[17] 二〇〇三 夏休み 9

文字数 3,120文字

 盆休み二日目は助っ人が現れた。
「ごめんなさいね、片桐さん、具合大丈夫?」
申し訳なさそうにする千歳に
「もう全然平気ですよ、体がなまってきてるくらいですから!」
と片桐がピースサインする。車で送ってきた島内が
「ランチが終わるころに迎えに来るから」
と言って去っていった。
まもなく、駐車場が満車になり、店内は今日も、普段見ることのないにぎわいを見せ始める。片桐が調理場に入ったことで、睦は接客に専念できるようになり、だいぶ負担が減ったようだった。昨日、店のことを懐かしむ客がたくさん来たことを尚斗が話すと、片桐は「それはありがたいことだねえ」と言いながら、たまに店内に出て様子を見ていた。
嵐のような忙しさのランチが過ぎると、片桐がまかないの肉野菜炒めを作ってくれる。睦と尚斗が食べている間に、片桐は裏口から出ると、日傘をさして生垣の縁に腰かける。腰の調子はずいぶんと良いようで、これならまた何かしらの仕事に復帰できるだろう、と考えていた。タバコの煙を吐きながら、この店で働いた十年のことを振り返る。自分なりに料理を振る舞ってきたが自己流だったため、正直なところ、どこかでいつも夏也の料理に見劣りしていると感じていた。それが今日尚斗に聞いた話だと、片桐が作ったメニューを思い出の味だと言ってくれる客がいたという。思わず笑みがこぼれた。裏口のドアが開いたので慌ててにやけた顔を戻す。睦がタバコを持って出てきた。
「もう食べたのかい! 早食いだねえ」
「ああ、片桐さんのまかない久しぶりっすから、うまくてすぐ食べちゃいましたよ」
片桐の隣に座るとタバコに火をつけて、片桐が持っている日傘を受け取り、代わりに持つ。
「睦くんもだいぶ料理が上達したみたいだねえ」
「いや、実は片桐さんに教えてもらってから、家でもたまに作るんすよ」
「ほー、そりゃ親孝行なもんだ、えらいえらい」
片桐は目を細めている。

 数分前、店のベルが鳴った。千歳は客に気づくと、空いていたカウンターの端の席を案内した。お冷とおしぼりを出して、注文を聞く。カウンターの反対の端にいる尚斗と睦はまだまかないを食べていたが、千歳が注文を取った声を聞いて、尚斗が気を利かせ調理場に入った。千歳は注文を尚斗に伝えると、睦のところへ行って小声で何かを伝える。睦は調理場を通り抜け、ロッカーの鞄からタバコを取り出し裏口のドアを開けた。千歳はカウンターの端に歩いて行くと、客に話しかける。
「久しぶりね、元気だった?」
客は顔を上げると、遠慮がちに返事をする。
「うん、元気だったよ、千歳ちゃんはどう?」
「私はおかげさまで元気よ」
「そう、よかった。でもお店、閉店しちゃうんだってね」
「そうなの、仕方ないわね。時代の流れかしら」
客が店内を見渡す。
「こんなに流行ってるのに、残念だね」
「いつもはこうじゃないのよ、もっと閑散としてて。このにぎわいは、うちでアルバイトしてくれてる子のおかげ」
「……それってラジオの話でしょ? 今、働いてるところの同僚が、この店が閉店するっていうのをラジオで聞いたらしくてさ。それでもう一回来てみたくなって」
「そうなの? 同僚の方に感謝ね」
別の客が席を立ってレジに向かう。千歳は「ごめんなさいね」と目の前の客に言って会計を済ませた。調理場に目をやると、尚斗と目が合う。千歳は微笑んで、尚斗が調理した料理を受け取るとカウンターの端に向かった。
「お待たせしました」
料理を差し出すと、客が
「おいしそう」
と千歳に笑いかけてきた。千歳も笑顔を返す。
「ねえ、加奈子ちゃん、落ち着いて聞いてほしいの。他のお客さんもいるから」
加奈子が不思議そうな顔で千歳を見る。
「今ね、加奈子ちゃんのお母さん、うちで働いてくれてるの。休憩中で外に居るんだけど、話をしてみたらどうかしら?」
フォークを持つ手が止まり、加奈子の表情がこわばる。
「母が居るの?」
「そう、話をして見る気はない?」
「……今さら話をしても、仕方ないよ」
「そんなことないと思うわよ。片桐さん、加奈子ちゃんがもう一度来るのを待って、十年間、ずっと働いてきたの。今日だってそうなのよ」
「……」
「無理にとは言わないわ。もう少ししたら片桐さん、休憩終わって戻ってくると思うから、それまでに決めてくれると助かる」
「……会うよ」
加奈子がフォークを置いて立ち上がる。
「わかった。じゃあついて来てくれる?」
千歳は加奈子を連れて、エントランスのドアを開けると、建物をぐるっと回り込んで裏口へ向かった。

