。往来で栄えていた繁華街の道路や、軒を連ねる無秩序な店の数々が一瞬にして消え失せた恐怖が、生々しく感覚として残っている。
 怖くて怖くて慌てて気を失ったんじゃないだろうか?周りがすっかり何も無い空間になり、急に独りぼっちになってしまう恐怖が、思い出し始めると、胸がチリチリと痛んだ。
 不安が心を闇に閉ざさせたとき、ぬくもりを感じた。不覚にも、他人の唇に。柔らかく、熱く、冷たく、じんわりと感覚として残る。
 胸が支(つか)えて自分の心臓の音までもが聞こえてきそうだ。
「おい、コレット」
 ヒューゴの呼びかけで現実に連れ戻された。
「はぅ!」
「どうした?今日は帰ってきてから変だぞ」
 心配する兄をよそに、呆けた面で中空を見つめる彼女はおかしかった。
「街で見かけたどっかの男にでも惚れたぁな」
「違う!」
 即答。なのに顔はなお赤みを増す。
「なんだかんだ言ってもお前もそんな年頃か。この前までは鼻水垂らしたり、ウ○コ漏らしてたりしてたやつが……」
「汚い事言わないでよ!」
「そうか、お前も乙女だったのか、兄ちゃんは嬉しいけどちょっと複雑だ……」
 うなづきつつ、ヒューゴは耳を真っ赤にさせて慌てる妹を涙ぐみながら見つめた。
「もー、うるさい!」
 コレットにはまだこの顔がいきなり熱くなる現象や、胸の支え等のもやもやした感覚の正体が何なのか理解できなかった。
「恋……か、いいなあ」
「うるさい!」
 自分でそう断言したのだからそう思いたかった。
 たぶん、「恋」よりも複雑な何かが、コレットを知らず知らずのうちに凌駕している。
 それが何であるのか、まだ解らない。
 出会った少年は何であるかすでに、解っていたようだったが……。



To Be Continued





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