おりん

文字数 9,378文字

 江戸は西の外れ、内藤新宿、今でこそ有数の繁華街だがその昔は江戸の外れ。

 日本橋を発った旅人が最初に泊まる宿場、明日は江戸を離れて武蔵野に入ると言う感慨を抱く町である。

 その内藤新宿も外れに建つちっぽけな煮売居酒屋。

 身を切るような風が吹き付ける晩、年老いた主が曲がり気味の腰を伸ばすようにして暖簾を外している、少しでも早く済ませてしまいたいのだろう、背後からの草履の音にも主は振り向こうとしない。

「よう、もう仕舞いかい?」
「へぇ、よろしければ明日にでも」
「お前さんにちょいと訊きてぇことがあるんだがな」

 主が振り返ると、そこには侍が立っていた。

 しかし、侍らしからぬくだけた調子……態度にも居丈高なところは感じられない。

「は? あっしに?………これはこれはお武家様で、お武家様があっしなんぞに何の御用で?」
「おりん……てぇ娘を知ってるよな?」
「へぇ、まだ小さい時分でしたがこの辺りに住んでおりましたからな」
「八年前のむごい事件の事は憶えているな?」
「へぇ、殺された正吉はよくおりんちゃんを連れて飯を食いに来てくれていましたからな、父娘揃ってお馴染みさんでした……おりんちゃんが何か?」
「武州の庄屋に奉公していた事は?」
「いえ……詳しくは存じませんが」

「そうかい……ワシは元武州の同心でな、なに、もう家督とお役目を倅に譲って今はただの隠居だ、お役目柄今でも脚は丈夫だがよ、この歳になって五里の道のりは辛ぇなぁ、もう脚が棒みたいになっちまっててよ、おまけにこの寒さだよ、店じまいの後ですまねぇが中に入れて貰えねぇか?」

