実里 ②

文字数 4,105文字

 あの日は、本当に最悪な一日だった。頑張ってやった英語の宿題を持ってくるのを忘れたし、数学で当てられたところがたまたま分からないところで間違えて恥をかいた。昼休み、購買に走って行ったら階段を踏み外して落ちて、見てた人達に笑われた上に、右足首を捻挫した。さらに、私は痛くないと言い張ったのに、一週間の部活禁止を顧問に言い渡され、放課後になった途端に追われるように帰宅する羽目になった。
 本当は弘典のバスケ部をこっそり見学しようと思っていたのに。こんな機会は滅多にこないのに、あのクソ担任め、さっさと帰れ、体育館に居るのを見つけたら、即刻親に連絡してタクシーで帰す、と言い放った。学校から家までタクシーに乗せられたら、目玉が飛び出るような金額になるに違いない。親からどれだけ叱られるか。
 たかが捻挫なのに大袈裟なんだ、マジで腹立つわ。
 ブツブツブツブツ怒り散らし独り言を言いながらも素直に帰宅しようとしていたのは、実はかなり足が痛かったからだった、と思う。もうよく覚えていないけど。
 中三の六月の初め頃のことだった。まだ梅雨入りしていなくて晴れていたと思う。
 私は右足を庇いながら昇降口から正門に向かって歩いていた。その途中で、あのアマリリスを見た。
 中庭に向かって伸びる歩道の脇に、物凄い数の様々な色のアマリリスの鉢が並んでいた。その圧倒的な存在感に私は思わず足を止めてしまった。
 ……高良さんだ。
 その鉢のそばに蹲み込んで何か鉢をゴソゴソ弄っている背中には覚えがあった。
 高良芳佳だ。……塾が一緒だった。
 小学生の頃の彼女とは一度も同じクラスになったことがなかった。クラスは習熟度別に分けられ、私と彼女の間にはいくつもの隔たりがあった。学年で一二を争う秀才と、下から数えた方が早いだろう私では過ごす空間がまるで違っていた。
 彼女は本当に出来が良かった。だから第一志望校も確実に合格すると、私を含め誰もがそう、思っていた。水物だと言われる中学受験においてさえ、彼女の成功は揺るぎないものに違いないと思っていた。
 彼女は第一志望の受験日に体調を崩して、保健室受験もままならなかった、と後々風の噂で聞いた。ちょっとしたことで小学生は調子崩すから、と塾講師も言った。
 でも私は不思議でしょうがなかった。高良さんは「調子を崩す普通の小学生」のように思えなかったからだ。
 結局、彼女は滑り止めだった、私の第一志望校へ入学した。それが彼女にとっての不幸の始まりだったんだ、と思う。
 彼女が、同級生を下に見て馬鹿にしている、とか、こんな学校に喜んで通うなんてクズの集まりだと言っていた、とか、そんな風な嫌な噂がたった。それをきっかけに彼女のすることなすことが悪意があるように捉えられ、常に冷たく疎外されるようになった。
 確かに、彼女は学年でもずっと上位の成績だった。頭の出来が私たちとは大きく異なっていたんだろう。でもそれだけが原因だったわけじゃなかったと思う。
 彼女は大人びた雰囲気のとても綺麗な少女だった。あの頃の女子は、彼女が美人だということに嫌悪していたように思う。頭が良くて、美人、そして口数が少なく何となく影がある。おそらく女子の嫉妬を煽ったんだろうと思う。
 私は高良さんが嫌いではなかった。私まで同類だと言われるのが嫌だという最低に卑怯な思いから、表立って何か彼女に働きかけることはしなかった。でも、私は彼女に、誰もいないところでなら、声をかけたい、とずっと思っていた。
 だからあの日は、絶好の日だった。周りには私と高良さんしかいない。みんなは部活に打ち込んでいて、私達がここで何を話そうが、気付くことなど絶対ないだろう、と確信できた。
「高良さん、何やってんの」
 彼女は驚くでもなく、無反応に作業を続けていた。
「ねえ、何やってんの」
「鉢の手入れ。……見て分かんない?」
「いや、分かるけど」
 私は彼女の隣にしゃがんだ。彼女の顔を覗き込むと、眉をきつく寄せて彼女は顔を外らせた。
「何? 山辺さん……」
「私の名前を知ってるの?」
「塾が一緒だったし……貴方は目立つから」
「塾のことも知ってたの? 意外」
 私は足首の痛みをようやく思い出して、すぐそばのベンチに腰掛けた。
「ねえ、そんなところに座って、何の用?」
「いや、ただ、高良さんが何してるのかなって思って」
「だから、鉢の手入れだって。見ててもつまらないでしょ」
「ううん、楽しいよ? 高良さんって、園芸部なの?」
「じゃなかったら、こんなことしてないでしょうよ」
「ねえ、この花、何? 何て名前?」
「アマリリス」
「全部?」
「そう。……ねえ、なぜ話しかけてくるの?」
 ずっと手を止めなかった彼女が、私を見ないままに立ち上がって言った。
「だって、高良さんと話したいから」
「……」
 彼女は、隣の鉢のそばに座り込んで、また作業を再開した。あからさまに私に背を向けていた。
「そんな、黒いのも、アマリリスなの?」
「……そうよ」
「凄い色だね、黒っていうか赤黒いっていうか、血の色みたい」
「え?」
 唐突に高良さんが振り返った。私の発言にギョッとした顔をしている。そんな変なことを言ったつもりはなかったのに。
「すごくキレイじゃない? 私、その色が一番好きだな。なんか……生きてるって感じがする」
「……変なの」
 山辺さん、趣味悪いんじゃない、と高良さんが呟いたのが聞こえたけれど、私は気にしなかった。
「高良さんって花が似合うね。……すごくキレイでちょっとムカつく」
「はあ?」
 彼女の不審そうな顔を見ながら私は立ち上がった。慌てて彼女に別れを告げた。というのも、担任で園芸部顧問の加山の姿が見えたからだ。


