第8話:関戸新一がトヨタ、次郎がマツダへ入社

文字数 2,561文字

 関戸新一は、その後、大学3、4年の時、自分もラリークルーの1人になり途中から友人と交代してハンドルを握った。いつしか関戸新一はトヨタに入社したいと考えた。1971年3月に東京工業大学機械科を卒業後、2年間の自動車工学の修士課程の勉強を終え1973年トヨタに入社。そして受験の時の面接で新しいエンジン開発をしたいと言った事が話題になった。

 その後、トヨタの技術研究所に配属され乗用車の燃費を良くする基礎研究チームに配属。そしてガスタービンエンジンシステムを1968年から秘密裏に研究し、その研究を命ぜられた。試行錯誤の日々が続き1975年になっても見通しがつかなくて困った。1977年になっても先が見えず1980年にたまらず、プロジェクト中断の話となった。

 折しも1980年、日米通商摩擦で日本の自動車会社による輸出自主規制と対米投資に対して訴訟を起こした。米国の自動車メーカーは販売不振からレイオフの拡大を余儀なくされ「日本は失業を輸出している」といった反発が全米自動車労働組合や議会の対日強硬派議員の間で強まった。1980年2月には全米自動車労働組合のダグラス・フレーザー会長が来日し日本の自動車会社による輸出自主規制と対米投資を裁判所に訴えた。

 全米自動車労働組合は同年6月になると失業者急増の原因は日本車であるとし米国国際貿易委員会「ITC」に通商法201条の発動を提訴した。さらに8月にはフォード社も同じ訴訟を起こし労使一体で日本車の輸入制限による産業保護策を求めた。1981年にロナルド・レーガン政権が発足すると米国通商代表部のウィリアム・ブロック代表は何らかの貿易政策が必要であるとして日本の通商産業省との交渉に入った。

 米国議会では1981年2月に今後3年間にわたり日本製乗用車の輸入を年間160万台に制限。後日、日米政府が合意する内容の下敷きとなる法案も提出され日本車への圧力は日増しに高まった。しかし政治決着が不可避と判断した日本政府は4月末に田中六助通産大臣がブロック代表と東京で交渉し自主規制の合意に達した。

 しかしトヨタでは近い将来、技術力の差が世界の大手自動車メーカーにおいて重要な成長の鍵と考え関戸成一を技術研究部門に在職させ技術開発体制を温存。一方の弟の関戸次郎は1969年、橫浜国立大学の工学部機械科には入りアルバイトしながら寮に入り大学まで通った。次郎は小さい頃から友人の父の影響で千葉の谷津遊園にあったゴーカート場でゴーカートを運転した。

 その経験を生かしレーシングに関係する仕事がしたいと考えていた。日本の車の中で特に気に入っていたのだマツダ。ロータリー・コスモ。そのロータリーエンジンがカーレースで、きっと、いつか世界一になると信じていた。それは機械工学科で勉強していたので原理の素晴らしさに惚れていると言う側面が大きい。またコスモの個性的なフォルムも気に入った。そして広で東洋工業を受験した時の面接で1967年に完成したロータリーエンジンの事を話すと驚きを持って受け入れられ1973年橫浜国大工学部を卒業しマツダに入社。

 世界初の量産ロータリーエンジン搭載車としてコスモスポーツが1967年から1972年に1176台が生産された。当初の標準価格は148万円で当時の給与所得者の平均年収は62万円。「宇宙時代にふさわしいエンジンを」との思いが込められイタリア語の「コスモ、宇宙」から命名。排気量は491㏄×2。前期型「L10A」と、フロントグリルを一新し18馬力アップの128馬力としホイールベースを15センチ伸ばすなどした後期型「L10B」が1968年から生産開始。

 続いてロータリー車、第2弾として発売されたファミリアロータリークーペ。これは軽量・コンパクトな車体に100馬力という高出力エンジンの組み合わせで、じゃじゃ馬的な俊足ぶり。国内外のレースでも大活躍。しかしファミリアは以後マツダの看板車種でありながらロータリーを捨てることになった。その後、マツダ初のFFモデルとなる1980年発売の5代目は「赤いファミリア」として爆発的ヒットとなり経営の屋台骨を支えた。

 1969年、ルーチェロータリークーペ、逆スラントノーズのフロントマスクが印象的なベルトーネデザインの流麗な2ドアクーペ。度重なるモーターショー参考出品の果てに市販化されたのはロータリーにマツダ初のFF「フロントエンジ・フロントドライブ」を組み合わせた意欲作。作り慣れないFF機構はクセが強く独自機構による高価格化で、あまり多く売れなかった。ロータリーエンジン搭載車としてモーターショーで「RX87」の名前で登場。1969年に販売を開始。マツダ初、世界唯一の前輪駆動のロータリー市販車である。高級クーペであったルーチェの名前を冠しているが、大部分が新設計。総生産台数は976台の希少車。

 カペラは1970年に登場しセダン、クーペ、ハードトップ、ワゴンなどのボディタイプが存在するマツダのグローバルカー。初代は専用開発したロータリーエンジン搭載の初AT車も追加された。MT車は400m加速で15.7秒と当時、並みはずれた加速とパワーを誇り「風のカペラ」と呼ばれた。

 1971年、ロータリーエンジンを積んだ「サバンナ」が登場。この車が日本国内で常勝を誇った、日産スカイラインGT-Rを破りスポーツカーエンジンとしてのロータリーエンジンの存在感を高めた。巨大なオーバーフェンダーをまといレース参戦していたクーペモデルの印象が強いがセダンやステーションワゴンといった幅広いバリエーションを用意した。コスモスポーツL10B型 1971年式 エンジンは2ローター1000ccで128馬力を発揮、最高速は200km。

 1973年、第1次オイルショックが起こると低燃費なクルマが注目されロータリーエンジンの燃費性能が大きくクローズアップされた。ロータリーエンジンから撤退すべきとの批判の声が上がる中マツダの新たな挑戦が始まった。「ここでやめればマツダファンへの信義を欠く。技術で失ったものは技術で取り戻す」。この志のもと40%もの燃費向上を誓った「フェニックス計画」をスタート。
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