[9] 二〇〇三 夏休み 1

文字数 5,223文字

 けたたましいセミの鳴き声をかき分けるようにバイクのエンジン音が聞こえてくる。それを聞いて、千歳は洗濯しておいたエプロンを棚から出す。間もなくドアのベルが鳴った。
「お疲れさまっす」
ヘルメット片手に睦が店に入ってくる。千歳は調理場から出てくると
「はい、よろしくね」
とエプロンを睦に両手で渡す。ヘルメットをカウンターに置くと、睦も両手で受け取る。
「よろしくお願いします!」
調理場では片桐がランチの準備をしていた。その後ろを通る睦が、
「片桐さん、お疲れさまっす」
と声をかけると
「今日からだっけ、よろしく頼むね!」
と返ってくる。ピースサインをする片桐に、睦もピースで返す。ロッカーに荷物を入れると、手を洗い、エプロンをして店内に戻った。テーブル席は半分ほど埋まっており、カウンターに一人客が数人座っている。千歳はスープカップにお湯を注いでトレーに乗せると
「じゃあサラダとスープを五番と七番のお客さんに出してくれる?」
と言って会計を待つ客のもとへ向かった。半年ぶりの接客で少し緊張したが、またここで働けていることが睦はうれしく、同時に寂しくもあった。
 午後二時を過ぎると店内も落ち着き、睦がコーヒーを持って裏口に出ると、片桐が日傘をさして生垣に座り、タバコを吸っていた。スタンド型の灰皿も手元に移動していたので、仕方なく睦も軒下から出て生垣に座る。入道雲からはみ出した陽射しが容赦なく刺さるので、エアコンで冷えた体がじわっと温まるのがわかった。
「なんで軒下じゃないんすか」
「腰が痛いんだよ、病院に通ってるのにちっともよくなりゃしない」
「そういうことか」
「ちょっと、熱中症になるよ、日傘入んなさい!」
そう言って片桐が手招きするので、睦は仕方なく相合傘することにした。片桐に渡された日傘を左手に持つ。手が空いた片桐はうちわであおぎだした。
「やっぱ日陰なだけでだいぶ違いますね」
「そうだろ? あとは風さえ吹いてればだいぶ涼しいんだけどねえ」
一面の田んぼに挟まれた国道には陽炎がゆらめき、林すら見当たらないのにセミの鳴き声がうるさい。風は吹いていない。
「店、閉まっちゃうんですね」
「そうだねえ、残念だけどね」
「やっぱ、お客さんあんまり来ないからですかね」
片桐は煙をすーっと吐いて、コーヒーを飲む。
「まあ、結局はそれだけど、まあ、市町村合併さえなければね」
「シチョウソンガッペイ?」
「前に教えたでしょうが、町が無くなる話」
「ああ、あれか」
「そう、それよ」
「で、なんでそれが関係あるんすか」
少しだけ周りを気にするようなそぶりを見せる片桐だったが、一面の田んぼには人影はない。それでもうちわで口元を隠して内緒話を始めた。
「この店の土地はさ、町から安く借りてるんだよ」
「え、なんで安く借りれるんすか。……それ、もしかしてなんかやばい話すか」
睦もつられて小声になる。
「やばい話? そんなんじゃないよ!」
とんでもない、といわんばかりに、片桐がうちわをブンブン振る。涼しい、と睦は思った。
「昔、ここには食糧センターだかなんだかが建ってて、そこらの田んぼでとれた米とかを保存したりしてたんだけど、それが移転したから、土地の使い道を町が公募したわけよ」
「はあ」
「でも誰も手を挙げないもんだから、町長が皐月さん、店長のお父さんのことだけど、に相談して、それでこの店ができたってこと」
「へえ、よく知ってますね」
「ここに住んでる年寄りは皆知ってるよ。でも頭に来るのがさ、合併したら賃料値上げするって言ってるんだって、吸収する方の市が。こんな田んぼの真ん中の土地なんて借りてもらうだけありがたいって思えってんだよ! ねえ!」
「まあまあ」
うちわで膝をバンバン叩く片桐をなだめながら、睦がたずねる。
「じゃあ値上げしたら賃料払うの大変だから、閉店しちゃうってことですか」
「そういうことよ」
「じゃあもっとお客さん来て、儲かったらいいって話ですか?」
「まあ、そうだね」
睦はあごの先を触りながら、険しい顔をする。
「それって、やっぱ難しいんすかね……」
「今のこの店じゃ難しいね、第一、料理作る私も体にガタが来てるし、尚斗だって最近はあんまりバイト入ってないだろ?」
「ああ、まあ」
「もともと、ちゃんと修行した料理人がやってた店だから、そう考えると騙し騙しで、よく十年もったもんだよ」
