実里 ③

文字数 6,494文字

 アマリリス、そう、アマリリスだ。あれは、あの時のアマリリスだ。
 鉢植えされていた、高良さんの背にあった。
 そして今、コサージュになって私の古いワンピースに留められるべく短く切り詰められた。


 私は作業を見ている。ただ、見ている。あの時のように。中学生の高良さんが鉢を手入れしていた時のように、高校生の高良さんが着替えるために私に背を向けた時のように。
 店員の手の中で、アマリリスはまるで生き物のように震えている。そんな気がした。
 緑色のテープがグルグルっと巻かれて、花や葉や実のついた一本の茎になるのを、私はじっと見ていた。それに安全ピンの親玉みたいな金具がつけられて、とうとうコサージュになった。
「……出来た」
 店員はやっと手を止めて、呟いた。細く長く息を吐きながら、彼女はくるくる回転させて最終チェックをしている。
「……どうして、退学したの?」
 突然自分の声が聞こえて、私自身が驚いた。
「あ、いや……」
 店員は無表情で私の方へ視線を向けた。目が合って、気付いた、今更。
 高良さんだ。この人、高良さんだ……。……どうして気付かなかったんだろう私。
 彼女の無表情の中で眼だけが鋭く光っている。……同級生の高良芳佳はいつもこんな風に無反応を装いながら、眼光だけを強く厳しく、相手に向けていた。
 彼女の視線に貫かれ、私はゆっくりと自分を思い出した。
「……何ですか」
 声がした。驚いた様子がない。そっと私は息を吐いた。目を瞑って開く。もう一度彼女の顔へ視線を戻す。
……もしかして彼女は気付いていた? 私が私であることを? 最初から?
「あなた、高良さんだよね?」
 予想よりずっと小さな掠れ声だった。
「……」
「全然変わっていないのにね。……気付くのに時間がかかってしまった、ごめんなさい」
「……人違いでは」
 彼女は視線を外した。それだけで、彼女が間違いなく高良さんだと確信した。こちらに見えている冷たく整った横顔は、ずっと見慣れていた高良さんの仮面そのものだった。
 私も視線を落とした。見ていられなかった。自分の過去を思い出した今、彼女に向ける顔はない気がした。
「……まさか、会うことがあるとは思わなかった」
「……」
「ごめん、私、ずっと謝ろうと思っていたの。本当よ、信じて」
「……」
「本当にごめんなさい、謝ったってもう遅いかもしれないけど……」
「……何の話ですか」
 私は息を吸って吐いた。もう一度吸って、問い詰めていると思われないように注意しながら言葉を吐いた。
「……退学したのはどうして?」
「……」
「私のせい? 私のせいだった?」
「……」
「そうか……やっぱり……」
 納得出来るはずがないけれど、理解しなければならない、と思いながら、でも、とても辛かった。やはり私のした事は、許されないことだったのだ。
「勝手に決めつけないで下さい。どうして自分のせいだと思うの? ……自意識過剰すぎる」
 突然、たくさんの言葉がぶつけられてしまった。私は殴られたように彼女を見返した。彼女の仮面は崩れ、顔が青く赤く変化している。
「なんで、そんなこと、考える? どうして? ……山辺さんが、どうして」
「じゃあどうして退学なんかしたの? イジメられてたから? 四年も我慢したのに?」
「別に」
「ごめん……四年も、なんてダメか、時間なんか関係ないよね……じゃあやっぱり私が悪いんだ」
「だから」
「だって、私がお節介して……あんなことして……その翌日に退学したんだよ? 私が悪いよ。だって、私」
「違うって!! ……ごめんなさい大声出して。でも。違うから、違うんだから、もうこんな話、やめて下さい」
「……」
「違うの、本当に。山辺さんは関係ない。……いや、山辺さんにはとても感謝してる。山辺さんがみつけてくれなかったら、私はあのまま気が狂っていたかもしれない。そうじゃなくても絶対風邪をひいていた。本当に有難う、すごく嬉しかったよ」
「……」