 そのころ睦は、片桐の肩を揉んでいた。そろそろ店内に戻るという片桐を、なんとか引き留めるために。
「いやー、片桐さんこれこってますよ」
「そうかい、まあ歳だからね」
目をつぶって心地よさそうにしている片桐だったが、睦は建物の角から現れた人影に気づいた。
「店長」
とつぶやく。片桐も目を開けて千歳の方を見る。
「ありゃ、店長どうしたんですか、そんなところから」
睦は肩もみを止めて、片桐が持っていた日傘を代わりに持った。千歳が角の向こうを振り返ると、加奈子がゆっくりと姿を現す。それを見た片桐は、心底驚いた表情で、口を半開きにしたまま言葉も出ない様子だった。
「睦くん」
千歳は睦に手招きすると、片桐と加奈子を残し、エントランスに向かった。

 店内に戻る際、会計を済ませた客とすれ違いになった。名残惜しそうに店の外観を携帯で撮って去っていく。レジには尚斗が立っていた。
「どこ行ってたんですか」
睦と連れ立って入ってくる千歳を、不思議そうな顔で尚斗が眺める。
「ちょっとね……。ごめんね、レジ任せちゃって」
「それは別にいいですけど……」
千歳は帰った客のテーブルを片付けに、睦は近くにいた客から食後の飲み物を催促されて、カウンターの冷蔵庫に向かう。尚斗は首を傾げつつも、調理場にもどって洗い物を始めた。水の流れる音と食器が重なり合う音に混じって、セミの鳴き声が聞こえる。その向こうに、話し声が聞こえる気がした。尚斗は目の前の窓にそっと手をかけて、ゆっくりと開け広げる。

 ベルが鳴ると、片桐を迎えに来た島内が店内に入ってくる。カウンターの中の千歳に歩み寄ってくると、裏口の方向を親指で差しながら、
「大丈夫かい」
と言う。千歳はグラスを拭きながら
「大丈夫でしょう、大人同士だもの」
そう返事をして、調理場に目をやった。洗い物をする尚斗の手が止まっている。注文を取った睦が尚斗に伝えようと調理場を覗き込んだが、声はかけずに自分で料理を始めた。千歳はランチセットのサラダとスープを準備して運ぶと、コーヒーを淹れて島内に出す。島内はそわそわしながら、店内で流れるダイアナ・ロスの歌声を聞いている。
 店内の客が二組入れ替わったころ、加奈子がドアを開けて入ってきた。カウンターの千歳の前に来ると、財布から千円札を二枚出して目の前に置いた。
「またね、千歳ちゃん」
そう言って少し微笑み、店を出ると県内ナンバーの車に乗り込んで去っていった。後を追うように島内が店を出ていく。千歳は置かれたままになっていた料理を見て、ため息をついた。皿を持って調理場に入る、そこには尚斗の姿がなく、睦が「外っす」と気まずそうに教えてくれた。料理を捨てて、皿を洗っていると裏口が開き尚斗が入ってくる、片桐の荷物を持って出ると、またすぐに戻ってきた。
「すみません、店長。ばあちゃん、ひどい顔だからって言って、島内さんと先に帰りました」
「そう、わかった。教えてくれてありがとう」
尚斗はそれ以上なにも言わず、何事もなかったかのように仕事をこなしたので、千歳も睦も仕事に専念した。お盆の初日に比べると、ディナーの客もそう多くはなく、夜は平和な時間が過ぎていった。
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