実里 ①

文字数 6,629文字

 マンションの外廊下をカツカツと大きな音を立てて歩く。その音で本日の自分の精神疲労度が分かる。
 澄んだ音なら、一日平穏無事だったということ。多少の夜更かしも明日に響かない。
 ガツガツ、と鈍い音なら、今日と言う日は早く終わらせた方が良い。だからサクッと寝よう。
 今日もマンションに着いた時までは軽快な音を出せそうだったのに。
 メールボックスを開けた瞬間から、私の足は近年稀に聞く湿った鈍い音しか発さなくなった。


 久しぶりに、妹から連絡が来た。薄ピンクのいかにもな封書。綺麗な透かしが入ってる。結婚式の招待状に違いない。
 すぐには開ける気にならなくて、まとめて持って帰ってきたチラシや何かと一緒にテーブルの上に放り出した。そのまま忘れてしまって、時間切れになっちゃえばいい。
 とりあえず、まずは喉を潤したいな。職場を出た時から喉のかさつきが気になっていたんだ。
 私が冷蔵庫を開けたのと同時に、玄関に置きっぱなしだったスマホから不穏な音が聞こえた。誰だ、こんな時間に連絡してくるのは。
 スマホを手にしてすぐに後悔した。母親からのメッセージだ。
《凪砂からの招待状届いた? いつこっちに戻ってくる? やっぱりアンタより凪砂が先に結婚するね!》
 長女への配慮のカケラもない文字に、イライラしてメッセージをゴミ箱へ振り分ける。
 ウチの女達はなぜ、私を放っておいてくれないんだろう。
 気付かなかったは通用しないと諦めて、封書を開けた。思った通りの型通りの文言と新郎新婦になる予定の二人の名前が書かれている。

 市井(いちい) 弘典(ひろのり)
 山辺(やまべ) 凪砂(なぎさ)

 末尾に妹のキレイな手書き文字でコメントが添えられていた。
《家族だけでこじんまりと行います。お姉ちゃんは必ず出席して下さいね。お姉ちゃんに会うのが楽しみです》
 私が楽しみにしているかどうかは考えなかったの?
 つい溜息が漏れた。心はざらつくが……しょうがない。妹は結局何も知らなかったのだから。


 市井弘典は私の元彼だ。
 弘典とは同じ中学受験塾に通っていた。同じクラスで、成績もずっと似たり寄ったりで、そして同じ目標に向かって努力した同志だった。二人で無事に同じ中学に合格して、いつの間にか彼は私の好きな人になっていた。
 中二の夏、勇気を出して告白した私に、俺も実里(みさと)が気になっていた、と言ってくれて、ついに好きな人が恋人になった。私は有頂天になった。
 弘典は誰に紹介しても申し分のない、完璧な彼だった。弘典は中学に入ってから身長と成績がぐんと伸びた。その上、元々スポーツ万能だったから、まさに天は二物も三物も与えたようだった。
 だからだろう、私はそんな誰もが羨む男の子の隣に自分が居られることに、舞い上がっていたんだと思う。いつも私は、弘典を見上げるばかりで、自分と彼が同じ何かだということを忘れていた気がする。
 高校卒業後、系列の大学へ進学する時、彼は医学部、私は文学部に振り分けられた。キャンパスが遠く離れてしまったと同時に、私の恋人ごっこは終わってしまった。
 はっきりと別れようと言われたわけじゃなかった。忙しいからと、彼からの連絡が何となく途絶えがちになり、気付いた時には彼の隣には別の女性がいた。ただそれだけ。


 次に弘典に会ったのは、妹の新しい彼としてだった。
 用事も予定もなく、ただ何となくぼんやりと家にいた土曜の午後、凪砂が突然連れてきたのが、弘典だった。
「お姉ちゃん、懐かしい? 親友だったんでしょ?」
 親友?
「実里、久しぶり」
 弘典は屈託なく、爽やかに微笑んでいた。
 親友? 誰がそんなことを言ったの?
 私の中の混乱したプライドが、私をニッコリと微笑ませた。余裕を装って、私はゆったりうなづいた。
「本当に、お久しぶり、市井くん、元気だった?」
「うん。実里も元気そうだ」
「もー。二人とも何その優等生な挨拶!」
 ケラケラ笑う妹をふいに蹴っ飛ばしたい衝動に駆られて、私は用事があったと言ってその場を逃げ出した。
 部屋に戻って、ベッドに体を投げ出した。そして涙の一粒も浮かべられたら、むしろすっきりしたんじゃないかと思う。でも私の顔は笑みを張りつけたまま、微動だにしなかった。案外、悲しくも辛くもないもんだな、と思ったのを強く覚えている。


