流木

文字数 2,466文字




おだやかな海の真ん中に、1本の大きな流木が浮かんでいます。

そして、その流木にひとりの女がしがみついています。



(わたし、いつからこうしてるんだっけ……)



女は嵐にあい、乗っていた小舟がこわれて海に落ちたことはおぼえています。

だけど、いつのまに流木を見つけたのか、どのくらいの時間しがみついているのか、すっかりわからなくなっていました。



(船も陸地もなにも見えない。今、どの辺りにいるのかな……)



嵐にあうまで、女はずっとひとりで小舟をこいで生きてきました。

遠くを行きかう自分と同じような小舟を見かけることもたまにありましたが、
海賊がだまそうとしているかもしれないと思い、決して近づきませんでした。

きれいな島で、楽しそうに遊んでいる人たちを見かけたこともあります。

でも、その人たちがあまりに輝いていたので、ボロボロの服でははずかしくて近づけませんでした。

そんなふうにして、誰ともかかわらずに生きてきました。



(この木、いつまでもつんだろう……)



しがみついている流木は、もう腐りかけています。

でもこの流木で嵐をのりきり、広い海でなんとか生きのびることができているのです。

そのうちに朽ち果ててしまうのはわかっていますが、手をはなすわけにはいきません。



(この木がなかったら、わたしは──)



つい手に力をいれたとたん、木の枝が1本もげてしまいました。



(ウソ! ど、どうしようっ!)



こわくてよけいに力が入ります。

同時に、流木の幹もぐずぐずとくずれてきました。



(このままじゃ、木がしずんじゃう)



流木から身体をはなし、そっと手をおくだけにしました。

すると、身体がぷかりと浮きました。



(あれ? なんで?)



女は子どものころにおぼれかけてから、まったく泳ぐことができませんでした。

それが海をただよううちに、いつのまにか波にうまく身をまかせられるようになっていたのです。



(浮かんでいるだけなら……なんとかできそう)



女は流木から片手をはなしました──



   ※   ※   ※



どのくらいときがたったでしょうか。

たまに両手で流木にしがみつくこともありましたが、今では片手だけでいられる時間も長くなりました。



(……この木、じゅうぶんがんばったよね。こわいけど……手放そう)



そう自分で決め、えいっと、流木から手をはなしました。

一瞬、身体はしずみましたが、あせらないでいると、やがてぷかぷかと海面まで上がってきました。



(わりとカンタンだった……)



安心した女はくるりと向きを変え、大の字になって空を見あげました。




(わあ……きれい)



流木にしがみついていたときには見えなかった美しい星空が広がります。

女は、まるで波とひとつになったような気持ちで、ぼうっと天をながめました。

無数の星がきらめく空に、朝の明るさがまざりはじめています。

その景色がただただきれいで、今、おそれるものはなにもありません。



(夜と朝が交わる刹那。今このときにあるものはなんだろう──)



次の瞬間、とつぜん女はぽーんと空中に放りなげられました。



「わっ、なっ、なに!?」



そして海に落ちたとたん、身体が海面をすべるように進みはじめます。

ぼうぜんとする女の耳に、声が聞こえました。



『大丈夫だよ』


(この声は……?)



見ると、女はイルカの背に乗っていました。



「イルカが……な、なんで?」

『ずっと助けたかったんだけど、流木がじゃまで近づけなかったんだ』



イルカはぐんっとスピードを上げました。



女はイルカといっしょに、海の上を走るように進みます。

イルカは女がジャンプしたいときにジャンプし、もぐりたいタイミングで波のうねりへと飛びこみます。

女とイルカの息はぴったりです。

われを忘れて楽しむうちに、やがて大きくて豪華な客船に出会いました。



(立派な船……)



見あげていると、甲板から船長さんが声をかけてきました。



「双眼鏡であなたとイルカを見てました。楽しそうですね」

「はい、とっても!」

「イルカもいいけど、この船に乗りませんか?

ここにはたくさん人がいます。仲間との船旅も楽しいですよ」

「えっ……わたしがこんなすごい船に乗ってもいいんですか?」

「もちろん。誰でも……すべての人が乗っていいんですよ?

どうしてそんなことを聞くんですか?」



船長さんは不思議そうな顔をしています。



「だって……わたしなにも持ってないし……見てのとおり、かわいくないし、それに性格もよくな──」

「すべての人が乗っていいんですよ」



もう1度、船長さんはいいました。








「どうもありがとう! 楽しかったよ!」



船に乗った女が、甲板からイルカに手をふります。

イルカはキュッとひと鳴きすると、波間を元気に泳いで行きました。

海からのぼった朝日が波をキラキラと輝かせています。


それは、ずっとそこにあったのに、今まで気づかなかった大海原のきらめきでした。

いつのまにか、理由もなく涙が女の頬を流れています。



(これからいろんなところに行って、いろんなものを見てみたいな……)



ワクワクしながらも、気持ちはとてもおだやかです。

イルカの姿はもう見えません。そして、もちろんあの流木も──。



(長いあいだ、助けてくれてありがとう)



今はどこをただよっているのかもわからない流木に、女は心の中でそっとお礼をいいました。



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