「へ……へぇ……」

「今夜は風が冷とうございますな、なにか暖かいものでも差し上げますか?」
「有難てぇな、酒はあるかい?」
「へぇ、あっしも店を閉めた後一杯やるのが何よりの楽しみでして、熱燗にいたしやしょう、残り物でよろしければ何か肴もお出ししやす」
「ますます有難てぇな、ワシはあれが駄目これが嫌いってのは何もねぇよ」
「大根の煮たものくらいしかありませんが……」
「おう、そいつは好物だ、ひとつ熱くしてくれねぇか」
「へぇ、かしこまりやした、少しお待ちを」
「おりんってぇのはあ別嬪だったなぁ」
「あっしは八つの頃までしか知りやせんが、その頃から可愛らしいと言うより奇麗な子でしたからな、十五になったおりんちゃんはさぞかし別嬪になっていたんでしょうな」
「抜けるように白いってのはああいう肌の事を言うんだろうな」
「へぇ、色が白いんで黒目がちの大きな目が引き立ちますな」
「ああ、あの娘の目を見てるとな、何て言うか、こう、引き込まれるようだったぜ」
「へぇ、なんだか深い井戸の底を覗いているみたいな心持がいたしやした」
「上手ぇことを言うな、全くそんな感じだった」
「なんだかあの子の周りだけ空気が冷てぇみたいで……」
「確かにな、それにあの白さだ、悪い意味で言うんじゃねぇが、この世の者じゃねぇみたいな感じがしたよ」
「へえ、あっしもおりんちゃんの手を引いてやったことがあるんでございますが、夏の時分だというのにえらく冷たかったのを覚えておりやす、びっくりしておりんちゃんを見るとあの目でございますよ……小さくて子供らしいんではございますが……」
「ああ、可愛らしい娘とか良い女とかと言うようなんじゃねぇな、当たり前の人とはどこか違ってるんだ、そいつが気にかかって見ているうちにあの目に引き込まれちまう……この歳になるがあんな娘は他に知らねぇよ」
「お待ちどうさまで」
「おう、有り難ぇな、腹の中からあったまらしてもらうぜ……おお、美味ぇな、そこらの煮売屋じゃこの味は出せねぇ……知ってるよ、お前ぇは元は名のある料亭の板前だったんだってな」
「恐れ入りやしたな、あっしみたいな者のことをそこまでご存知とは」
「あまり思い出したくはねぇだろうが、昔盗人の一味の手引き役をしていたのも知ってるぜ、誰にも気づかれずに大金を盗み出してかわりに風車を置いて行く……風車の一味って言やぁ、一時は噂の種になったもんだ、武州まで伝わってきてたぜ」
「……あっしは刺青持ちでございますからな、まして同心でいらしたんでは隠しようもございませんな……」
「だが、島流しで済んだいきさつがちと判らねぇんだ、あれだけ派手にやらかしてた一味だ、お前さんも揃って打ち首になってて不思議はねぇ、だが、そうはならなかった、何故だい?」
「……へぇ……その頃お大名のお屋敷や大店でお祝い事やなにかありますと料理をしに出張って行ってたのでございますよ、喜んでいただけると決まったおあしの他にご祝儀なんぞも頂けてたもんでつい……」
「女遊びかい? それとも……」
「へぇ、博打を……後で考えるとやつらはあっしが目的だったんですな、大きなお屋敷の裏口に通じておりましたから……」
「いかさまかい?」
「今となっちゃぁわかりませんが、そうだったんだろうと思います、すってんてんになったらそこで止めればよろしかったんでございますよ、ところが『貸してやろうか』と持ちかけられますと、頭が熱くなっておりますのでな、つい深みにはまりやして」
「貸した金を棒引きにしてやるから手引きをしろ……そういうことだな?」
「仰るとおりでございます、店の信用を潰してお得意様に大層なご迷惑をかけて……泥沼でございました」
「なるほどな、そのあたりを汲んでの島流しか……恩赦で戻れたんだな?」
「その通りでございます、でも、もちろん前の店には近寄ることもできやせん、それどころか江戸市中にも居辛ぅございまして」
「それでこの内藤新宿か」
「左様で……こうやって小さいながらも店を構えられるようになったのは運が良かったんでございましょうな」
いや、そいつは腕があったからだよ、この大根を食えばわかるってもんだ、出汁と醤油の加減が実にいい塩梅だぜ、美味かったよ、舌は充分満足してるんだが、まだ腹の方は少し満足してねぇみたいなんだ、他には何かねぇかい?」
「里芋の煮転がしたもの位しか」
「ああ、いいよ、ワシは武州の田舎者だ、江戸っ子を気取るなんて事はしねえよ、芋ったってお前さんがこしらえた芋なら上等だ、そいつを貰おうか」
「へぇ……酒の方もそろそろでございましょう、少しお待ちを」
「お前さんもやるんだろう? 一緒にやろうじゃねぇか」
「へぃ」
「ふう……五臓六腑に染み渡るってぇやつだ、有り難ぇね……お前さんもやるんだろう?遠慮せずにやりなよ……おう、飲みっぷりが良いじゃねぇか、もうひとつ行かねぇか?」
「へぇ……ですが、何をお訊きになりたいのか……そいつが気になりましてな」
「違ぇねぇ…………だが、その前に、こいつを……お前さんに預けようじゃねぇか」
「いけません、お武家様が大切なお腰のものをあっしのような町人にお預けになるなど、滅相もございません」
「まあ、今でも侍って言やぁ侍だがな、さっきも言ったとおりの隠居の身だ、これはお役目でやってることじゃねぇ、ワシの道楽みたいなもんだ、おりんが絡んでた八年前の事件、どうも腑に落ちねぇんだ……去年、平吉が死んだだろう?」
「へえ、立派な目明しの親分さんでいらっしゃいましたな、ウチにも良く来てくださいました、そうそう、ちょうどこんな風に店じまいの間際にいらっしゃいまして、やったり取ったりしたこともちょくちょくありやした」
「あいつは昔ワシの下で働いてくれててなぁ、あの頃も良く酒を酌み交わしたもんだ」
「左様でございましたか」
「酒好きだったが仕事はきちっとする男だった……帳面もいつでもきちっとしててなぁ……だが、おりんの事件のところだけはどうもはっきりしねぇのよ」
「はぁ」
「こいつは性分って言うか、習い性だな、隠居の身になっても腑に落ちねぇことがあると気になっていけねぇ……ひとつ、あの事件の事を語っちゃ貰えねぇか? 平吉が帳面にああ書かなくちゃならなかったんだとわかりゃ気が済むからよ」
「へぇ、そういうことなら……」
「そうかい、じゃあ聞くが、お前さん、現場を見たかい?」
「……いえ、見ちゃおりませんが……」
「ワシも帳面を読んだだけなんだがな、おりんの父親、正吉は腹を刺されて、それでも盗人に立ち向かったらしくてな、心の臓も一突きにされたらしいや、あたりは血の海だったろうよ……どうして二度も立ち向かったんだと思う? 腹の傷は急所を外れてたらしい、大人しくしてりゃ上手くすると死なずに済んだかも知れねぇのにな」
「おりんちゃん……でございましょうな」
「だろうな、ワシもそう思うぜ、盗人が娘にも手をかけようとしたのを見て、腹の傷も忘れて立ち向かった、そういうことだろうな」
「おそらくはその通りでしょうな」
「その事件では盗人も死んでるのは知ってるな?」
「へぇ、平吉親分からそう聞かされておりやす」
「だけど妙な話だよなぁ、ワシが調べた事件の時だっておりんはまだ十五の小娘だ、まして八年前なら八つだよ、そんな力があるはずもねぇだろう?」

