第4章 近代と陰謀論

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第4章 近代と陰謀論
 「陰謀論(Conspiracy Theory)」は、ある事件・事故・出来事について経験科学的客観性・実証性を逸脱して隠された人為的策謀・謀略によるものだと解釈する主張である。秘密裏に影響力の持つ悪の利害関係者が征服や支配といった政治的動機・抑圧的意図によって陰謀を操作しているとするが、部分的には事実が含まれていても、その説明は根拠の組み合わせや理解が恣意的だったり、信頼性が乏しかったり、企みの目的自体に説得力がなかったりして概して荒唐無稽である。

 陰謀と陰謀論は異なる。前者は古来よりあるが、後者は近代に登場したものである。1219年、鎌倉幕府三代将軍源実朝は鶴岡八幡宮で公暁に暗殺される。この事件は陰謀である。それをめぐり研究者の間で真の首謀者が誰なのか議論が続いている。彼らは史料に依拠して実証的に自説を主張している。それは仮説であって、陰謀論ではない。研究者はこの陰謀を善と悪の闘いではなく、権力闘争として捉え、経験科学に基づく分析に酔って自説を展開している。

 一方、陰謀論では、陰謀を企てたアクターたち以外にそのシナリオを書いたライターや取り仕切る演出家という影の悪党がいる。彼らはこの件で利益を享受し、自らの関与の痕跡を消し去る天才的能力を持っている。陰謀論の証明は実証性に乏しい循環論法で、論理的整合性が妥当であるかどうかを理性に評価してもらうのではなく、善悪を強調して感情に訴える。論証は経験科博を装っているが、実際には似非科学である。陰謀論は反証可能性のある仮説ではなく、教条的な信念だ。

 陰謀の歴史は古いが、陰謀論のそれは新しい。「陰謀論(Conspiracy Theory)」という概念は、諸研究によると、英語圏において19世紀後半から20世紀初頭に確認される。近代において研究や報道は、道徳的価値判断を取り除き、経験科学的客観性・実証性が求められる。陰謀論は、見かけ上その形式をとりつつも、自身の価値観を正当化・実現化するために、具体的な敵を規定、それに対する人々のルサンチマンに訴える。事件・事故・出来事の原因は環境を含めた諸要因の複雑な関連ではなく、特定の組織や勢力の作為である。

 陰謀論は近代の偽書である。それが登場したのには、その時代を支える基礎的理論と現実の間の矛盾への反発がある。関連を明らかにするために、近代の理論的基礎について説明しよう。

 前近代の伝統的共同体はその存立根拠を神話によって語る。それは共同体の形成が人為的ではないことを意味する。神話は共同体の構成員に通時的・共時的な共通基盤を与える。それを共有する人たちが共同体を構成しているというわけだ。その神話というものは共同体によって異なる。各々に類似点・相違点もあるが、こうした神話に標準形はない。

 近代社会もその構成員に共通基盤が必要である。共有する理解がなければ、人々は社会をどのように維持・運営していけばいいのか皆目見当がつかない。

 近代は欧州で繰り広げられた宗教戦争を経て登場する。その経験から宗教を共通基盤にすることは避けられる。宗教は私的な内面の問題と位置づけ、公的な政治には別の見方が必要となる。こうして政教が分離される。

 前近代と違い、近代は形而上学によって基礎づけられる。神話ではなく、経験的に考察可能な仮定を前提にしている。それは近代という政治社会が人為的に形成されたことを意味する。ただ、この形而上学は伝統的な7つの自由学科ではない。社会を考察対象にする「新しい学」である。後にこれは社会科学と呼ばれる。

 理論は他者が理解を共有するために不可欠である。今日でも同様である。世界銀行は途上国への開発援助に関して内容だけでなく、その根拠となる理論も同時に公表している。理論を共有した上で、内容や効果の妥当性を吟味する。それによって理論自体の修正や保管も可能になる。近代を理解するためにはこの基礎づけの理論を知る必要がある。

 ただ、各国が近代化を内発的に行ってわけではなく、産業革命の英国をモデルとして援用している。実際、近代の基礎づけは英国の思想家から進められている。だから、近代には標準形がある。

 近代を最初に基礎づけた理論は社会契約説である。中でも、トマス・ホッブズやジョン・ロックは政治・経済についての考察を体系的に展開している。さらに、影響された大陸やスコットランドの啓蒙主義者が近代にふさわしい諸制度に関する形而上学的提案も発表している。

