第1話:零戦から電気自動車

文字数 2,736文字

 1920年8月、筑波山と土浦の間の農村に生まれた関戸成一は、大きな農家の長男として生まれて、隣に住む、中島飛行機に勤める技術者、1906年生まれの富士鉄蔵に小学生の頃から憧れを持っていた。と言うのも飛行機を作る技術者として、格好良くて、頭が良いお兄さんに思えたからだ。そのため尋常小学校でも算数が得意で計算が早く、手先が器用で、将来、機械、それも飛行機の整備の関係の仕事に就きたいと考えていた。

 尋常小学校、高等小学校を優秀な成績で卒業し、茨城県尋常中学校土浦分校に入学した。精鋭が集まる中学でも数学と理科系の成績が良く、やがて、東京工業大学へ入学したが、戦争がひどくなり、昭和18年から富士鉄蔵の紹介で、群馬県太田市の中島飛行機で零戦製造の補助の仕事を手伝わされた。主に、修理の仕事が主だった。そして昭和20年8月の終戦を迎えた。

 関戸成一は、もう一度、東京工業大学に戻り、昭和21年、正式に東京工業大学機械科を卒業した。その中島飛行機は、終戦後、GHQによって軍需産業の「中島飛行機」と「立川飛行機」という2つの航空機メーカーが解体された後、「富士精密工業」となった。そして、富士鉄蔵は、富士重工業に進んだが、関戸成一は、東京工業大学の同期生が、立川飛行機に多かったため立川飛行機に入社した。

 しかし昭和21年12月、立川飛行機の技術屋が、独立し、総勢200人で東京電気自動車株式会社を設立した。しかし工場は雨漏りが激しく、雨が降ると屋内でも傘をささないと仕事が出来ない状態。また工場には機械もろくになく何でも手作りの状態だった。しかし熱い男たちは逆境をものともせずに開発を続けた。開発を初めて1年7ヶ月、1941年8月、田中の設計図がようやく完成した。

 商戦直後、当時ガソリンは流通統制されており、入手が困難。立川飛行機の技術者たちが集まって考えたことは「だったら電気自動車でいこう」ということだった。そうして終戦からわずか2年後の1947年に「東京電気自動車」後の「が製作したのが「たま電気自動車」。最初の市販形電気自動車を発表、工場地元の地名にちなみ「たま」号と命名。最高速度35km/h、航続距離65km。

 ホイールベース間のシャーシを部分的に切り欠いて側面からスライド脱着できる電池ケースを搭載し、電池交換で充電時間を節約するアイデアをすでに採用していた。当時の電気自動車の中で群を抜いた性能で注目を集める。乗用車形とトラック形があった。トラックタイプと乗用車タイプの2タイプ。この自動車には多摩で作った車という意味で「たま」と名付けられた。

 航空機開発の経験を随所に生かした画期的な自動車であった。1947年5月、ようやく2つのたまが完成した。この当時、東京自動車の車内で関戸成一は、開発チームの事務員の和田時子と親しくなり同棲を始めた。デモンストレーションとして工場のある府中から都心までパレード、日比谷公園での展示販売会では5台が即売れる上々の反響であった。1948年から大型化・高性能化を狙った新型車「たまジュニア」・「たまセニア」を開発。

 1948年2月に、関戸と同棲していた和田時子が妊娠したのが判明した。しかし、結婚式を挙げる金もなく、和田の両親は戦争で亡くなり、遺産だけは、持っていたが、1人ぼっちだったので役所に結婚届だけ出すことにした。そして、1948年8月29日に長男が誕生、関戸新一と名付けた。その当時、食糧事情が悪く、関戸夫妻の食事を減らしても子供に食べさせる様に頑張って暮らしていた。

 横置きリーフスプリングによる前輪独立懸架と油圧ブレーキを採用、一方でバッテリーは固定搭載式に変更。セニアにはX型クロスメンバー入り低床フレームを採用した。商業的成功で電気自動車市場をリードする存在となったが、さらに企業としての安定を図るため、外山の義父で自由党代議士であった鈴木里一郎に相談した。そして鈴木の顧客であったブリヂストン会長・石橋正二郎に出資を請う。

 以前より自動車製造への関心があった石橋は検討の末、翌年出資をおこなう。1949年2月、石橋正二郎、鈴木里一郎が出資を行い、石橋は会長に就任。石橋の意向で鈴木里一郎が社長となる。以後は日産との合併まで、ブリヂストンおよび石橋家との関係が強くなる。11月、府中から三鷹に移転。同時に、たま電気自動車に社名変更。車の名前と同じ社名とした。

 電気自動車の「たまジュニア」「たまセニア」は1948年下期から1949年上期にかけ、木骨ボディから全鋼製ボディにマイナーチェンジ、ホイールベース拡大で性能を向上。最上級モデルのセニアはホイールベース2400mm、自重1.9t以上「重量の相当部分がバッテリーであった」という堂々たる中型セダンとなり、最高速度55km/h、航続距離200kmという当時の日本製電気自動車最高水準の性能に到達する。

 しかし1950年 朝鮮戦争勃発に伴う特需で、バッテリーの主たる資材となる鉛の市場価格が高騰し、バッテリーのコストが急騰したため電気自動車は価格競争力を失う。その打開策としてガソリン自動車生産への転換を企図し、11月、エンジン開発契約を旧中島飛行機 東京製作所「荻窪」および浜松製作所を母体とする富士精密工業と交わす。

 1950年4月に、関戸の妻、時子が、2人の子を身ごもった。この頃、食糧難の時代で、会社の仲間も関戸夫妻の子供ために食料を渡してくれるようになり、何とか、しのいで、奥さんの時子さんも上司の奥さんに子供をみてもらいながら、会社に籍を置き働き続けた。やがて1950年10月に次男、関戸次郎を出産した。1950年12月に関戸成一は28歳で技術課長に抜擢され、2LDKのアパートに引っ越した。

 そして1951年、初頭からガソリンエンジン車の開発を中島飛行機、東京製作所では、関戸成一など若手技術者が中心となり秘密裏に開発、研究を進めた。その後1951年、たま自動車に社名変更。在庫の「ジュニア」「セニア」のボディとシャーシは高速機関工業でオオタ車用ガソリンエンジンを搭載してオオタ・ブランドで販売することで処分した。

 全株を保持していた日本興業銀行は富士精密工業が自動車に乗り出すことには賛成していなかった。このため、すべてを興銀から石橋が買い取ることで解決される。これにより富士精密工業株主は日本興業銀行から石橋正二郎となり富士精密工業会長になり、合併の布石となった。その後、社名は創業以来、たま電気自動車、たま自動車と変遷、1952年11月以降はプリンス自動車工業に社名を変更した。
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