【批判とは1】批判は悪いもの?
文字数 2,743文字
確かに、今井絵理子参議院議員が「批判なき選挙、批判なき政治」というスローガンを掲げてしまったくらいには、「批判は悪」という図式が日本の人々の間に共有されていると言えるわね。
ならその「批判は悪」という図式はどのようにして形作られてきたのか? ということを考えてみましょう。
最初に確認なんだけど、批判って何?
あ、はい。いくつか辞書を見て、共通点をまとめました。3は自分でも意味がわかんないんですけど。
あ~悩んでる久恵里ちゃんの顔マジ卍~。
でしょ? まあこれは筆者の限界でもあるけど。
それでも、「マジ卍」という言葉を使いこなせている人たちはいるわけで、しかもその人たちは、辞書を引いたわけでも、誰かに意味を尋ねたわけでもない。
ある言葉を使うためには、その使われ方……文脈を経験することこそが必要であって、その言葉の意味について考える必要は実はないってことね。
英語の先生がそんなことを言っていました。spectが「見る」だと知っていれば、prospectは「先に+見る」で「予測する」になるし、spectacleは「見るもの」だから、「光景」と「眼鏡」の意味になる。少ない単語から多くの単語を知ることができる、というお話でした。
ただ、この類推が働くときに、言葉の音の類似が問題になってくるのよ。
一時期、電化製品のデザインでスケルトン・モデルが流行ったことがあったけど、「外側が透明で骨組みが見えるから」スケルトンと呼ばれていたものが、日本語の「透ける」と関連があると思われて、「透けるトン」という解釈をされたことがしばしばあったの。
だったら、日本の現代においての悪の基準を見つけ出す必要がありそうね。
とりあえず、Wikipediaの「悪」の項を見てみたんだけど。
日本の中世にいた人々が悪党と呼ばれるようになった例を見ても、「突出した」「強い」「従わない」といったイメージが「悪」にはあるようね。
こういうときよく引き合いに出されるのが、聖徳太子の十七条憲法ね。
実はその後に続きがあるのよね。ちょっと私なりに訳して読んでみるけど。
「和睦こそが価値であり、対立なきことが正義であると認める。人は皆何らかの集団に属するものであり、それから自由な者はまれである。こうして、家父長に従わない者や、他の集団との紛争が現れる。しかし、すべての人が和睦の下に議論にあたるならば、あらゆる問題は自ずから解決するのである。」
そうね。そしてそのことに苦しんでいる人は日本人の中にもいるようなのよ。
哲学者の中島義道は「〈対話〉のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの」という本で、対立を避けようとするあまり問題解決への動力を失っている日本社会への不満を述べているわ。
えっと、これはいわゆる「空気」や「KY」の問題ですか?
その「空気」というのは山本七平の『「空気」の研究』が示した言葉ね。ただ、まだ読んだことがないので、ここでの言及は避けさせてちょうだい。
批判を対話の一種であると考えるなら、「対立の中から新たな発展を目指す」ための批判は、対立そのものが悪である日本社会では、とてもやりにくいものだ、とは言えそうね。
さて、これで必要な物事は出揃っただろうから、最後に今までのまとめをやっていきましょう。