第1話

文字数 4,744文字

 トンネルの入口が見えてきて、

「あれ? これで何個目やったっけ?」と我に返った。

 大阪から東京まで、いくつ山を越えなければいけないのか。
 たしか10個目くらいまではちゃんと数えていたはずなのに──。



「うち、また眠くなってきたわ……おやすみって言うたら怒る?」

 今から一時間くらい前、(はるか)はその言葉を最後にまた眠ってしまった。
 トンネルの中は昼でも夜でも同じ明るさで、車内はその独特のオレンジ光を浴びて何もかもが灰色に見えるのだけれど、明るい。
 ふと助手席の方を見ると、遥は相変わらず姿勢よく、器用に首だけを横に倒して眠っていた。
 彼女はシートを倒したりしない。眠くなったら素直に「おやすみ」と言うくせに、そこは強がって起きているフリをしているみたいで笑ってしまう。
 そんな体勢だから常に頭のてっぺんがサイドガラスに触れていて、そういえばさっきもその様子を見ながら、頭がぼーっとなったり、首痛くなったりせえへんのかな? と気になっていた。
 次に遥が目を覚ましたら聞いてみよう、と思っていたはずなのに──。

 長いトンネルを抜けると、視界は目の前を照らすヘッドライトの光以外暗闇の中だった。
 それから少しの時間で濃紺色に見えてきた空から、夜明けの色が落ちてくるような感覚になって、反射的にナビの時計を見たけれど、そこに表示されている時刻は4:55で、この季節の太陽が顔を出し始めるにはまだ30分ほど早い時間だった。
 到着予定時刻は5:30。さっきサービスエリアを出る時に見た時刻よりも、いつの間にか10分ほど遅くなっている。
 ぼくはアクセルを踏む右足に力を入れた。
 少し急がなければ、間に合わないかも知れない。
 だけど、助手席の遥はそんなことを気にするどころか、相変わらず同じ体勢のまま身動きした様子もなく、気持ちよさそうに眠り続けていた。



「あのな亮太(りょうた)、電話でも言うたけど、うち明日の昼までに東京戻らなあかんから」

 今日の夕方、新大阪駅からぼくの車に乗った遥の最初の言葉がそれだった。

「え!? 明日の昼までって、あれほんまやったん!?
「ほんまやって。やから何回も聞いたやん。送ってくれるん? って」

 ぼくの車を見つけて手を振る彼女は、東京から新幹線に乗ってここまで来たはずなのに、ちょっと近所のコンビニに出掛けるくらいの普段着で、肩に掛けていた鞄も小さくて、ほんまに東京から来たん? と疑ってしまうほど身軽な格好をしていた。
 まあ、そんな遥のことを昔からよく知っているぼくからすれば、なんだそれくらいと逆に少し物足りない気もしたけれど、今日、彼女が大阪に帰って来た目的は同窓会。さすがに、それでいいのか。

「確かに言うてたけど、そんなん嘘やと思うやん。やって東京やで!? 難波から天王寺とちゃうねんで!?
「やから何回も聞いたやん! 亮太がそれでもええから来いって言うから来たんやで」

 遥は半年ぶりにぼくの車の助手席に座ったはずなのに、いつもここに居るのが当たり前、みたいにくつろいでいた。

「ほんまにその電話の相手おれか? 誰かと勘違いしてるんちゃうん?」

 遥は横目でぼくを睨む。

「あ、わかった! それ、桜井(さくらい)や! あいつなら言いそうやん」
「は? 桜井とはしばらく連絡とってへんし。てか亮太は桜井と会ったりしてるん?」
「あー、たまにな。けどあいつも色々あって……仕事も大変そうやし」
「社会人になったらなかなか都合つかんよな……いや、待って、ていうか桜井とうちらってそもそも高3の時同じクラスじゃなかったやん」
「あ、ほんまや」
「まあ何にしても桜井とも久しぶりに会いたいなあ。てか、そんなことよりもとにかく明日、目黒まで送ってくれたらそれでええから。頼んだで」