 妹は本当に私と弘典の関係を知らなかった。彼女は中学受験を軽くこなし、私達とは違う学校に進学していたし、彼女が大学で弘典と再会した時には、彼の恋人は別の女性だった。
 妹は私より容姿も才能も何倍も上等に出来ている。弘典が凪砂を選んでも不思議はない。そうであっても、私が過去を吹っ切れているかどうかとは関係がない。私は結局ずっと昔の恋を引きずって、今の今まで生きてきている。


 妹が大学を卒業する頃、結婚するらしい、と母から聞いていた。


 そもそも誰かの結婚式に着ていけるような服は持っていない。いっそ喪服でも着ていってやろうか、と思ったりもした。しかしそんな下らないことをするのは、いくらなんでもみっともなさすぎる。私は繰り返し着た飾り気のない紺色のワンピースを選んだ。
 身内だけとはいえ、結婚式に参列するのには地味すぎるかもしれない。でも新しく服を買うのは嫌だった。暗い気持ちで安くない服を買うのは、服にも自分の財布にも優しくない。


 新幹線の乗り継ぎが想像以上にスムーズで、式までまだ何時間もあるのに地元に到着してしまった。このまま実家に帰るのは避けたい。お祝いムード一色の実家にいては、ほんの数分もたたずに窒息してしまうだろう。


 別れが確定してから、一度だけ、弘典に電話をした。
「どういうつもり? 私は別れたつもりないんだけど」
「え? 実里、もしかして、何か勘違いしてる?」
「……どういう意味?」
「俺らって、そういう関係じゃなかったと思ってたんだけど。だって、俺達、一度もそういうことしなかったじゃん」
 私はすぐに察してしまった。
「……そう、だよね……こんな時間にごめん、今までありがとう」
 それ以上何も言わずに電話を切った。
 そういうこと。……そうか、そう、だよ……。
 あの頃、私達は手を繋ぐことすらしたことがなかった。私は繋ごうと思ったこともなかった。私は弘典を「そう」いうふうに、見たことがなかった。私は、自分とは違う何かを崇拝するように、彼が好きだった。……そして弘典にとっての私も「そう」いう対象じゃなかった、のだ。


 結局、あの五年間は何だったんだろう。時間を無駄にしたとは思いたくないけど。


 大学卒業後、弘典に会うのも凪砂の顔を見るのも嫌で、私は遠く離れた地方で公務員になった。物理的な距離が心理的に距離を生んで、おかげで誰にも心の奥を踏み荒らされることなく表面上は穏やかに暮らせていた。……招待状を受け取るまでは。


 数年ぶりの地元は驚くほど景色が変わっていた。街の景色がこんなに急激に変化するものだとは思っていなかったから、衝撃を受けた。
 最寄駅から実家まで歩く道も綺麗に整えられ、明るく楽しげな店が両側に美しく並んでいる。
 道行く人々は明るく洗練されていて、自分とは別の生物にすら感じられた。どうしてみんなそんなに幸せそうなんだろう。どうして無防備に笑っていられるんだろう。
 この中に、私と同じくらい荒んだ気持ちの人間は、いないのだろうか。本当に? 一人もいない?
 舗装された道に響く自分のパンプスの音が耳障りだ。一歩歩く毎に、不幸を宣告されているようにしか思えない。歩いた先には針の筵地獄が待っている。


