消された歌

文字数 1,001文字

 サーカスを追い出されたかわいそうな道化男(どうけおとこ)が、みすぼらしい荒野(こうや)の上を、とぼとぼと歩いておりました。

 すっかり疲れて、もう歩けないと思ったとき、ふと顔を上げてみると、目の前になんと、それはそれは大きな一本の桜の木が、なんともどっしりと、大地に根を張っているではありませんか。

 道化男はよちよちと、その桜の木に近づいたのでございます。

 両手でも(かか)えきれないほどの、分厚(ぶあつ)く、太い(みき)です。

 するとその(かげ)から、きれいなお洋服を着込んだ少女が、桜と同じ色の髪を()らしながら、ひょっこりと顔を出したのです。

 道化男はびっくりしましたが、少女があんまりやさしい笑顔をしているものですから、足もとに落ちていた名も知らない花を、一輪(いちりん)だけそっと引っこ抜いて、その子にプレゼントしたのです。

 少女はもっと笑顔になって、歌を一節(ひとふし)歌ってあげると、道化男に申し出たのです。

 道化男はいよいようれしくなって、ぜひお願いするよと、その子に頼みました。

 少女の歌声は高く、()きとおっていて、目の前に美しい花園(はなぞの)が、いっぱいに広がるようでした。

 鳥よりも鳥らしく(さえず)り、虫よりも虫らしく鳴き、(けもの)よりも獣らしく()えるような、そんな歌だったのです。

 道化男は夢のような時間をすごしました。

   *

 うっとりとした頭をひねって、道化男が目を()ましたとき、少女はもうどこにもいませんでした。

 それどころか、あの大きな桜の木の影も形もなく、あとにはいままで歩いてきた、あの退屈な荒野が広がっているだけなのです。

 きっと本当に夢だったのだろう――

 道化男はすっかり肩を落として、その場へ座りこんでしまいました。

 ぼうっと土くれの地面をながめていると、そこには一片(ひとひら)、たった一片ですが、桜の花びらが、ほとんどずたずたになって、大地にめりこんでいたのです。

 道化男はひょいと、その花びらをはがして、()(ひら)に乗せました。

 あれはいったい、なんだったのだろうか?

 しばらく彼は、あのかわいい少女を、その美しい歌声を、がんばって思い出そうとしていました。

 しかしそれは、道化男の頭の中で、もうすでに、ぼやけていたのです。

 彼は打ちひしがれて、うなだれていましたが、そのうちゆっくり立ち上がって、またとぼとぼと、歩きはじめました。

 あの美しい歌は、どこへ行ってしまったのか?

 道化男はそんなことを考えながら、その手に桜の花びらを、しっかりと(にぎ)りしめていたのでございます。
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