【批判とは1】批判は悪いもの?

文字数 2,743文字

批判を悪いもののように捉えている人が少なくないようですが、これはなぜなんでしょうか。
確かに、今井絵理子参議院議員が「批判なき選挙、批判なき政治」というスローガンを掲げてしまったくらいには、「批判は悪」という図式が日本の人々の間に共有されていると言えるわね。

ならその「批判は悪」という図式はどのようにして形作られてきたのか? ということを考えてみましょう。

最初に確認なんだけど、批判って何?

えっ……えっと……

1 物事の可否を検討し、判定すること

2 欠点を指摘すること

3 理性の限界を認識しようとすること

それは何かの辞書に書いてあったの?
あ、はい。いくつか辞書を見て、共通点をまとめました。3は自分でも意味がわかんないんですけど。
久恵里ちゃんって、言葉はみんな辞書から覚えた人?
そんなわけないじゃないですか。
じゃあ「批判」という言葉をどうやって覚えたの?
うーん……たぶん、新聞やテレビのニュースか何かで見たんだと思います。それか、大人たちの会話から聞き取ったか。ただ、どうやって覚えたかは覚えていません。
そんなところよね。大体の人にとって、言葉を覚えるというのは、その意味を記憶することじゃなくて、その言葉が使われる文脈を経験するということなんだわ。
文脈を経験……?
あ~悩んでる久恵里ちゃんの顔マジ卍~。
その使い方は絶対おかしいと思うんですけど。
えっじゃあ「マジ卍」ってどういう意味?
それは……よくわかりません。
でしょ? まあこれは筆者の限界でもあるけど。

それでも、「マジ卍」という言葉を使いこなせている人たちはいるわけで、しかもその人たちは、辞書を引いたわけでも、誰かに意味を尋ねたわけでもない。

ある言葉を使うためには、その使われ方……文脈を経験することこそが必要であって、その言葉の意味について考える必要は実はないってことね。

ということは、「批判」という言葉の使われる文脈に、何か「悪い」と感じられるものがあって、それが「批判は悪」の図式を作り出している、ということなんでしょうか。
その「悪い」と感じられるものがあるのはなぜなのか、ということを次に考えていくんだけど、その前にちょっと補足というか、おまけを述べさせてほしいの。
どうぞ。
「言葉の使われる文脈を経験することで言葉を知る」という話をしてきたけど、知らない言葉を知る過程にはもう一つあるの。「知っている言葉から類推する」という方法ね。
英語の先生がそんなことを言っていました。spectが「見る」だと知っていれば、prospectは「先に+見る」で「予測する」になるし、spectacleは「見るもの」だから、「光景」と「眼鏡」の意味になる。少ない単語から多くの単語を知ることができる、というお話でした。
ただ、この類推が働くときに、言葉の音の類似が問題になってくるのよ。

一時期、電化製品のデザインでスケルトン・モデルが流行ったことがあったけど、「外側が透明で骨組みが見えるから」スケルトンと呼ばれていたものが、日本語の「透ける」と関連があると思われて、「透けるトン」という解釈をされたことがしばしばあったの。

すると、「批判」と似た音の言葉があるということですよね。
「批判」のヒは「否定」のヒと、「批判」のハンは「反対」のハンと同じ音よね。
うーん、考えすぎじゃないですか?
だから、あくまでおまけとして聞いてちょうだいね。

そろそろ本題に戻りましょう。

はい。

「批判」という言葉の使われる文脈に、何か「悪い」と感じられるものがありそうだけど、それは何なのか、というところでしたね。

そうだったわね。

さて、何かを「悪い」と感じるためには、悪とは何か、を判断する基準が必要になるわけだけど。

とはいっても、悪とは何か、何が悪なのかって、時代や地域によって違いますよね。
だったら、日本の現代においての悪の基準を見つけ出す必要がありそうね。

とりあえず、Wikipediaの「悪」の項を見てみたんだけど。

「悪」には「突出した」という意味がある、と書いてありますね。
日本の中世にいた人々が悪党と呼ばれるようになった例を見ても、「突出した」「強い」「従わない」といったイメージが「悪」にはあるようね。
悪党……楠木正成は歴史の教科書に出てきました。

それで、「従わない」というのは初めて出てきた気がしますが。

こういうときよく引き合いに出されるのが、聖徳太子の十七条憲法ね。
「和を以て貴しと為す」ですね。
実はその後に続きがあるのよね。ちょっと私なりに訳して読んでみるけど。

「和睦こそが価値であり、対立なきことが正義であると認める。人は皆何らかの集団に属するものであり、それから自由な者はまれである。こうして、家父長に従わない者や、他の集団との紛争が現れる。しかし、すべての人が和睦の下に議論にあたるならば、あらゆる問題は自ずから解決するのである。」

すると、対立や紛争そのものが悪とされているのでしょうか。
そうね。そしてそのことに苦しんでいる人は日本人の中にもいるようなのよ。

哲学者の中島義道は「〈対話〉のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの」という本で、対立を避けようとするあまり問題解決への動力を失っている日本社会への不満を述べているわ。

えっと、これはいわゆる「空気」や「KY」の問題ですか?
その「空気」というのは山本七平の『「空気」の研究』が示した言葉ね。ただ、まだ読んだことがないので、ここでの言及は避けさせてちょうだい。
はい。
話を戻すわね。

「〈対話〉のない社会」というタイトルからわかるとおり、中島は、日本社会に欠けている言語活動として「対話」を位置付けたの。

対話は、会話とは違うものですか?
そうね。中島が要求する対話の特徴を大雑把にまとめると「対立を避けようとせず、対立を滅ぼそうとせず、対立の中から新たな発展を目指すもの」といった感じよ。
それは……対立そのものが悪である日本社会では難しいですね。
批判を対話の一種であると考えるなら、「対立の中から新たな発展を目指す」ための批判は、対立そのものが悪である日本社会では、とてもやりにくいものだ、とは言えそうね。

さて、これで必要な物事は出揃っただろうから、最後に今までのまとめをやっていきましょう。

はい。どうやってまとめましょうか。
そうね。より古そうな物事から順に並べていくことにしましょう。


1.日本社会は、「和を以て貴しと為す」のように、対立を避けることを善としてきた。

2.悪とは、そうした善に従わない突出した力をいう。

3.批判は、善に従わない突出した力、すなわち悪として経験され、その経験が「批判」という言葉に関連付けられる。

4.以上のことから、「批判は悪」という図式が形成される。


こんなところね。

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登場人物紹介

久恵里(くえり)

主に質問する側

せんせい(先生)

主に答える側

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