 ふと、小綺麗な店の窓硝子に映った自分の横顔が目に入った。なんて萎んだ惨めな顔だろう。全体的に顔色が暗く、目も空ろだ。ああ、チークが薄過ぎて色味が飛んでしまっている。だからこんな暗い顔に見えるんだな。……まあ、どうでもいいか私なんて。
 思わず立ち止まって、全身像を確認する。顔に負けないくらい暗い姿。ワンピースは古めかしく色褪せて見える。背中が少し丸まっていかにも自信が無さそうに膨らんでいる。
 不幸な女、という言葉が脳裏に浮かんで消えた。どう考えても、これはまずい。まるで妹に嫉妬しているように見えるじゃないか。
 あ……。硝子の中の自分の背景の、綺麗なショーウインドウに視線が向いた。ハッと振り返ると道の向こう側に花屋が見える。
 こんなところに花屋なんてあったかな? いや、私がここを通らなくなった二年の間に新しく開店したんだろう。まだ店の全てが新しい。
 恐る恐る花屋に近寄った。その店は、私が想像できるような昔ながらの花屋の雰囲気はまるでなく、まさにフラワーショップと呼ぶべき店だった。
 店先にはアレンジされた色とりどりの花束が複数、絵画に切り取られた一場面のように陳列されていた。みるからにアーティスティックな雰囲気を醸す、洒落た店だった。私みたいな日陰に生きる者などは門前払いだろう。
 飾られたアレンジメントに少しの間目を奪われて立ち止まっていたら、店内から中年女性が出てきた。不審に思われたのかと思って腰が引けたが、彼女は、いらっしゃいませ、と声をかけてきた。
 店員はおよそ店にはそぐわない、普通のおばさんに見えた。昔ながらの花屋にいるような骨太な体格のさっぱりした風貌は、店先の演出とかけ離れている。だからつい、思わず、言ってしまった。
「あの、ここって、コサージュとか、作ってもらえますか?」
 彼女は驚きもせず、ニッコリ破顔した。
「ええ、出来ますよ。いつ、必要なの?」
「あ、あの……実は、今日、16時迄に」
「え……。今日いきなりっていうのは、ちょっと……小さくても時間がかかるものなのよねぇ」
「そ、そうですよね、すみません」
「いや、ちょっと待って。待ってね、ごめんなさい、いきなり『出来ません』なんて、プロ失格だわ。大丈夫、まだ三時間近くあるし、作れるかどうか、聞いてきます。そうだ、貴方は、まずは店内に入って、花を見ていて下さいな」
「あ、いや……」
 彼女はこちらの返事も聞かずに店内に入って行った。
 一人残されて、そのまま立ち去るわけにもいかない。私はのろのろと店内に入った。
 中は花屋特有の、あの緑くさい甘い香りが充満していた。若干外より寒い。冷房の寒さというより、冷蔵庫を開けた瞬間浴びる冷気が漂っているという感じ。それは当たり前で、店内入ってすぐ右側に巨大なガラスのショーケースがあった。
 今までほとんど花屋に立ち寄ったことはない。そんな数少ない私の経験では、こんな巨大なショーケースを見たことがなかった。私の知る花屋のショーケースの何倍も大きく奥行きがある。
 そういえば、私の知る花屋では、店内には鉢植えがたくさん並べられているイメージだ。しかし、この店には鉢物が全くない。おそらくフラワーアレンジに特化した店なんだろう。なんか気取ったイヤな店だな。
 さっきの店員すらも、気取った、感じの悪い人だったような気がしてくる。……それが卑屈な自分の明らかな被害妄想であるとは分かっているけれど。
 いつまでも店員が戻ってこない。もうイイです、それを言うためだけに待っているのに。
 不満を胸のうちに並べつつ、しかし、つい、ショーケースの中を覗き込んでしまっていた。もともと花は好きでも嫌いでもない。しかし、そこに並んでいる色とりどりの花を眺めていると、気持ちが妙に踊った。見たこともない変わった花が多い。私に分かるのは様々な色のバラくらいで、後は見たことがあるようなないような、そんな縁薄い花々ばかりだ。
「あ……」
 つい、声が出た。
 ショーケースの奥も奥まった隅っこにひっそりと仕舞われた花に意識が釘付けになった。
 あれはアマリリス。知ってる、ほとんど黒に見える、深紅のアマリリスだ。
 キュ、キュ、キュ、キュ、と床を靴裏が擦る音がして、奥にあった階段から人が降りてきた。白く塗装されたスチール階段から降りてきたのは、少し背の高い、長い髪を一つに生活結びした女の人だった。目線が足下にあって見るからに暗い。そのすぐ後ろから先程の女性店員も降りてきた。