「へぇ、そうでございますな、縄を使ったところで到底無理でございましょうな」


 侍は口に運びかけた盃を膳に戻した。
「……済まねぇな、今、お前さんにカマをかけてたよ」
「えっ……」
「縄を使ったところで無理、ワシもそう思うぜ、だけど俺は首を締めたなんて一言も言ってねぇんだ……お前さん、現場を見てねぇと言ったな? 帳面にもそう書いてあったよ、むごたらしいだけじゃねぇ、どうにもわからねぇところがある現場なもんで、野次馬が集まらねぇように下っ引きを集めて周りを固めてつぶさに調べたとな……お前さん、本当は事の一部始終を見てたんじゃねぇのかい?」
「いえ……そんな……滅相もない……」
「ワシはそれを知ったところでお前さんをどうこうしようなんてこれっぽっちも思ってやしねぇ、もう十手持ちじゃねぇし、ほれ、刀もそっちにあるんだ……なあ、ワシは本当に知りてぇだけなんだよ」
 主は俯いて一つ大きな溜め息を付くと、気を取り直すように顔を真っ直ぐに向けた。
「……お見事でございます、確かにおりんちゃんには到底無理でございますね……あっしは無様に引っかかったようでございますな……ようがす……あっしも老い先長くはねぇ身でしょうし、自分がしでかした悪事を墓場まで持って行ったんじゃ閻魔様もお怒りでしょう、もっとも極楽に行けるなんざ思っちゃおりませんがね……確かにあっしは正吉が刺される所も盗人が首を絞められてこと切れるところもこの目で見やした」
「そうかい、話してくれるかい、ありがとうよ、恩に着るぜ……お前さん、今、盗人と呼んだが、本当はそいつを知ってたんじゃねぇのかい? 金蔵って言う野郎だ、例の一味の一人だったことも、一味から弾かれたことも察しは付いてるんだ」
「驚きやしたな、そんなことまで……」
「野郎は武州で荒っぽい仕事をやってたのよ、とうとうお縄にはしそこなったがな……野郎の手口は押し入りよ、見つかりゃ人を殺めることなんぞ平気の平左だ、そのくせ柄にもなく現場に風車なんぞを残して行きやがる」
「左様でございましたか……風車の一味と同じように……」
「手口は似ても似つかねぇが……あの一味の仕事は奇麗なもんだったと言うからな」
「泥棒に変わりはありませんがな」
「違ぇねぇ、だけどやつらは人を殺めたり傷つけたりは一度だってしてねぇ、用意周到に手はずを整えて誰にも気づかれずに仕事をやってのけた、だからこそお前さんみたいな手引きが要り用だったんじゃねぇのかい?」
「仰るとおりで……」
「だったら、金蔵みてぇに荒っぽい野郎は使えねぇや、だけど野郎は名高い一味の一人だったのを誰かに自慢したかったんだろうな、だから風車だなんて似合わねぇ真似を」
「そうでございましょうな、あの時も畳の上に落ちてたそうでございますよ……親分さんはおりんちゃんの玩具だと思って気に留めていらっしゃらない様子でしたがな」
「まあ、そいつは無理もねぇやな、俺もここまで繋がるには随分とかかってるんだ……金蔵はお前さんに手引きを頼んだ、いや、野郎のことだ、頼んだなんて優しいもんじゃねぇだろうな、脅して無理強いした、そうなんだろう?
「だからと言ってして良いことじゃありませんがな……確かに刃物で脅されやした、奴の気性は分かっておりやしたから、断ればただは済まないだろうとも……」
「正吉の家を選んだのは何故だい?」