 彼女はぼくの肩をポンと叩く。

「マジか。目黒って……具体的な地名が出てくるとやけにリアルやな」

 車は新御堂のバイパスを難波に向かって走っていた。
 高校を卒業してから5年が経って、初めての同窓会が18時から始まる。
 たぶん、時間はギリギリ。

「ガチな話。明日の昼までに、大事な書類を提出しに会社行かなあかんねん。もし、間に合わへんかったら亮太とはもう一生口聞かへんから」
「え、それは困る。めっちゃ困る」
「せやろ? なんやかんや言うても、うちら幼なじみで大親友やもんな?」彼女は声のトーンを上げた。
「そう、それな! そのよしみで今度、遥に東京の女友達紹介してもらおうと思ってたから」
「なんやねん、それ。東京の子と付き合ったって長続きせーへんって。遠距離なんか無理無理。会おうと思ってもすぐに会われへんねんで」
「そんなことない。距離と時間は別や!」
「は? 意味分からんし。物理の時間寝てたんちゃうん? 時速っていうのは1時間に進む距離のことやで」
「知ってるわ! おれが言いたいのは、そうじゃなくて……お互いの、その、もっと深い意味での話や」

 すると遥はじっと前を向いたまま一度口を閉ざした。
 そして溜息のようなものを一つついてから、

「やっぱりわからんわ、亮太が言うてること」と急に落ち着いた口調で言った。

 車はいつの間にかバイパスを降りて梅田の辺りを通り過ぎ、国道25号線を難波に向かって走っていた。
 前の車のブレーキランプが忙しく点いたり消えたりしていて、なかなか思うように進んでくれない。

「そやけど……遥はちゃんと遠距離恋愛してるやん」
「まあ……、そうやけど」

 遥の声に力がなかった。気になったけど、それ以上は聞かないことにした。
 遥の彼氏は和也(かずなり)で、ぼくと和也は中学からの友達だ。ここ最近、ほとんど連絡はとっていないけど。
 ぼくの知る限り、二人は高校3年の、いつからかは知らないけれど付き合っていて、今は東京と大阪で遠距離恋愛を続けている。
 この話の続きは、明日、和也に久しぶりに電話でもして聞いてみようと、あの時そう思っていたことを今思い出した。

「あ、もう明日じゃなくて今日になるのか……」と一人で納得しながら助手席の方を見ると、遥は相変わらず気持ち良さそうに眠り続けていた。
 ぼくはそんな彼女をそっとしておいて、車をひたすら東京に向かって走らせ続けた。



「あれ? 亮太? もう着いたん?」
 車を停めた瞬間、遥が久しぶりに声を出した。

「いや、まだやで。そんなに早よ着けへんわ」

 遥はシートに深くもたれたまま、両腕を頭の上で組んで「ここどこなん?」と伸びをしながら言った。

「海老名サービスエリア」
「エビナ?」
「そう、もうすぐ横浜やで。ほんまよう寝てたな」

 遥は少し腰を上げてシートにきちんと座り直した。

「やって昨日ほとんど寝てないんやもん。しゃーないやん」
「え、そうなん?」
「そうやで。亮太が今日どうしても来いっていうから、明日提出の書類を昨日オールで仕上げてたんよ。やからうちが眠いのは完全に亮太のせいや」
「なるほどな。そやけど、久しぶりに大阪ドライブできたし、それはそれでよかったやろ?」
「うん……まあ」

 遥は小さく頷いて、膝の上に置いてあった指先に視線を落とした。
 理由はあれやな(・・・・)と、だいたい分かっていたけれど、そこには触れないようにしようと思った。

「どないしたん? まだ眠いん?」
「うん、ずっと眠いで」

 遥はもう一度両腕を頭の上で組んで、今度は小さなあくびをした。

「ずっとって……そうや、眠気覚ましにコーヒーでも飲みに行こか!」
「え!? 外に出るん!? 寒いやん!!
「何言うてん? やから眠気覚ましになるんやろ。それにカフェインには眠気を覚ます効果があるから、ここから東京までずっと起きてられるで」
「いや、いい。うち、まだ寝るつもりやから。眠気覚ます必要ない」
「は? なんでやねん! もうちょっとで東京やねんから起きとけよ!」
「嫌や。眠いもんは眠い」
「まあええわ。とりあえずコーヒーや」ぼくはエンジンを切った。
「っもう。はいはい、わかりましたよ。行きますよ。その代りコーヒーは亮太の奢りな」
「なんで? 高速代とか全部おれが出してるんやからコーヒー代くらい出すやろ? 普通」
「ちゃうやん。大阪行きの新幹線代はうちが出したんやから、交通費はこれで割り勘やろ?」
「あ、そっか。まあ、言われてみればそうやな……」
「やろ? だからコーヒーは亮太のおごりな」

