第5話 マンチェスターテリアのおはなし

文字数 2,554文字

 黒いサテンのコートを着ているような毛並みで、とびきり優雅なしぐさをするマンチェスターテリアが、最後の話し手です。

「わたしがお仕えしてきた中で最も敬愛する主人は、最初のお方だ。彼は天才だった。多くの天才のようにぼうっとしがちで、しばしば生活のあちこちで驚かされたものだ。だが慣れてみると興味深いものを感じるようになった。

 恥ずかしながら、実は当時のわたしは、革製の手袋が苦手だったんだ。あのにおいが、どうにも耐えられなくて……」

 ここでテリアは照れくさそうに赤らみました。

「その主人も革手袋を愛用していた。が、彼はそれを毎週必ずなくしてしまう癖があったから、わたしは苦手を克服しなくて済んでいたんだ。

『メアリー、またなくしちゃったよ。どこにも見当たらない』

 いつも彼はいらだたしげに奥方へ訴えていた。

『またどこかへ置き忘れたのでしょう』

 奥方も母親みたいに厳しく言いつけていた。確かに、わたしの寝床に手袋が見つかることもあったからね。

 彼がぼうっとしがちなのは、それだけに限らなかった。奥方が出かけて彼が一人で昼食をとっていたときのことだ。彼は本を読みながら食べていたんだが、そこへ黒ねこのミランダがやってきて、音もなくテーブルに飛び移って、お皿の上のカツレツを失敬した。カツレツが消えたことに気づいた彼は、やや困惑したふうにきょろきょろしては、

『食べたっけ、まあいいか』

 そうつぶやいては食後のコーヒーをすすりだした。それがコーヒーだとわかっていたのかも怪しいものだよ。

 ミランダはいたずら好きでも悪いねこではなかった。いろいろなことを教えてくれた。たとえば、わたしが自分の寝床で眠っていると彼女の子どもがやってきて引っ掻かれたときなんて、『心のやさしいねこは爪がとがりがちなのよ』と教えてくれたな。

 もっと長い間あの家で暮らしていたら、わたしも天才になれていたかもしれない。だが残念なことに、わたしもパグくんのように、盗まれてしまったんだ。

 そのときのよもやまは、まあ、ここでは詳しく語るまい。革手袋アレルギーが収まったとだけお伝えしておこう。なにせ二年はあちこち転々として大変だった。ようやく買われたときは、もう一歩たりとも動けない気がしていた。

 新しい主人は中年女性で、いつでも無愛想なしかめ面をしていた。お女中は『性格はやさしい』と言っていたが、先住の白ネズミくんは、それは『同居しづらいほどの気難しがり屋』と言っているのと同じだと教えてくれた。

『どれだけひどいか、あんたもすぐにわかるぜ。あの女中は一ヶ月以上もよく保ってるよなあ。まあ昼間寝てるおれには関係ないことだけどな』

 そのとおりだった。三ヶ月は我慢した。その後、わたしは逃げた。簡単なことだ、散歩がてら雑貨屋に寄ったら値段を負けろだなんだと始まったから、こっそり店から出て、一目散に駆けたんだ。家とは逆の方角に向かってね。

 走って走って、疲れてきた。そのとき目の前の玄関が開いていたから、そこへ飛び込んだ。すると小さな、やわらかな頬をピンクに染めた小さな小さな女の子が、暖炉の前で人形と遊んでいた。すぐにこの子と一緒にいようと決めたよ。人形用のベッドもわたしにぴったりだったからね。あの中年女性は迷いいぬを探しまわるような人じゃなかったし、わたしはすぐにその家の一員として迎えてもらえた。

 女の子はネルシーといった。貧しい家庭で、おもちゃはほとんど持っていなかった。あの子の母親も、わたしの世話をするため冬用の帽子を売ってしまったくらいだ。それでも一家は幸せそうだった。今まで見てきた中で一番というくらいで、汚い言葉づかいなんてひとつも耳にしなかったくらいだ。

 ある日、ネルシーが病気になった。詳しいことはわからずじまいだが、目が両方とも異様なほど大きくなって、顔色が悪くなっていた。

『この子には、甘いものと、薬と、田舎での静養が必要ですね』

 背が高くおだやかな声の男性がやってきて、ネルシーを見て、そう言った。母親は黙っていたが、男性が帰った後、テーブルに突っ伏して泣き出した。

 その意味するところは、わたしにもわかった。わたしは家を飛び出して、なんの罪もない子ねこをしばらく追い回して怖がらせてしまった。絶望的な気分だった。

 息が上がったので休んでいたら、目の前を車椅子の女性が通り過ぎかけた。

『ねえ見て! この子!』

 押している夫らしきに叫んで止まり、

『フィドーそっくりよ、あのかわいそうな子に……。ああ、この子をつれて帰りたいわ。どなたが飼っているのかしら。お金を払ってでも譲ってほしいわ』

 これを聞いてみなさんが思いついたことを、そのときわたしもひらめいていた。もしこの人がわたしを買ってくれたら、その代金でネルシーに甘いものを、薬を、田舎での休息を、買ってあげられるはずだとね。そこでわたしはその女性に礼儀正しく笑いかけて、しっぽを振ってみせた。

『まあかわいい!』

 彼女はきれいな宝石のついた指輪をはめた手でわたしを撫でながら言った。

『アンガス、この子を買いましょう!』

 二人はわたしについてきた。家に着いたら、アンガスがネルシーの母親に説明した。『病弱な妻がこのいぬを気に入って聞かないので、言い値で構わないから譲ってもらえないか』と。

 母親は悩みに悩んでいた。ありがたいものだったよ。しかしネルシーを助けられるのなら、わたしは望むところだった。母親も、最後には承知したんだ」

 ジェフリーは身を乗り出していました。車椅子の女性とアンガスと、どのような新しい暮らしが始まったのか気になります。しかしそのとき、

「ジェフリー」

 やさしい声がしました。いつのまにか日が沈んでいて室内はまっくら、お母さんが明かりをつけに来たのです。

 明るくなって、驚きました。ニッパーしかいません。いぬたちはどこへ行ったのでしょう。

 はじめジェフリーは、夢でも見ていたのかと思いました。でもビスケットは全部なくなっています。おりこうなニッパーがひとりじめしたはずはありません。

「とってもへんなパーティだったのねえ」

 ジェフリーがありのままを話したら、お母さんが言いました。これを読んだみなさんも、お母さんと同じように感じていることでしょうね。


おしまい


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