「退学したことと……あの事は、関係ない。もうずっと辞めたいとぼんやり思っていたし。辞めようと決めたのがあのタイミングだっただけなの。要らない心配をかけて、ごめんなさい」
「……」
「ね? 信じて。本当に山辺さんのせいなんかじゃないの。……私は山辺さんが……」
「何?」
「……感謝してる、あの時、踏ん切りがついたのは……いや……」
「何? はっきり言って」
「……うまく言えないから。とにかく、私のことはもう忘れて下さい」
「無理」
「…は?」
「無理。私はまだ貴方に償ってない」
「だから」
「私、貴方のこと、ずっと気になっていたくせに、卑怯な傍観者だったわ」
 私はゆっくりとテーブルに体を預け、自分の言葉を噛みしめた。
 そう。私は傍観者。本当は高良さんの存在が気になってしようがなかったのに。彼女を助けてあげなかった。自分が可愛いかったから。
「私は傍観者だった、高良さんに何もしなかった」
「何の話?」
 ぽかんと幼いような顔で私を見ている高良さんをぼんやり見返して、私は口の中が苦くなってくるのを感じた。
「高良さんがみんなに無視されていても、意地悪されていても、私、ただ見ていただけだった。ずっと気付いていたのに」
「クラスが違っていたし」
「私、ずっと高良さんが気になってた。本当は、何とかして助けたかったの。高良さんにはもっとずっと笑ってて欲しかった」
「何を言ってるのか分からないわ……」
「塾で見てた頃の高良さんは本当に輝いてた。すごく頭がいいのに全然調子に乗ることもなくて親切で……すごく美人なのに私にも優しく話してくれて……」
「……」
「一緒の学校で嬉しかったのに。高良さんと仲良くなれると思ったのに。なのに……どうして私、ちゃんと自分の気持ちに正直にならなかったんだろうって……」
「あの」
「……ごめん、高良さんには関係ないよね。私がどう思ってたかなんて。結局私は高良さんを守れなかったんだし」
「……だから、貴方は関係ないってば」
「違うの。……多分、私、自分自身が許せないんだと思う。高良さんを一人ぼっちにしてしまったこと、ずっと後悔してる。……高良さんの事、好きだったのに。すごく好きだったのに」
「あの! ……もう、こんな話は止めようよ。私は山辺さんのこと恨んでないし、山辺さんが悪いとも思えないし。……むしろ私は」
 高良さんは真顔で私を見ている。まっすぐ、真摯な眼差しで私のおしゃべりを終わらせるべく、続ける。
「……山辺さんと話せた事、嬉しかったよ」
「……」
「……」
 お互い言葉が続かず、何となくぼんやりとお互いの顔を見ていた。
 サー……。
 沈んだ無言の中に、サーっと何か音がする。
「あ、雨」
「え?」
 窓の向こうを見た高良さんにつられて私も通りを振り返った。
 さっきまでは雨が降る気配など全くなかったのに、絹糸のような雨が降っている。ほとんど聞き取れないような密やかな音を立てて降っている。
「あ、外の花が」
 突然高良さんが動き出し、店の表に出ていく。私はディスプレイの事だと察して手伝うために立ち上がった。
 私達は無言で外のディスプレイを店の中に引き込んだ。よくよく見ると、それは一つのオブジェのように作られた段違いのフラワースタンドだった。それにむしろ芸術的と思えるアレンジの花束がぎゅっと詰まっている。
 私達は店のドア口に並んで立ったまま、ぼんやり前の道を見ていた。
「遣らずの雨。……かな?」
「え?」
 ぽつりと彼女が呟く。よく聞き取れなくて私は聞き返した。
「あなたが言ったのよ。……覚えてる? 六年の夏季講習の帰りに。夜の雨が嫌いだと言った私に、あなたが、これは遣らずの雨っていって帰ろうとする客を引き止めようとする主人が降らせる雨だって」

 中学受験を控えている小学六年生には夏休みなど存在しない。夏は天王山、などと残念なスローガンの下、小学校が終業式を迎えた瞬間から、受験生という名の勉強マシンに変形する。
 朝から夜遅くまで毎日毎日塾へ登校し、ほとんど休む時間もないまま、四教科の授業がグルグルグルグル続いていく。だんだん自分が何をやっているのかも分からず、塾と自分自身が溶けて混じり合うような、そんな感覚になるほど長い時間、私達は塾に閉じこめられていた。