「正吉は染物職人でございましたから土手っ縁にぽつんと小屋を建てて住んでおりましたし、腕が良い上に飲む打つ買うとはとんと縁のねぇ真面目な男でございましたから、小金を溜め込んでいるに違ぇねぇと……金蔵はまとまった金が手に入らなければ盗みを繰り返すに決まっておりやす……それに正吉はおりんちゃんと二人暮らしでございましたからな、かみさんがいればどちらかは殺められると思いまして……」

「なるほどな、だけどお馴染みさんだ、辛かっただろう?」
「だからこそ手引きした後もこっそり覗いておりやした、正吉は喧嘩にも縁のない男でしたから歯向かわないでくれれば良いと……最初に金蔵が脅した時、正吉は震えながら金を差し出したのでございます、その時、あっしは正吉に申しわけねぇと思いやしたが、怪我だけはなくて良かったと……」
「ところがそれじゃ済まなかったわけだ」
「へぇ、金蔵は金を受け取っても表に逃げずにずかずかと奥へ……そっちにはおりんちゃんが寝ておりやす、正吉は金蔵を止めようとして」
「その時腹を刺されたんだな?」
「左様で……金蔵は構わずおりんちゃんの布団を剥ぎやして、目を醒ましたおりんちゃんが悲鳴を上げようとするところを口を塞いで刃物をかざしやしたんで、正吉は奴に飛び掛りやした」
「その時だな? 正吉が心の臓を一突きにされたのは」