 サービスエリアにある休憩所の中は暖房が効きすぎていて、車の中よりも暖かいくらいだった。
 自販機で温かい缶コーヒーを二つ買って、外に出た。
 両手で缶コーヒーを握りしめ、そこに白い息を吹きかけながら建物に沿って少し歩いていくと、等間隔に幾つも並んでいる木製のベンチがあった。
 遥が一番端のベンチに座ったからぼくもそこに並んで座った。
 プルタブを開ける前に遥が言った。

「めちゃめちゃ寒いやん。まだ10月やろ? なんでこんなに寒いんよ」
「そんな部屋着みたいな格好で来るからやろ? 自業自得や」ぼくは笑いながらツッコミを入れた。
「いや、まさかこんな明け方に外でコーヒー飲まされるとは思ってないやんか」

 ぼくは爆笑した。

「な、もう戻ろ。車運転しながら飲んだらいいやん」
「寒いからホットがおいしいねん。それに暖かい車の中でホットなんか飲んだら余計に眠くなるだけや」
「大丈夫! いける! もう目覚めたから!」
「そんなん言うてまたすぐ寝るんやろ?」

 ぼくのプルタブを開ける音が、目の前にある静かでただっ広いサービスエリアの駐車場に響いた。

「どっちでもええやん。とにかくうちらアホやで? こんな夜中に外で震えながら缶コーヒー飲んでるって」 

 遥は寒くてじっとしてられなかったらしく、勢いよく立ち上がり、ぼくの腕を掴んで駐車場の方に引っ張った。

「な、大野(おおの)くん! 悪いこと言わへんからもう戻ろ? な?」

 ぼくはそんな遥をベンチに座ったまま見上げた。

「なんでいきなり苗字やねん。てかほんま寒がりやな、昔から。コーヒー飲んだらええねん。温もるで」

 すると、遥はその場でピョンピョン飛び跳ね出した。

「もうええから早よ戻ろうやー」
「おい、松本(まつもと)……なんで飛んでんねん」
「苗字で呼ぶな。これ、ほら、ラジオ体操のジャンプっぽいやろ? せっかくやから今からやらへん?」
「やらへんわ! なんでサービスエリアでラジオ体操せなあかんねん」
「やって運動したら体温まるやろ? ラジオ体操アプリ探そ」
「アホか。そんなアプリないわ。てかコーヒー飲まへんの? せっかく奢ったったのに」

 ぼくが飲み干した空き缶をベンチの傍にあったゴミ箱に捨てると、中からカラーンという音が聞こえて、それがまるで二人の歩き出す合図かのように遥は飛ぶことをやめて、ぼくはベンチから立ち上がった。

「ラジオ体操か……懐かしい、あの頃は楽しかったな」

 さっきまで飛び続けていた遥は、少し息を切らしながらそう呟いて、乾いた声で笑った。

「なんや? 今は楽しくないんかいな」
「なんていうか……自由じゃないやん? 守らなあかんものもいっぱいあるし」
「なんでやろな? 今の方が自由で怒られることも少なくなってるはずやのに。子供の頃の方が校則とかルールとかに縛られてたはずやのにな」
「そうやねん。なのに、子供の頃にしか出来へんことの方が、大人になってから出来ることよりも多いと思わへん?」
「う……ん」
「子供の頃に出来たことは、大人になってからでも出来るってことやろ?」
「まあ、そやな」
「やったらなんで、いつまでもそうやって楽しく生きていかれへんのやろ?」

 ぼくと遥は足を止め、並んで空を見上げた。
 満月に近い暁月が低い位置を流れる雲の切れ間から、二人の吐く息をほのかに白く映し出していた。
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