 もう八月何日のことだったかさっぱり思い出せない。その前の日と、その後の日と、何も違わない或る日の夜だった。
 私は理科が苦手で、特に光の単元がさっぱり理解できてなかった。複雑なレンズの問題を解き直していて、でも全然解説集を見ても分からなくて、たまたまそばにいた人に助けを求めたのだった。
「ねえ、高良さん、だっけ、ココ、教えて欲しいんだけど」
 それまで言葉を交わした事はなかったし、それどころかおそらく一方的にこっちが名前を知っているだけの存在だと思っていたのに、彼女は笑って答えた。
「山辺さん、理科苦手だもんね。どこ?」
 自分の名前を相手が知っていることに驚き、自分が理科を苦手にしていることを見抜かれていてさらに驚愕した。
「え? 私の名前知ってるの?」
「もちろん。だって私、山辺さんに国語、勝ったことないよ」
「……そんなコトないよ」
 高良さんの成績はいつも異次元の出来だった。その中で敢えて何が弱いかと言ったら、彼女は国語がほんの少し、苦手だった。
 私は唯一、人に見せられる点数を取れるのは国語だけだった。漢字を覚えるのが大好きだったし、本を読むのも大好き、国語の読解テクニックを使ってパズルのように説明文を分解するのも好きだった。他の科目の惨憺たる結果をカバーするくらいには国語は出来た。
「山辺さん、いつも国語、どうしてあんな点数取れるの? 全然違う著者の全然違う文章で、作題者も違うのに、ぴたっと答えを合わせられるの、凄くない?」
「……別に……よくわかんないけど、国語くらいは出来ないと、ね、他が酷いし……好きこそ物の上手なれ、じゃないかな」
「じゃあ、私は一生国語の点数伸びないな。国語の長文読むの結構苦痛だもの」
「……高良さん、それってイヤミ?」
「え? ごめん、そう聞こえた? ホントにそんなつもり全然なくて」
「ウソー、分かってるよ、ごめんね。高良さんが成績イイの、頑張ってるからだもんね。才能あっても努力がなくてはこうはならないもん。そうゆうところも尊敬してる」
「大袈裟ねえ」
「高良さん、ホント、応援してるんだ。うちの教室の最多記録、期待してる」
「これ以上プレッシャーかけるのやめてよ」
「あはは、ごめんねぇ。でも、高良さん、ホント、凄い。憧れる。私も頑張ろうっていつも思ってる」
「……」
「ごめん、ムダ話して。でね、この問題なんだけどね……」
 高良さんの教え方はものすごく上手だった。よく言うように、頭のいい人は人に教えるのは下手、なんてことは全くなくて、よく分かっていなかった点を丁寧に説明してくれ、覚えなければいけないポイントも示してくれた。私は光の単元が得意になりそうなくらいだった。
「ホント、ありがとう! これで分かった! また明日やり直してみる」
「うん、そうした方がいいよ。光が分かったら音も分かるようになるよ。頑張ってね」
 すっかり遅くなっていて、塾はそろそろ閉所になる時間だった。私はすぐ近所に住んでいるから遅くなっても平気だったが、高良さんは親が迎えに来ている子だったので、私は慌ててしまった。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「大丈夫、今日は迎えが遅くなるんだ。ああ、でもそろそろ来るかな」
 私達は一緒に塾を出て、建物の一階まで下りて行った。いつもは建物のロビーにいるはずの高良さんのお母さんはまだいなくて、私はこっそりほっとした。
 良かった、迷惑かけてなくて。
 建物の外を見ると、雨が降っていた。朝は降っていなかったし、そういえばさっき理科の授業の後に窓の外を見た時も降っていなかった。
「あー、雨降ってる」
「えー……山辺さん、傘持ってる?」
「ううん、しまった、持ってこなかったよ」
「私も。お母さん持ってきてくれるかな。もし持ってきてくれたら、貸してあげる。私はお母さんと入って帰るよ。どうせ車、すぐそこの駐車場だから」