「左様でございます……正吉は苦しい息の中からもおりんちゃんに『逃げろ』と……でもおりんちゃんはその時もう気を失っていたのでございます……」


 侍が主の盃に酒を注ぐと、主はそれを一気に飲み干し、大きな溜め息をついた。


「その時でございます、あっしは目を疑いやした……おりんちゃんの胸元から蛇が這い出したんでございます、だけど良く見るとその蛇には厚みと言うものがございやせん、まるで……そう、この腕の刺青のようでございました、金蔵も肝を潰したのでございましょう、蛇に刃物を突き立てやしたが、あべこべに蛇は刃物を伝わって金蔵の袖口から入り込むと首に巻き付いたのでございます、金蔵は引き剥がそうとしましたが、刺青を引き剥がせる道理もございやせん……妙な光景でございました、一見して締め上げていると言うような様子には見えないのでございます、まるで金蔵が一人でのた打ち回ってるだけのような……だけど金蔵の顔は見る見る土気色に変わりやして……正吉が刺し殺される所を見たばかりでございましたが、首を絞められて死ぬのはまた見苦しいものでございますな……ですが、不思議とむごたらしいとは思いやせんでした、金蔵は当たり前の報いを受けたんだと…………蛇は金蔵を絞め殺すとまた畳を這って、今度はおりんちゃんの着物の裾の中に消えて行きやした……それがあっしが見たものの全部でございやす……」
主の顔を真っ直ぐに見て聞いていた侍は、胡坐をかいた膝に手を当てて頭を下げた。
「ありがとうよ……今度はワシが知ってることを喋る番だな……そのおりんの蛇だがな、ワシはそいつがおりんの身体に巻き着いている様を見たぜ」
「それは……いつ、どこで?」
「おりんが奉公してた庄屋の蔵の中でだよ………………おりんは死んだぜ」
「え? まさか……そんな……」
「あれだけの器量だ、庄屋のどら息子に目を付けられてな、手篭めにしようと蔵に引っ張り込まれたんだ……まあ、それまでにも何人も引っ張り込んでたらしいがな、おりんの時だけ違ったのはおりんが最後まで抗ったってところだ……そのどら息子ってのは相撲取りと見まがう位の大男でな、蔵に引っ張り込まれたが最後、大抵の女は諦めるしかねぇのさ、だが、おりんは最後まで抗って抗って、蔵にあった鎌で立ち向かったらしい、頬に傷をつけられたどら息子は逆上してな、おりんを壁にたたきつけてぐったりした所を犯っちまったらしいや……おりんが引っ張りこまれるのを見ていた女中がいたんだがな、何しろ相手は庄屋の倅だし、体が大きくて力もあって怒ると見境のなくなる野郎だよ、見て見ぬ振りするしかなかったのよ……ところがいつまで経ってもおりんは出てこない、で、様子を見に行ってみると……打ち所が悪かったのか、それともとんでもねぇ力で投げ飛ばされたのか、おりんはそのままこと切れてたってわけだ……」
「非道ぇ……なんてこった……で、そのどら息子は……」
「安心しな、お縄にしたよ、いくら庄屋の跡取りだろうが殺しは殺しだ、奉公人ったって命まで預けてるわけじゃねぇ、でよ、ワシが庄屋本人もただじゃ済まねぇだろうってそれとなく言いふらしたら、出るわ出るわ、どら息子の悪行がよ……庄屋に逆らうとどういう目に会うかわからねぇってんで泣き寝入りしてたんだな、どら息子は打ち首、庄屋も牢の中よ、歳も歳だしよ、生きてる内に出ちゃこれねぇだろうよ」
「左様でございますか……あっしみてぇなもんが頭下げても何の値打ちもございやせんが……このとおりでございます」
「よしねぇ、ワシはワシの役目を果たしたまでのことよ、ワシにとっても最後のご奉公だったからな、思い残すことなく隠居できたってもんだ……だがよ……」
「へぇ、わかっておりやす……どうして今度は蛇が這い出さなかったかって事でございましょう?」
「そういうこった」
「そこまでわかってらっしゃるなら正直に全部お話しないわけにゃ行きますまい……嘘……だからでございますよ……八年前、金蔵を絞め殺したのはあっしでございます……」
「平吉はそれを?」
「多分わかってらしたんだと思いやす、あっしが昔風車の一味だった事はご存知でしたし、あっしは気付きませんでしたが、その時金蔵は懐に風車を持ってたんでございますよ……親分さんがあっしのところで風車の話をされた時は肝を冷やしやした……あの時、親分さんは全てを飲み込まれたんだと思いますよ」
「で、平吉は怪談じみた青い蛇のことを帳面に書いて、本当の所をぼやかした……ってことだな?」
「おそらくは……いくらおりんちゃんを守ろうとしてやったことでも、人一人を殺めたんでございます、そいつは許されねぇこった……だけどあっしは刺青持ち、老い先も短けぇ……そこんところを慮って頂いたんだと思っておりやす……」
「思い出したくもねぇだろうが……八年前の本当のところを教えちゃくれねぇか?」

「ようございますよ……隠し事は洗いざらい喋っちまった方が気が楽になりやしょう……。 正吉が心の臓を一突きにされてこと切れたまでは先ほどお話したとおりでございます、あっしは戸口の隙間からそれを震えながら見ておりました……正吉にすまねぇ気持で一杯でございやした、で、金蔵がおりんちゃんの顔を張って着物をひん剥いた時、あっしの中で何かが弾けたんでございます、あっしは干してあった生乾きの藍染の手ぬぐいを引っつかんで、おりんちゃんに跨りながら下帯をごそごそやってる金蔵の首に巻きつけやした……その後は無我夢中で良く憶えておりやせん、気がつくと金蔵はこと切れていて、正吉は血の海の中、おりんちゃんは気を失って横たわっていやした……あっしはその場から逃げ出して、ここに戻ると布団をかぶって震えてたんでございます。

