第6話:トヨタで世界一への挑戦

文字数 2,849文字

 GTⅡクラスはスカイラインGTが2位から6位を独占したが、優勝はポルシェ904にさらわれた。プリンス自動車工業は雪辱を期し、スカイラインGTの設計チーフである桜井眞一郎を中心として、純レーシングカーであるR380の開発に取り掛かった。車名の「R」はレーシング、「380」はプリンス自工として38番目のプロジェクトを意味した。1964年夏に開発計画がスタートし1965年6月に1号車「R380A-1」が完成。

 1965年5月、日産自動車との合併計画を発表。当時の通商産業省の自動車業界再編計画と、プリンス自体の経営不振が背景にあった。本体のプリンス自動車工業は黒字経営だったが、これは販売部門であるプリンス自動車販売に在庫を強制引き取りさせていたことによるもので、自販は値引きによる在庫処分を強いられ、慢性赤字経営に陥っていた。

この日産とプリンス自動車工業の合併の実情は、プリンス自動車工業の経営不振を打開するための日産の救済合併、もっと言えば、日産による慢性的な赤字にあえいでいたプリンス自動車工業の吸収合併というのが実情だった。しかし、この時、開発チームの部長になっていた関戸成一や一部の有志は、この合併に納得がいかず、退社する覚悟を決めていた。

 そんな時、昔、勉強を教えてもらった以前の中島飛行機、現在の富士重工業の富士鉄蔵に相談した。すると、富士鉄蔵が関戸成一に、今後、お前は何がしたいのかと聞かれ、スポーツカーの開発を継続したいと答えた。その話を聞いて、今、内情を話すわけには行かないが、ちょっと、あたって見たい先があるから、2週間以内に、また連絡すると答えた。

 7日後の1965年6月15日に、東京であわせたい人がいると、富士鉄蔵から連絡が入り、東京駅近くのレストランで11時半に待ち合わせる約束をして出かけた。レストランに行くと、見知らぬ男性2人が来ていて、富士鉄蔵が、こちらは、ヤマハ発動機の滝沢俊郎さん、こっちがトヨタ自動車工業の豊橋悦夫さんと紹介した。まず、食事をしてから話そうと言い、個室に案内された。

 食事を終えて、珈琲を飲みながら、富士鉄蔵が、実は、まだ公表されてない極秘のは話をするので、これから聞く話は、絶対に口外するなと約束させられ、関戸も約束した。その後、富士が、実は、トヨタ自動車工業で、世界とトップクラスのスーパー・スポーツカーの開発計画に着手する話が持ち上がった。スポーツカーと言えば高回転、高出力エンジンが必要となる。

 そのためにオートバイの技術が生かせる、そう考えて、ヤマハ発動機と組んで、高出力、高回転型のエンジン開発しようと考えた。更に、スポーツカーを設計した人間も欲しいといわれ、適当な人がいたら紹介して欲しいと、今年の春に、富士鉄蔵が相談されたと打ち明けた。その時、関戸成一が、プリンスが日産と合併するのに反対して、退社したいと言う話しを聞き、渡りに船だと考えたと打ち明けた。

 それを聞いた関戸成一は、驚いて、思わず、本当ですかと聞くと、ヤマハ、トヨタの人たちが、極秘だが本当の話だと言った。その後、実は、私を含め開発チームの合計7人も同じ気持ちでプリンス自動車を退社するつもりだと伝えると、技術屋さん何ですよねと、我がチームの仲間ですと話すと、トヨタの豊橋さんが、会社に持ち帰って、上司の判断を仰いでから、その結果をお知らせしますと言った。

 その後、トヨタの豊橋さんがR380がレースでポルシェを破った時は、身震いがするほど興奮したと話していた。だから、何としても、トヨタでも世界1のスポーツカーを作りたいのですと、その意気込みを語ってくれた。ヤマハの滝沢さんも、関田さんのチームが加わってくれれば100人に力だと笑顔で語っていた。別れ際に10日以内に連絡させてもらいますと言った。

 当時のトヨタは、クラウン、コロナ、パブリカと基本の車種体系が出来上がり、企業全体を象徴するイメージリーダーカーを求める時期にあった。結局、これが2000GT誕生の動機だった。トヨタには、既存の量産車を改良したスカイラインGTのようなものではなく、名実とも独自性を持ち世界に通ずる高性能GTカー、ジャガーEタイプやポルシェ911のようなモデルを持ちたいという、厳然とした強い意思があった。

 ヤマハが、トヨタに自社企画のスポーツカー案件を持ち込んだのは事実だが、すでに自社でも高性能GTカーの草案をまとめていたトヨタにとって、ヤマハの存在は大きな魅力だった。そこに、既に、R380開発に携わったプリンス自動車の関戸チームが加わることは、思ってもみない天からの贈り物だった。そのため上層部から、直ぐにゴーサインが出た。そして関戸チムにエンジン製作の依頼が舞い込んだ。

 トヨタ上層部にして見れば、思い通りのスポーツカーを出せなければ、他の人たちに替えるだけだというと、クールな気持ちもあったようで、腕試しで、どの位できるのか見て見ようという気持ちもあったようだ。そのためにトヨタチームにも同じ指令を出し、数チームに新しいスポーツカーの製作の指令を出して、競い合わせて、一番良いスポーツカーを選ぶ腹づもりだった。

 実は、1965年、1月には、新しいスポーツを作れという指令をトヨタの社内チームには通達していた。その時、関戸チームでもR380とは全く違った。細長いジャガーの様な流線型の新しいスポーツカーのイメージ図案が出来上がった。エンジンの方も直列6気筒、ソレックス3連キャブ、高回転型DOHC1988ccで、最高出力は150馬力/6600回転、最大トルクは18.0kgm/5000回転を発生。

 1966年、トヨタ2000GTは、レースで勝てる最高のGTカーを目指し開発された。そして、最終目標はルマン24時間耐久レースでの優勝だったようだ。そのため、市販前年の1966年10月1日から4日には、茨城県筑波郡谷田部町の自動車高速試験場にて、国際記録樹立のための正解自動車連見「FIA」の公認を受けて、スピード・トライアルに挑戦。

 そして世界記録達成の条件は、今迄の世界記録を1%以上、越えること。トヨタ2000GTは、Eクラス「排気量1500から2000cc」の世界記録と1万マイル「約16000km」、15000km、連続72時間「連続3日間」の世界最高速度記録。それまでの世界記録はフォード・コメットの1万マイル「200.23km/h」、15000マイル「201.75km/h」、72時間「201.21km/h」。

 ドライバーはトヨタレーシングチームの精鋭5人。5人は夏場から精力的にトレーニングをを繰り替えし本番を想定したテストを繰り返した。テスト前日9月30日、急きょ信頼性に不安の残るクラッチを浜松のヤマハから取り寄せメカニックが徹夜で交換した。1966年10月1日の茨城県谷田部の日本自動車研究所は加勢に恵まれた。午前10時、人々とが固唾をのんで見ていた。
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