 社会契約論の契約は一つの思考実験である。個人が集まって人為的に社会をつくったと考えるモデルだ。契約は他者間で必要とされる。他者と共存する社会を想定する際、その相互承認を契約として考えてみる。これが社会契約論の発想である。だから、契約概念が一神教の伝統に縛られるわけではない。歴史を遡って契約によって社会がうなれたことなどないと近代を基礎づける理論を批判することは意味をなさない。

 人間は、本来、自由である。その基本的権利は所有権だ。自然はそのままでは人間にとって有用ではない。人間が労働することで初めてそうなる。だから、労働によって得られたものを個人的に所有する権利は不可侵である。私的所有権こそが基本的人権である。前近代と異なり、近代において重要なのは徳ではなく、権利だ。ただ、自由な個人が同意するならば、お互いの所有物を交換することができる。その交換の場が市場である。

 市場は需要が増えれば、価格が上がり、供給が増えれば、下がる。参加者は需要側なら、できるだけ安く、供給側ならできるだけ高く価格がつくことを望む。けれども、参加者が多いと、思惑通りにならない。市場において個人は自由であるだけでなく、お互いに平等で、自立している。こうした個人によって形成されているのが市民社会である。市場経済は市民社会の基盤となる。

 個々人が活動すると、自由であるから、利益対立が起きる。それを調停する第三者が必要だ。生命と財産を守るために社会はその第三者に統治を信託する。それが政府である。政府は目的を行使する手段として個人にはない暴力を含めた権力が認められる。

 この政府の活動には資金が要る。それに協賛する限り、社会は政府に納税する。所有権が不可侵であるから、課税は政府が強制しているわけではない。この課税協賛説が近代の課税の理論である。近代を考える際に、歴史的に遡行するだけでは不十分だということがここからも理解されよう。

 しかし、政府は社会ではなく、自己の利益のために権力を行使し、暴走するかもしれない。それを防止するためには権力を分立させ、相互に牽制させればよい。行政・立法・司法の三権分立が近代の統治のフォーマットである。

 政府にとれるとこからとることをさせないために、徴税は法に基づいていなければならない。立法をするのは政府自身ではなく、議会である。アメリカ独立戦争の主要なイデオロギーは「代表なくして課税なし」である。宗主国は三権分立を軽視し、同じ臣民であるはずの植民地の権利を保障していないというわけだ。そのアメリカは独立の際に市民の権利の保障を明文化して公表する。これが成文憲法制度の始まりである。

 その政策の立案・議論・運用の際に根拠となるのが経験科学である。宗教は人々の共通理解ではもはやない。政策の論拠は、自由で平等、自立した個人である通常人の理性や想像力の及ぶ範囲、すなわち現実検討能力の範囲内でなければならぬ。経験科学は客観性・実証性・再現性を持っており、それにふさわしい。科学的方法が新たな社会の建設に貢献する。

 前近代は政治と宗教が結びついている。政治の目的は徳の実践、すなわちよく生きることである。しかし、近代は政教分離の時代である。政治は平和の実現を目的にし、個人は自由に価値観を選べ、それに基づいて幸福を追求できる。個人が集まった社会の目的は幸福を増大、不幸を減少させることである。これが功利主義の言う「最大多数の最大幸福」である。功利主義も近代を基礎づける思想の一つだ。

 この効用には物質的快も含まれる。快を増やし、不快を減らすために利用されるのが科学技術である。前近代において科学と技術は別々に進歩している。しかし、近代において両者は融合する。近代人が共通理解と位置付ける経験科学に裏打ちされた技術が科学技術である。

 陰謀論は以上のような近代の基盤理論に対する不信や懐疑、怨恨、反発を動機にしている。現実が近代の原理通りになっていないという憤り、あるいは理論からもたらされる現実の変化に覚える不安もそこに含まれる。そのため、近代のコンセンサスに問題があるとしてその超克を試みる思想はしばしば陰謀論に利用される。

 市場経済は選択の自由を用意し、科学技術は政策の際の共通理解となり、人々の生活に幸福をもたらすはずのものである。ところが、巨大化した企業は市場を独占、選択を押し付けてくる。科学技術は高度に専門化し、研究者はいざ知らず、一般市民が理解することは困難である。それに基づく政府の意思決定も不透明・不公正で、本当に合理的かどうかもわからない。近代社会は人為的である。そこがこのような状況に陥っているとすれば、密かに利益を得ている連中の仕業としか考えられない。