「ホント? ありがとう。明日、ちゃんと返すよ」
 私は高良さんの申し出を有難く受けることにして、彼女と一緒にお母さんが来るのを待った。
「私、雨って嫌いなの。頭痛くなるし……特に夏の雨、嫌い。ベタベタするでしょ。さらに夜の雨はもっと嫌い。……何となく物悲しくて不安になる」
「えーそう? 私はそうでもないよ、夜の雨。ちょっと切ない感じするじゃん。遣らずの雨っていうか」
「やらずの雨?」
「そう。確か、突然降り始めた雨って、お客さんを返したくないって思う主人の気持ちのように、客人を引き留めるかのように降る雨だって。昔の人は雨が降ったら、止むまで雨宿りしてたのかもね」
「……そう」
「だから、これは遣らずの雨だよ。私が高良さんともっと一緒にいたいと思ってるから降ってるの。なんてね」
「……私の気持ちかも」
「ん? 何?」
「ううん、何でもない。あ、お母さん、やっと来た!」
 約束通り高良さんは傘を貸してくれ、私達は笑顔で別れた。
 翌日、傘を返そうと高良さんを待っていたけれど、彼女は特別授業があって話すことは叶わず、私は彼女のクラスの担任に傘を預けて家に帰った。
 それっきり、私が高良さんと話すことはなかったけれど、彼女の華々しいテストの結果を見るたび、自分の事よりずっと嬉しかった。彼女の才能と努力が形になるのが嬉しくて誇らしくて。だから、彼女が本番の受験でトラブったのが、本当に辛くて納得できなくて許せなくて、自分の合格もそれほど嬉しく感じられなかったくらいだ。
 それが同じ学校に進学すると知った時、微妙な気持ちだった理由の正体だったのだろうか。

「そんなことも、あったっけ」
「……私が高良さんともっといたいと思っているから、降り出したのかもねって。……でもね、それはまさに……その時の私の気持ちだった。せっかく山辺さんと話しているのに帰りたくないなあって思ってたから」
「……そうだったの」
「私は忘れたことない。……ずっと忘れられなかったよ」
「……」
「さ、そろそろ三時半だよ?大丈夫?間に合う?」
 唐突に明るく高良さんが言って、私は慌てて自分のスマホを取り出した。
「げ、めっちゃ連絡来てる。気付かなかった」
「会場まで送っていこうか?」
「ううん、大丈夫、このすぐそばの会場なの」
「ああ、綺麗な式場が出来ていたね」
「そうなんだ。……身内だけでするって言ってたのに」
「?」
「ごめん、じゃあ、もう行くわ。短時間で作ってもらってごめんね、本当にありがとう」
「ほら、つけてあげる」
 高良さんは作業台からコサージュを持ってくると、そっと私の胸に止め付けた。
 ほーっと同時にため息を漏らす。私が想像するよりずっと重く…瑞々しく美しかった。……私にそぐわない。
「……やっぱりあなたは花が似合うわ。……特に、この色のアマリリスが」
 驚いて彼女の顔を覗き込む。思った以上に顔が近くて、高良さんの両瞳に私の見開いた目が映りこんでいる。
「あら、貴方達、どうしたの?お客様、お時間大丈夫?」
 突然大きな声をかけられて、ビクッとしてしまった。それまでの静寂を破ったのは、さっきまでいなかったあの中年女性だ。
 よくよく思い出すと、もしかして彼女は高良さんのお母さんじゃないだろうか。時々見かけていた姿に今の姿が重なる。高良さんと同じように少し鋭い美人だったことが偲ばれるような気がしてくる。
「あ、いやそろそろ」
「急に雨が降り出したでしょう、会場まで送っていきましょうか?ね、そうして下さいな」
「え、いえ」
「山辺さん、そうして。……雨に当たるとコサージュの色が変わっちゃうから」
「え、あ…」
 高良さんは無表情にボソボソ言う。この人、親の前ではいつもこうなのかしら。
「さ、行きましょう、裏手にトラック停めてあるのよ。こちらに」
 私は結局お礼を言う暇もなく、心の準備を改めてする時間もなく、会場についていた。
 あ、しかも、コサージュの代金、払ってない……。
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