第3章 ワクチンとデマ

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第3章 ワクチンとデマ
 副反応に対する不安からワクチン接種に慎重・消極になることは理解できる。また、楽観バイアスも日常生活でしばしば陥る認知の歪みであり、気持ちはわからないでもない。 しかし、デマを信じてワクチンを受けたくない人もいる。この理由は病的である。

 『読売新聞』は、2021年7月19日 10時14分更新「『ワクチン効果ない』『不妊になる』SNSでデマ拡散、信じて接種しない若者たち」において、代表的なデマについて次のように伝えている。

 「効果がない」「不妊になる」といった新型コロナウイルスのワクチンを巡るデマが、世界で深刻な問題となっている。若年層を中心にインターネット上の真偽不明な情報を信じる人が増えて接種率が伸び悩み、感染拡大につながっていると指摘される。多くはSNS経由で拡散しているとされ、IT大手には実効性のある対策が求められる。
 「彼らは人々を殺している」。バイデン米大統領は16日、SNS運営企業を異例の表現で批判した。SNSを通じて流布するデマが、接種の妨げになっていると懸念しているためだ。
 英オックスフォード大の研究者らの統計によると、米国で接種を完了した人の割合は16日時点で48%だった。前月比で4ポイント増と伸び悩む。一方、米疾病対策センター(CDC)は同日、新規入院者の97%は未接種者だったと明らかにした。
 英NPO「反デジタルヘイトセンター(CCDH)」の調査によると、SNS上のワクチンに関するデマの65%は、12の個人・団体が発信源だった。元米司法長官の息子のロバート・F・ケネディ・ジュニア氏も含まれ、フォロワーは計5900万人以上に上る。ケネディ氏は接種経験者が亡くなった例を引き合いに、「悲しい現実は、ワクチンがけがや死を引き起こすことだ」と主張していた。
 多くの人に瞬時に発信されたことで、デマを信じる人が増えた。SNSは利用者の好みに合わせて似たような情報を表示するため、デマでも事実だと思い込みやすくなる傾向がある。(略)

◆ワクチンを巡るデマの例
▽効果がない
▽不妊になる
▽ヒト免疫不全ウイルス(HIV)に感染する
▽自閉症を引き起こす
▽政府が遺伝子操作しようとしている
▽政府がチップを埋め込んで管理する

 これはデマのほんの一部だろう。ただ、報道されているように、最も拡散し、接種意欲に悪影響を及ぼしているものである。だからこそ、当局や専門家はそれらを信じないようにと人々に啓蒙活動を行っている。

 ワクチン製造における遺伝子組み換え技術は四半世紀以上前に実用化している。代表例がB型肝炎ワクチンである。これは遺伝子を組換えた酵母にウイルス抗原を作らせたものだ。それ以前は罹患社の血漿から精製したウイルス粒子を使っている。しかし、この製造法では大量生産に向かず、不活化とはいえ感染のリスクも残る。この問題点を解決したのが遺伝子組み換え技術である。

 なお、新型コロナウイルスワクチンには遺伝子組み換え技術は使用されていない。mRNAワクチンである。人工的に合成したワクチンのメッセンジャーRNAが接種されると、人の体内でたんぱく質に翻訳されるが、この過程で遺伝子組換えは起こらない。また、遺伝子に組み込まれることもない。遺伝子組み換え技術が利用されているワクチンではなく、そうではない新型コロナワクチンに疑惑の目を向けるのは健全ではない。

 ワクチンの成分と妊娠のメカニズムは異なるので、前者が後者に影響を及ぼすことはない。新型コロナウイルスワクチンに関する反論は、『NHK』2021年7月2日 22時22分更新「ワクチン打つと不妊?流産?専門家『誤情報に惑わされないで』」が次のように紹介している。