 別れる間際の彼女の顔を今でもはっきり思い出せる。驚いたように目を瞠って、でも口元には確実に笑みが浮かんでいた。高良さんは私が嫌いじゃないんだ、そう思って私は喜んで帰宅したのだった。


 次に高良さんと言葉を交わしたのは、高一の九月、そういえば今頃の雨の日だった。
 あの日は雨だったから陸上部は自主練だった。私は、早々に返却された実力テストの点があまりに酷くて担任に叱咤激励された直後で、自主練なんか絶対するもんか、という気分で家に帰ろうとしていた。
 高等部の正門の少し手前に多くの木が所狭しと植えられた区画があった。そのそばの歩道に、高良さんがいた。
 雨はかなり本格的に降っていて、私は傘が立てる音の大きさにイライラしていた。雨音すら私を馬鹿にしている、と腹を立てていた。
 高良さんは傘をさしていなかった。全くの手ぶらで、開花直前の金木犀の傍で、突っ立っていた。
 何をしているんだろう。何で雨に打たれて立ってるんだろう。
 私を、心臓を握り潰すような不安が襲った。明らかに彼女は、変、だった。
「ねえ、何やってんのこんなところで傘も差さないで」
 私は思わず彼女の腕を掴んで揺すった。
 彼女の目は虚ろで、私の方を見ていながら、意識はどこか遠くにあるように見えた。
「ねえ、ちょっと、聞いてる? いくら九月だからって、こんなの、風邪ひくよ?」
 私は彼女を自分の傘の中に引き入れた。ほとんど密接するような距離感に、ようやく彼女は私の存在に気がついたようだった。
「山辺さん……」
「何やってんの、雨に打たれてぼんやりするなんて、バカじゃないの、風邪引くでしょうが」
「……山辺さん、どうしたの?」
「ねえ、着替え持ってる? このまま帰れないでしょ。着替えないと風邪ひくよ」
「着替え……体操服が、教室に……」
「そう、じゃあ、教室に戻ろう、で、うちの部室、多分誰もいないから、あそこで着替えよう」
「……」
 私は強引に彼女の腕を引っ張って、彼女の教室まで行き、荷物を持って陸上部の部室まで連れて行った。そういえば、誰かに見られるかも、などとは一切考えなかった。とにかく、このびしょ濡れの人を着替えさせなきゃ、とそればかり考えていた。
 部室は思った通り誰もいなかった。部員以外立ち入り禁止であることを思い出して、私は泥棒のようにコソコソと滑り込み、高良さんを引き入れた。
「電気つけると、誰かにバレるかもしれないから」
 薄暗い部室で、私は高良さんに早く着替えるように指示した。
「え、ここで着替えるの?」
「当たり前でしょ、さっさとしなよ、いつみんなが帰ってくるか分かんないんだから」
「……」
 彼女はのろのろもたもたと自分の荷物を漁って、体操服を取り出した。真新しく見えるブラウスを脱いで、薄水色のキャミソール姿になると、彼女は手を止めた。
「早くしてって」
「……」
 私はそばの回転椅子に座って高良さんを見ていた。スカートを脱いで、キャミソールを脱ぐ、高良さんの後ろ姿を、ただひたすら見ていた。……気付いたら、座ったまま、高良さんのすぐそばにいた。
 高良さんの背中に、アマリリスが三輪咲いていた。……ように見えた。彼女の背には掌くらいの赤黒い痣が三つあった。
「これ……」
「血管腫を焼いた痕。成長したら消えるって言われてたけど、全然薄くならなかった」
「……」
 私は彼女の痣に手を伸ばした。指先でなぞると、少し凹凸があった。輪郭を辿ると、まるで本当にアマリリスのように見えた。何度も、何度も、繰り返し辿る。その度に、その痣は小さく波打った。
 どれだけの時間そうしていたのか分からない。私は遠くで人の声が聞こえて、ハッとして手を引っ込めた。高良さんは何事もなかったかのように体操服を着込むと、濡れた制服を代わりに袋に押し込んだ。私達は無言で部室を滑り出た。
「山辺さん……ありがとう」
 校舎の玄関口で高良さんはそっと言った。私は何も言わずに彼女に自分の傘を押し付けた。
「じゃ、また……」
 私は高良さんを置いて、そのまま自分の教室に舞い戻った。もう一本あった置き傘を取りに行って戻ったときには、もう高良さんはいなかった。


 その日を最後に高良さんは退学した、としばらくしてから知った。……もしかして私のせいだろうか。……そうと思わないように自分に言い聞かせて、忘れよう忘れよう、と努力した。しかし私が忘れてしまう日は、未だにやってきていない。
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