「一個疑問なんですけど、店長って、料理できないんすか……?」
前を向いたままうちわを仰ぎ続ける片桐は、少し考えて口を開いた。
「それはね、店長には聞いちゃだめだよ、いいね」
「……了解す」
「さて! 休憩終わり! もうクーラー浴びないと茹っちゃうよ」
立ち上がり腰をさすりながら歩く片桐を見て、睦は火をつけようとしていたタバコをしまい、その後を追った。
「じゃあ、なんか簡単なのから、俺に料理教えてもらえないすか?」
片桐はドアを開きながら、目を丸くしたあと、
「いいよ、今の時代、男も料理できた方がいいに決まってるからね!」
とピースサインした。

 尚斗は店のドアを開けて耳を疑った。スピーカーから自分の歌声が流れていたからだ。
「いらっしゃい」
店番をしているたまきと目が合う。尚斗は片手を挙げて挨拶した。西日が射しこむ店内では、女子高校生のグループがにぎやかにCDを選んでいる。レコード売り場を抜けて、ビーズの暖簾をくぐり奥の部屋に入ると、機材の中に樋山がいた。
「よう、お疲れー」
「お疲れさまです」
尚斗はギターケースを下ろすと、近くにあるスツールに腰かける。
「あの、俺の歌流れてるんですけど」
店内を指差しながら尚斗が言う。樋山はマウスを握り、モニタを見つめながら
「ああ、いい感じにミキシングできてるでしょ」
と答えた。尚斗の目線の先ではケーブルが機材に繋がり、さらに別の機材に繋がっている。アンプがいくつか積まれていて、床にはエフェクターが転がっていた。机に置かれているモニタの横の箱には林檎のマークがついていて、画面にはツマミのようなものが縦にいくつも並んでいた。
「ありがとうございます、いい感じにしてもらって」
「うん、すげーいい感じだよ、昨日来た常連さんも、たまきちゃんに『これ誰の曲?』って聞いてたもん」
満足そうに言う樋山を見て、尚斗の緊張が緩んだ。二週間前たまきに促されて、全然乗り気でない樋山に歌を披露したときは、樋山があまりに興奮した様子でほめてくるので驚いた。そのまま奥の部屋で録音をしたが、次に訪れたときは、特に録音した音源についての会話がなかったので、てっきり興味を失ったのだと思っていたのだ。
「曲作ってきた?」
「はい……」
ギターを構えて、尚斗が歌い始める。背中がむずがゆく、チクチクしてきた。体温が上がっているのを感じて、額に汗がにじんだ。目を閉じて聴いている樋山が起きているのか寝てるのかわからないくらい無反応だった。
「あれ? どうした?」
樋山の反応は、批判というよりも心配と言った方がよいもので、困惑しているようだった。
「なんかこないだのと違うね」
「……ちょっと、いいのが浮かばなくて」
額の汗をぬぐいながら、尚斗は視線を落とした。尚斗の後ろ、ドアから顔を覗かせているたまきが
「そりゃプレッシャー感じちゃうよね」
と言いながら入ってきた。それに気づいた樋山が話しかける。
「たまきちゃん、店番は?」
「今お客さんいないですよ」
たまきは部屋の中央にあるマイクを手に取る。
「これ、百万するとか、そこのプロ、なんとか」
「Pro Tools」
発音がいい樋山に、たまきがちょっと嫌そうな顔をする。
「そう、それも高いとかって話をこないだしてたじゃないですか」
「うん、してたよ」
「ラジオ局に友達いるとか」
「うん、いるよ」
「それで、二週間後までに曲作ってきて、とか言われたらプレッシャー感じちゃいますよ。まだ十代なんだから」
樋山は意外そうな顔で、尚斗を見る。
「え、俺、プレッシャーかけちゃった?」
「まあ、そうですね」
正直に答える尚斗を見て、樋山が手の平を額に当てて目をつぶった。
「そんなつもりなかったんだけど、ごめん!」
頭を下げる樋山に、尚斗は恐縮してしまう。樋山は顔を上げると
「ていうかまだ十代だったんだ、たまきちゃんもそれくらいだっけ?」
とたまきの方を向く。たまきは置いてあった布でアンプのホコリを拭いている。
「私はもう二十一ですよ」
「そうなの? そうだっけ」
「私のことは置いといて、尚斗くんにあんまプレッシャーかけちゃだめですよ」
入り口のドアが開く音を聞いて、たまきは店内に戻っていった。樋山はあらためて
「なんか、ごめん」
と言うと、アンプの上に置かれていたフライヤーを見せる。尚斗はそれを受け取って首を傾げた。
