その2 祇王[ぎおう]

文字数 2,983文字

【前説】
 祇王さんがどんな人かというと、白拍子といって、舞いを舞い歌を歌う人です。舞も歌も上手で美しかったので、清盛に可愛がられてお屋敷の中にお部屋まで与えられていました。
 ところがある日突然、清盛はもっと若い舞姫、(ほとけ)御前に心変わりしてしまい、祇王はお屋敷から追い出されてしまいます。(ホトケというのはいまの感覚だと舞姫の名前にしては地味ですけど(笑)、当時は仏教的な歌詞を歌ったりしたので、違和感はなかったようです。)
 悲しいお話です。
 ちなみに、祇王を「妓王」と書くのも、彼女の幼名が「明日香」だというのも、彼女が平忠度(ただのり)卿(清盛公の年の離れた弟)に片思いしていたというのも、どれもこの著者のオリジナルです。それじたいはべつにかまわないと思います。

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 ほんとの恋は、忠度に寄せていたのである。おととし、いそいそと、六波羅への使いに立ったのも、その忠度に、よそながらでも会えることのうれしさからであった。
 ――が、運命の悪戯(いたずら)は、その夜、清盛の(へや)へかの女を追い入れてしまい、恋は、胸の奥所(おくが)に、生き埋めとなってしまった。以来、その忠度の姿を、一つ(たち)のうちに見かけることもあったが――ふと、相見るたびに、恥かしさ、うしろめたさ、口惜しさ、たれにもいえぬ思いであった。
 それなのに今、去れと暇を出されれば、妓王はそれにも、身を揉むばかりの悲嘆にとらわれた。なぜであろうか。かの女にすら分からない苦しみだった。胸に、胸のうちだけの恋を秘め、そして、女の体というものは、まったく他の男へ託しきってしまった者にだけ生じるふしぎな内面の(せめ)ぎであった。心は一つしかないはずのものでありながら、二つの心が自分の中に住んでいたことを思い知る苦悶の怪しさは、産婦の陣痛のように、女性だけが()けて生まれたもののようである。その不公平な生理や心理を、どうしようもなくただ泣きもがいて来たその時代の女性たちは、われとわが身を「罪深い女の身……」といい、「――女は魔性のもの」と、考えたりして、宿命にも泣くのであった。
 しかし妓王は、夜が明けると、いつものように、きれいに朝化粧をすましていた。
 そんなにまで、夜を泣き明かしたとは、たれにもさとられないほどにである。
 女童(めわらべ)たちに、室内を掃き清めさせ、好きな香を焚きこめなどした。その様子は、あくまで、理知で冷静なひとに見える。――明日香とよばれていた童女のころから、どこかにそういう風なかの女ではあった。かの女の恋が、第一の恋も第二の恋も山吹の花のように、実を結ばずにしまったのも、そういう知性に片寄っている性格が、知らず知らずに、きょうの運命を、自分で作っていたのかもしれない。

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 中略……。
 もういろいろびっくりなんですけど、ここで劇的な展開があるので、それを説明して先へ行きます。
 どんな展開かというと、
 祇王御前が世をはかなんで出家した後、なんと、仏御前が祇王御前を追いかけてきて、いっしょに尼になってしまうのです!
「明日はわが身だと思いました」と泣くホトケちゃん。手をとりあって泣く二人。
 祇王さんの妹ちゃんとお母さんと合わせて四人、尼としてなかよく暮らすのでした。
『平家物語』の中でも、とっても感動的な段なのですが……

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 もしまた、清盛が、妓王と仏御前の出家を聞いたら、なんといったであろう。おそらくは、大いに笑ったにちがいない。そして、あたりの侍者へ、例の調子でこうもいったことであろうか。
「わからぬよ、どうもおれには。性来、おれは女の心を解さぬ男にできているのだろうか。……それにしても、どうして若い女どもが、やたらに髪を切りたがるのであろ。こんな流行りは、止めさせねばいかん。男の入道とは、わけがちがう。婆ならままよ。可惜(あたら)なものだ。――清盛の室の花であろうとなかろうと止めさせねばいかん。浮世のながめが淋しくなる……」

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【感想】
 これにも、びっくりしました。
 常盤御前とまったく同じパターンで、しかもさらに悪質です。

 小さいびっくりのほうを先に書くと、
 祇王さんが「知性に片寄っているから男に捨てられるのだ」とさりげなく書かれているの、ひどいな、と思いました。
 その不幸を
「運命」
と言っているのも、ひどいな、と思いました。
 悪いのは、天の神さまか、彼女自身ということなんですね。それも、彼女がきちんと自分を律して静かに身を引くから。可愛いげがないということでしょうね。
 彼女が男の人ならきっと「あっぱれ武士道」ってほめてもらえるのに。

 メインのびっくりは、常盤さんのケースのびっくりとも重なりますけど、
 清盛さんがどんな乱暴をしても、された側の女の人は気持ちいい、という設定になっていることです。
 言葉が見つからないレベルのびっくりです。
(前のページでは本当に絶句したままになってしまいました。)
 
 だいたい、男盛りだからといってセックスが上手とはかぎらないし、権力の座についているからといってセックスが上手とはかぎらないと思います。
 地位が上がるとえっちできるチャンスが増えるので、上手になるのでは?という仮説も成り立ちますが、
(私は偉い人とえっちしたことないし、そもそもおつきあいした相手が片手でじゅうぶん足りるので、わからないですが、)
「はじめに」で書いた黄金ルールにしたがうと、相手の言うことを聞かない、相手の反応にうわのそらの人は、まちがいなくセックスが下手です。
(つまり、もしかしたら、社会的地位が高い人のほうが、反比例してセックス下手の確率が高いかもしれません!)

 下手なやりかたで何百回やっても上手くはならないです。それはまちがいないです。
 下手なフォームで野球やゴルフをやりつづけても下手なままなのと同じです。

 まして、
 強姦でもテクニシャンだったら、ヤリつづけていたら女は喜ぶようになる、
 ということは、ないです。
 強姦は強姦です。テクニックも何もありません。

 前半部に「運命の悪戯(いたずら)は、その夜、清盛の(へや)へかの女を追い入れてしまい」と書いてありますが、「運命のイタズラ」でもなんでもありません。
 あきらかにレイプなんです。
『平家物語』にはそんなこと書いてないんですね。
 わざわざ、青ざめて恐怖にふるえ、涙を流す舞姫の姿をこまかく書いているのも、この著者のオリジナルです。

 この清盛さんは、そしてこの清盛さんを楽しげに描く著者は、
「女心がわからない」のではなく、
 もっと基本的なこと――

 相手も人間なのだから、ふつうに心があるのだ。
 誰かの欲望の餌食にされるために生まれてきたわけではないのだ。
 そして、その誇りを踏みにじられても、
 復讐心に燃えて相手を害そうとしたりはせず、そういう修羅道には堕ちず、
 自分の力で(み仏の力を借りて)立ち直り、生きていこうとしているのだ。
 ということ――

 数百年も前に書かれた『平家物語』にはっきりと語られているこのことが、
 まったくわかっていない、と、

 みずから暴露してしまっているだけなのに、なぜこんなに嬉しそうなのでしょうか。


※吉川英治『新・平家物語』「石船の巻」より(新潮文庫第3巻,480-482ページ,491-492ページ)
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