ワクチン接種、妊婦への影響は?
妊婦に対するワクチン接種の影響については、アメリカのCDC=疾病対策センターのグループが、2020年12月から2021年2月までにファイザーかモデルナのワクチン接種を受けた16歳から54歳までの妊婦、3万5691人で影響を調べた初期段階の研究結果を論文に発表しています。
それによりますと、流産や死産になった割合や生まれた赤ちゃんが早産や低体重だった割合は、ワクチン接種を受けた妊婦と新型コロナウイルスが感染拡大する以前の出産で報告されていた割合と差がありませんでした。
また、ワクチンを接種した妊婦で生まれたばかりの赤ちゃんの死亡は報告されていないとしています。
一方で、妊娠している女性が新型コロナウイルスに感染すると同世代の女性よりも重症化する割合が高いことが報告されていて、日本産科婦人科学会などは、2021年6月、▼ワクチン接種によって母親や赤ちゃんに何らかの重篤な合併症が発生したとする報告はなく、▼希望する妊婦はワクチンを接種することができるとしたうえで、「ワクチン接種するメリットが、デメリットを上回ると考えられている」などとする声明を出しています。
“ワクチンで不妊”も否定
また「ワクチンを接種すると妊娠できなくなる」という情報も出回っていて、新型コロナウイルスワクチンの効果や副反応などについて最新情報を提供するウェブサイト「CoV-Navi」を運営している木下喬弘医師は、根拠がなく、誤った情報だと指摘しています。
木下医師によりますと「胎盤の形成に関わるたんぱく質は、新型コロナウイルスの表面のたんぱく質と形が似ていて、ワクチンで作られた抗体によって攻撃される」という誤った情報がSNSで広まったのが元になっているということで、アメリカの新型コロナウイルスの研究者が検証したところ、胎盤の形成に関わるたんぱく質と新型コロナウイルスのたんぱく質は形がほとんど似ていなかったということです。
木下医師は「抗体は胎盤の形成に関わるたんぱく質を攻撃しないことがわかっている。自分だけでなく将来の子どもへの影響を心配する気持ちは非常によく分かるが、正しい情報を集めてもらいたい」と話しています。
精子の減少も見られず
さらに、ワクチンを接種した後で男性の精子の量にも変化はなかったとする研究も出されています。
アメリカのマイアミ大学が行った研究の論文によりますと、25歳から31歳の成人男性45人について、ファイザーのワクチンを接種する前と2回目の接種を受けてから2か月以上たったあとで精子の量や濃度、運動量を比較したところ、有意な減少は見られなかったとしています。

 こうしたデマの拡散は、先の『読売新聞』の記事だけでなく、『NHK』2021年8月10日 18時44分更新「“ワクチンで不妊”のデマ なぜ拡散し続けているのか」によると、機転が少数であり、しかも専門家であるはずの医師も関与している。これは流行爆発のメカニズムを明らかにした「ティッピング・ポイント」を思い起こさせる。事実、それを解析したマルコム・グラッドウェルは感染症の比喩を用いている。

 マルコム・グラッドウェルは、『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則(The Tipping Point: How Little Things Can Make a Big Difference)』(2000)において、爆発的に流行感染が起きる瞬間の「ティッピング・ポイント」には、ある特定の能力を持った人たちが決定的な影響力を与えると分析している。彼によれば、こうしたティッピング・ポイントへ至るには、「少数者の法則(The Law of the Few)」・「粘りの要素(The Stickiness Factor)」・「背景の力(The Power of Context)」の三原則がある。「病原菌を運ぶ人々、病原菌そのもの、病原菌が作用する環境」がそろって、感染症が流行するというわけだ。

 「少数者の原理」は、その感染をスタートさせるには特別な能力を持った三種類のグループ「コネクター(Connectors)」・「メイヴン(Mavens)」、・「セールスマン(Salesmen)」が影響を与えるという法則である。「いかに社交的か、いかに活動的か、いかに知識があるか、いかに仲間内で影響力があるかというような事柄で抜きん出ている」少数者が流行爆発の導火線になる。顔が広く、人脈が豊富な「コネクター」、恐るべき情報通の「メイヴン」、個性豊かで、売りこみ上手の「セールスマン」が揃うと、それがおきる。

 「粘りの要素」は「記憶に粘りつく」ものが感染しやすいというルールである。伝染性が強いメッセージは、概して、時間が絶っても頭の中から消えず、後を引いている。テレビCMで、印象的なフレーズや音楽、映像が使われているのはそのためである。記憶に残りやすい工夫をすれば、そのメッセージは広まりやすくなる。

 「背景の力」は流行感染には環境要因が不可欠だという法則である。人々は、意識している以上に、環境に敏感に反応している。しかし、環境要因は非常に微妙で複雑であるため、事後的に推測することはできても、その予測をすることが難しい。ティッピング・ポイントには運の要素も少なからず介在する。

 以上を次のように要約できよう。「アイデアや流行もしくは社会的行動」は、それを受け入れる社会的・時代的環境が整い、少数のコネクター・メイヴン・セールスマンを通じて、記憶に残るメッセージを発しながら、ティッピング・ポイントに達し、爆発的に感染していく。このメカニズムはデマ拡散のプロセスでも思い当たる。「背景の力」は言うに及ばないとしても、それは少数を起点にしているだけではない。

 新型コロナワクチンをめぐるデマは必ずしも真新しくはない。遺伝子組み換え食品やポリオワクチンなどをめぐって広まったものを想起させる。つまり、これらは「記憶に粘りつく」ものである