 それを証明するには科学的方法が必要であるが、専門家でなければ理解できないものではなく、隠蔽に利用されないために、一般市民が直観的にわかるものでなければならない。市民は倫理に従って日常生活を送っている。ペダンティックな知識や科学リテラシーがなくとも、道徳的判断は誰にもできる。その際、コンセンサスのある主流の説に異議を申し立てている少数の非主流派の専門家が手を貸す。正統的教育・学問にルサンチマンを抱いている人は我が意を得たりと飛びつく。しかも、科学的見かけをしているので、陰謀論は汎用性があり、さまざまなテーマに変異して増殖する。

 陰謀論は科学的装いをしており、伝統的共同体で昔から信じられてきた迷信ではない。種痘をすれば牛になるという誤解も陰謀論ではない。この迷信は天然痘ワクチン接種の普及を妨げている。しかし、これは他の予防接種をめぐるに移植されることもない。インフルエンザワクチンは鶏卵を用いて生産するが、それを接種すると、鶏になるというデマは流布していない。科学的装いがないので汎用性を持たない。

 社会の分断を拡大して自身が利益を得るための陰謀から陰謀論を流すこともある。相互不信が陰謀論を蔓延させる。そうした背景により新型コロナワクチンをめぐる陰謀論が拡散している。その実害を減らすために、記憶にねばりつくことを防止すべく関係機関・専門家が啓蒙活動することは必要である。また、ティッピング・ポイントが発生しないように、起点となる少数者をネットワークから切断することも行われている。ただ、陰謀論は近代に対する不信の表象である。信頼を構築するために、理論の語る理想を現実化する実践がより本質的に重要だ。
〈了〉
参照文献
海野弘、『陰謀の世界史』、文春文庫、2006年
マルコム・グラッドウェル、『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』、高橋啓訳、ソフトバンク文庫、2007年
秦郁彦、『陰謀史観』、新潮新書、2012年
森津太子、『現代社会心理学特論』、放送大学教育振興会、2011年

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酒井健司、「ワクチン接種で『遺伝子組み換え人間』にはなりません」、『朝日新聞』、2021年3月1日 9時00分更新
https://www.asahi.com/articles/ASP2T42WZP2TUBQU001.html
「予防接種法とは コロナワクチン『臨時接種の特例』」、『日本経済新聞』、2021年4月25日2時00分更新
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「ワクチン『接種したくない』11% 若い世代多く 全国大規模調査」に、『NHK』、2021年7月2日 4時01分更新
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「ワクチン打つと不妊?流産?専門家『誤情報に惑わされないで』」、『NHK』、2021年7月2日 22時22分更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210702/amp/k10013116231000.html
「『ワクチン効果ない』『不妊になる』SNSでデマ拡散、信じて接種しない若者たち」、『読売新聞』、2021年7月19日 10時14分更新
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「モデルナのワクチン 2回目接種後に4人に3人が発熱 厚労省」、『NHK』、2021年7月25日 6時20分更新
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「『自分は感染しない』40代と50代の約半数 リスク認識が不十分」、『NHK』、2021年8月8日 15時37分更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210808/k10013188871000.html?fbclid=IwAR36-ZkZ9l-23ShKbguAqJC3Nq38aAXlmvT3cdZI3Tj0wC_xaWd5qi4WVoo
「“ワクチンで不妊”のデマ なぜ拡散し続けているのか」、『NHK』、2021年8月10日 18時44分更新
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「対コロナ『集団免疫』困難 ワクチン効果は確実―規制解除の英国」、『時事通信』、2021年08月15日07時11分更新
https://www.jiji.com/amp/article?k=2021081400319&g=int
「“ワクチン接種で副反応” 29人を初めて救済認定 医療費支給へ」、『NHK』、2021年8月20日 8時08分更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210820/k10013212911000.html?fbclid=IwAR3AQqxBJj28Zd8NEqMEjuxlmS4d-zzWPoCnMcSWFll3R-1J5mgBDcha91M
「『ワクチン2回接種』で感染は未接種者の“約17分の1” 厚労省」、『NHK』、2021年8月20日 17時44分 更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210820/k10013214571000.html?fbclid=IwAR3hADHXZUL7P0cV_cqaAmUdo4UaqhF6kl34LWwhYWHilJJkKboXKqGhBQA
「ワクチン接種後死亡1002人『接種と因果関係』結論づけられず」、『NHK』、2021年8月28日 6時13分 更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210828/k10013228011000.html?fbclid=IwAR2v06mnfSyKGoQzNyrlOxlt5lhy5uv85jziY9TBESkGJU3Q17eHsCJ5DyI

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