「ごめんなさい、お待たせして。大丈夫、今から作業すれば間に合うから、どうぞ?」
 女性店員が私ににっこり笑顔を向けた。
 ……少額の客だと分かっているよね? 私は意地悪くそんな事を思い、ついさっきまで断る気でいたのに、その言葉が出てこなくて戸惑った。
「あ、あの、あの……あの黒い、アマリリスでも作っていただけますか?」
「ええ、大丈夫ですよ。……だよね?」
 女性店員は笑顔を崩さず答え、隣の暗い女の人に確認をとった。
「予算」
 外見以上に冷たい低い声が私に突き刺さった気がした。
「……え?」
「ああ、予算はいくらくらいで作りましょう?」
 笑顔で中年店員が言い直す。二人のギャップに私は呆気にとられて思考が停止した。
「予算……」
 口の中で繰り返す。
 ……しまった、ものすごく高いのだろうか。普段花など買う高尚な趣味はない。ただ花って思っているより高い、ということは知っている。
「……大体、相場はいくらくらいなんでしょう?」
 聞くのも恥ずかしいが、聞かないことには予算など決まるはずもない。
「そうね、こじんまりしたものだと千五百円くらいから、あのアマリリスを使うなら、もう少し」
「じゃ、じゃあ、三千円で」
「あら、いいの? それなら十分だわ」
 女性店員は、優しく言った。私は突拍子もない高額でなかったことに密かに胸を撫で下ろした。
「その服に?」
 唐突にもう一人が発言した。私はまさか話しかけられると思っていなかったから、ただただ驚いた。
「え、ええ……」
 なんか問題でも? すぐに卑屈の芽が出て、思わず挑戦的な目付きで見返してしまう。
「そう」
 それ以上は何も言わない。何だ、この変な女。
「じゃあ、こちらで伝票を作りますから」
 女性店員に促されて、ショーケースの丁度反対側の壁際のテーブル席に移動した。
「こちらにお名前と、お電話番号をお願いしますね」
 名前を書いて、電話番号を書く。
「じゃあ、出来上がったらお電話しますから」
 女性店員の言葉に、私は反射的に返事をした。私には行き場がない。ここから追い出されたくない、と咄嗟に思った。
「いやあの、ここで待っててはダメですか?」
「ダメ」
 無愛想な方がショーケースの方を向いたまま言った。
「え」
「結構時間かかりますから、どこかでお茶でもしながら待ってていただいた方かいいわ。退屈でしょうし」
「いや……作業を見ていてはダメでしょうか」
「ダメ」
 無表情な方の店員が冷たく言い放つと、手に、あのアマリリスと何種類かの葉っぱや実のついた枝を持って、ショーケースと私の座っているテーブルの間の、巨大な白い作業台に戻ってきた。
 まさか、この人が作るの?
 およそ花とは縁のなさそうな、この暗い女が?
「店長、見られたくないんで、どこかに行ってもらって」
 ……やっぱりこの女が作るらしい。
 むしろ見張っていた方がいいんじゃないか、とさえ思う。とても花をどうこう出来るようには見えないし、それ以上に私はこの暗い女が作るというコサージュに俄然興味が出てきていた。
「ぜ、絶対、邪魔しませんから、存在感を薄くして待ってますから、どうかお願いします」
 大袈裟に頭を下げる。
「ほら、先生。いいじゃない、待っていたいって言ってるんだから」
「……」
 足元を睨むように黙っている女を無視して、中年女性の方が明るく言った。
「いいですよ、お客様、見ててもつまらないかもしれないけれど、少し見ていって下さいね」
 女性店員は私に微笑むと、配達に行ってきますね、と言いおいて奥に去って行ってしまった。私はちょっと心細い気がしながらも、待つ場所を確保できてホッとした。


 その店員は流れるように作業していた。花はどれも残酷なまでに切り詰められ、針金を刺されて、テープでぐるぐる巻かれていった。とても美しい作業だった。まるで刀鍛冶が日本刀と向き合っているような、そんな研ぎ澄まされた静けさが店内を支配していた。
 私の存在は、気にならないように見えた。私のいないどこかで一人作業をしているのと変わらない。すごい集中力だな……。
 長い指が動くのを見ていると、自分自身も時が止まったような感覚になる。自分が針金を刺されて緑のテープで引き締められている、ような。


 アマリリス。
 黒いアマリリス。
 ほとんど黒に見える深紅のアマリリス。
 私はあの花を知っている。
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