 遺伝子組み換え食品については、次の『SPUTNIK日本』2017年9月5日10時56更新「遺伝子組み換えの有害性に関する3つのデマ」がよくまとまっている。

遺伝子組み換えは、現代的かつ検証された技術であり、ほぼすべての場所で使われている。一方、遺伝子組み換え作物(GMO)は生物学において最も議論の余地のあるテーマであり続けている。GMOに激しく反対する人々が最も恐れているのは何か?
デマ1
遺伝子疾患は、食品に含まれるGMOが原因で増えている。
GMOと遺伝子疾患の増加につながりはない。遺伝子疾患の増加は、かつては命にかかわる病気だった遺伝子疾患が、今では現代医学の発展によりその多くが治る病気となった結果、遺伝子欠陥が次世代に伝わることが原因となっている。
デマ2
GMOは、内臓の病理的過程およびホルモンレベルの変化を引き起こす。
GMOの危険性を裏付ける証拠は見つかっていない。欧州委員会の2010年の報告書では、GMOは品種改良によってつくられた食品よりもリスクが少ないと述べられている
デマ3
GMOを食べると遺伝子が害を受ける。
外来DNAは血液や他の器官に入り込む可能性があるものの、これが遺伝子の伝播を促すことはない。組み換えDNAが遺伝子に組み込まれたり、子孫へ伝播されることはない。

 また、ポリオワクチンが不妊の原因になるというデマについては、次の『AFP』2008年7月1日 1時02分更新「ナイジェリア北部でポリオ患者が急増、5年前の流言が影響」の次の記事を紹介する。

 ナイジェリア北部カノ(Kano)州の当局者は6月27日、ポリオ(小児まひ)患者が急激に増えていることへの懸念を示した。
 同日夜に開かれた保健当局の会議でカノ州の衛生局長が語ったところによると、ポリオ患者数はこの6か月で90人で、報告例がゼロだった前年同期から状況は急変している。
 この局長は、その原因として、子どもへのワクチン接種をためらう親が増えていることにより、免疫力が低下していることを挙げた。
 イスラム教徒が多く住む同州では、急進的なイスラム聖職者や一部の医師が「ポリオワクチンには少女を不妊にする物質が入っている。アフリカの人口の減少を狙った米国をはじめとする西側諸国の陰謀だ」と主張。これを受けて同州当局は2003年、ポリオワクチンの子どもへの接種を13か月間停止した。 
 その後、国内外での臨床試験でワクチンの安全性が確認されたことを受け、ワクチン接種が再開された。だが、そのころまでには、ポリオが絶滅したと考えられていた西アフリカの他国へもカノ州からポリオが拡散してしまった。
 さらに、ワクチン接種再開後も、親が子どもにワクチンを受けさせることに積極的になっていないと保健当局は指摘する。
 世界保健機関(WHO)は最近、ポリオ感染国はナイジェリア、インド、パキスタン、アフガニスタンのみと報告している。

 いずれのデマも受容の原因は健康への不安と言うよりも、意思決定に対する不信感である。遺伝子組み換え食品をめぐって安全性や環境への影響、経済性などの問題点が指摘されていることは確かである。遺伝子組み換え作物は、一握りの多国籍企業が市場を独占している上、非組み換えの生産を抑圧している。その代表であるモンサント社は経営戦略・戦術が権威主義的であると世界各地のジャーナリストが告発している。それは近代の理念である自由・平等・自立を象徴するシステムの一つの市場経済の原則にも反している。こうした近代の共通理解に背く背景を持つ遺伝子組み換え食品に対する不信感がデマを受容させている。

 また、ポリオワクチン不妊のデマは植民地主義や多数派支配に対する不信感である。近代は民主主義的手続きを通じて統治が決まる。けれども、民主主義は多数決原理であるから、多数派に有利で、少数派の要求は反映されにくい。意思決定への参加をめぐって少数派には不満が募り、多数派が現状維持を企んでいるのではないかという疑念がある。加えて、少数派が多数派を植民地主義などの諸事情によって支配している場合は統治しやすくするために人口減を望んでいるのではないかと疑いを抱いてしまう。こうした地域には従来からマルサス主義的貧困からの脱却である家族計画への不満や不信感も認められる。出産抑制による人口ボーナスが経済発展をアシストし、人々の暮らしを豊かにするというシナリオがそこでは十分に受け入れられていない。無関係のポリオワクチン接種も家族計画への拒否感などを背景に、人口削減の陰謀と見なされる。

 いずれもデマと言うより、陰謀論である。比較的流通し、既に実害を及ぼしている陰謀論がワクチン接種に結びついてデマとして拡散したと捉えることができる。実は、陰謀論は近代の産物である。それについて明らかにした上で、新型コロナウイルスワクチンと陰謀論の結びつきを見てみよう。
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