「夏祭り?」
「そう、それ裏面見てみて」
裏返すと、そこには、ステージ出演者の紹介が書かれていて、その中に樋山の写真もあった。
「俺、別にプロでもなんでもなくて、市の夏祭りに出てるような感じだからさ。音楽仲間って感じで気軽に、リラックスしてよ」
机に置かれていたキャンディの袋を差し出す。いちごみるくと書かれている。尚斗は一粒手に取ると、
「なんか、気使ってもらってすみません、俺、あんまこういう機材とかわかんなくて。周りに音楽やってる友達いないから」
それを聞いた樋山が指を鳴らす。
「そうそう、友達だよ、それでいこう。俺の曲も聴いてよ」
そう言うと積まれたCDをひっくり返して一枚取り出し、CDプレーヤーに入れる。環境音のような、子供の声などが聴こえたあと、民族音楽みたいな太鼓が鳴っている。
「俺はこういうの作ってんの、全然尚斗くんのと違うでしょ」
「全然違いますね」
これまで自分一人で音楽を作ってきた尚斗は、初めて同じ話題が話せる仲間ができたことがうれしく、自然と笑みがこぼれてきて、それを見た樋山も安堵したような笑顔を見せた。
「カレー食う? カレー食いながら音楽の話しようよ」
尚斗がうなずくと、樋山はキッチンに行きパックご飯を温め始める。
「でもしばらく路上ライブやってなかったんだってね、どうしてまた始めようと思ったの?」
後姿で尚斗に話しかける、キッチンの窓から射す夕日で、後光が射しているように見えた。
「友達が、ずっと歌った方がいいって言ってくれてて、俺は正直、気が進まなかったんですけど」
「それって絡まれたから? あ、たまきちゃんに聞いたんだけど」
樋山がストレートな物言いで尚斗に目を向ける。尚斗は
「まあ、そうですね。ああいうの嫌だなって思って。でもその友達が、ケンカ強くて、なんかあったら助けてやるって言ってくれたんで」
と目を伏せて答えた。なぜか樋山は照れたような顔をして
「いい友達持ったなー、おかげで俺たちも尚斗くんの歌聴けてよかったよ」
と言うと、温めたごはんに鍋からカレーをかけた。

閉店時間が近づくころ、たまきはレジの椅子に座って勉強をしていた。数時間、樋山と話をしたりギターを弾いたりしていた尚斗は、ギターケースを肩にかけて帰る支度をしている。樋山は店の外に置いてある看板を中に運んできた。
「たまきちゃん、そろそろ店閉めるぞー」
樋山に言われると、たまきは勉強道具を片付け始める。参考書には『入試問題集』と書かれていた。
「大学受験?」
尚斗がたずねると、たまきは顔を上げてうなずく。
「そうなんだよ、あと半年。受かるか不安」
ため息をつくと、参考書をトートバッグに入れる。樋山が奥の部屋の電気を消して戻ってきた。
「たまきちゃん、東京の大学目指してるんだって。俺も東京行きてえなー」
「行ったらいいじゃないですか」
たまきが窓のブラインドを下げながら言う。
「無茶言うなよ、この歳で東京出てってなにすんだよ」
「樋山さんっていくつでしたっけ?」
「三十五だよ」
「そっかー、それはキツいですね」
「いやいや、そこはフォローするとこだろ」
二人のやりとりを黙って見ていた尚斗は、東京という言葉を聞いて自分の心がざわつくのに気づいた。入口の方へ足を向けると
「じゃあ、俺帰ります」
と二人に会釈した。
「おう、気を付けてな」
「またね」
手を振るたまきと樋山に見送られながら店を出ると、夜の裏通りは湿気に満ちていて、飲み屋街から漏れてくるネオンの灯りで地面の水たまりが光っていた。バスに乗り込むと、また雨が降ってくる。塾帰りの高校生だろうか、制服姿で吊革につかまって片手で参考書を読んでいる学生がいる。
尚斗は窓に頭をくっつけて外を眺めた。ピザ屋、本屋、弁当屋、徐々にシャッターが閉まった店が増えていって、あっという間に街灯以外の光がなくなる。
バスが長い一本道に入ると、一面に広がる暗闇の中に明かりが灯っている。尚斗はその光をずっと見つめた。閉店時間が過ぎているはずの店の中では、カウンター越しに千歳や片桐と談笑する睦の姿があった。
家に着くと、尚斗は樋山に借りたMTRとマイクを取り出して、録音を始める。ノートに歌詞を書いては消し、その作業は空が白み始めるまで続いた。
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