 それからニ、三日してからでしょうか、親分さんが見えまして、あっしに話してくれたんでございますよ、金蔵の首についた青痣……本当は藍が移ったんでございますがね……おりんちゃんの青痣のこと、正吉にもおりんちゃんにもやれた筈がないのに金蔵が死んでいたこと……で、最後に風車でさぁ…………あっしも一度は覚悟を決めやした、次に親分さんがみえたら潔くお縄を頂戴しようと……でも、何日経っても親分さんはみえねぇ……十日ほども経ってようやくみえた時に、一杯やりながら『これは俺の想像だがよ』と断ってから話してくれたのがあっしが先ほどした青蛇が金蔵の首を絞めたって話で……親分さんは話し終わった時に『まさかそんなこたぁねぇよなぁ』と笑っておられましたが……その時、あっしも気付いたんでございますよ、親分さんはあっしを匿ってくださるおつもりなんだと……」

なるほどなぁ……平吉は怪談じみた筋書きをでっち上げてお前さんの存在をぼやかしたってぇわけだな……いや、平吉が間違った事をしたたぁ思わねぇよ……脅されたとは言っても正吉の家に金蔵を手引きしたのは感心しねぇが、金蔵の首を絞めたのはおりんを庇ってのこと、金蔵は捕まりゃ打ち首間違いなしの悪党だ、却って手間が省けたくれぇのもんだ……よくわかったぜ、これですっきり腑に落ちた」
「あっしも大人しくお縄を頂戴いたしやす……」
「よしな、言っただろう? ワシはただの隠居、知りてぇだけだってな」
「は?」
「八年前の事ぁ、もうすっかりカタがついてるんだ、いまさら蒸し返したって誰の為にもならねぇよ……おりんもお前と父親が命がけで守ってくれた操ってやつをあんなどら息子にくれてやるのは真っ平だったんだろうよ……そのために命まで落とすことにはなっちまったがな……お前さん、老い先短ぇって言ってたが、ワシも同じようなもんだ、ワシはこの話を墓場まで持って行くさ、倅にも話しゃしねぇよ」
「お武家様……」
「だがよ、只って訳にゃ行かねぇよ」
「はぁ……」
「口止め料としてもう一本つけてくれねぇか……すっかり体もあったまったから、今度のは上燗で頼むぜ……」
「へい……それと、有り合わせのものしかございませんが、何か鍋でもこさえましょう」
「そいつはありがてぇな」
「平吉親分さんとも良くそうして即席の鍋をつついたんでございますよ……それと、明日は卵を贖って玉子焼きをつくりやす」
「玉子焼き?」
「ええ、おりんちゃんの好物だったんでございますよ、そっちの隅の方で嬉しそうに食べていたのを思い出しやしてね……あっしはもう足が弱っちまって武州まで墓参りには行かれませんが、せめてそいつをお供えしてやろうと思いやして……」
「そうかい……その卵焼きは三人前にしてもらえねぇか?」
「は?……」
「ワシも宿の飯は断って、明日の朝もう一度ここに来るぜ、ワシもな、おりんの事は不憫でな……庄屋のどら息子が奉公人に見境なく手を出してるのを知っていながら手を出せなかったって負い目もあるんだ、ここでおりんの供養をしようってならワシもつき合わせてくれ」
「へぇ、ありがとう存知やす、でも、後一人前は……」
「お前さんの分だよ、二人で供養しようじゃねぇか……代はワシが出すぜ」
「ありがとうございやす……お武家様、これから宿をお取りに?」
「ああ、これから武州に帰るだけの元気はもうねぇよ」
「そうではなく……ろくな夜具もございやせんが、よろしければここでお休みになられては? まだまだ酒もございますし、鍋も直に煮えますんで……」

江戸の夜は寂しい。

 その外れの内藤新宿、そのまた外れの小さな煮売り居酒屋には遅くまで灯りが点っていた……。

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登場人物紹介

今は隠居となっている元同心

煮売り居酒屋の老主人

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