猫カフェ

文字数 5,683文字




アユミが猫カフェの猫になってから、1週間がすぎました。

猫になる前、アユミはたしかに26歳、女性、会社員、彼氏ナシ、でした。

ところが1週間前、外回り中に時間があいたので、いつものようにこの猫カフェに立ちよったときのことです。

その日もお気に入りの席につくと、黒猫のクロがぴょんとひざに乗ってきました。
すると次の瞬間、アユミがクロに、クロがアユミに入れかわっていたのでした。

(まさか生きているうちに猫になるなんて……。
いや、死んだとしても猫になるとは想像もしてなかったけど)

朝食のキャットフードをもりもり食べながら考えます。

(人間に……わたしになったクロは、今ごろどうしてるんだろう)

あの日、アユミと入れかわったクロは、きちんと会計をすませて店を出て行きました。

(あれからうまくやってるのかな……)

こうなった自分のほうは、ボス猫の機嫌をそこなわないようにするだとか、それぞれの猫のテリトリーに入りこまないようにするだとか、猫社会のルールをおぼえて、なんとか暮らしています。

(クロもそれなりに生活してればいいけど……)

スタッフルームのドアが開き、デニム生地のエプロンをしたおばあさんがやって来ました。猫カフェのオーナーです。

「ほーら、もうすぐ開店だよ」

アユミはオーナーのことを心の中で、猫ばあさん、と呼んでいました。

そして、この猫ばあさんの魔法だかのろいだかで、自分が猫になってしまったにちがいないと思っています。

「クロ、お前やっと落ち着いてきたね。2、3日前までのあばれようがウソみたいだ」

猫ばあさんが、のんきな調子で話しかけてきました。

(いきなり猫にされたんだから、あばれて当たり前ですよ)

アユミはぷいっとそっぽを向きました。

「おやおや、あいそのない」

猫ばあさんは笑って、表のそうじに行ってしまいました。

(にしても……どうすればもとにもどれるのかな? それとも、わたしってずっと猫のままなのかな)

アユミは空になった皿をじっと見つめていました。



   ※   ※   ※



猫カフェには、さまざまな人がやって来ました。
近くの大学の学生、お年寄り、家族づれ……。

みんな猫が近づくとニコニコと笑顔になります。
お店のルールで、猫たちはムリに抱きかかえられるようなことはありません。

だけどアユミは、できるだけ自分からお客さんのひざに乗るようにしています。
たったそれだけで、みんなが大喜びしてくれるのが嬉しかったのです。

(会社では、どんだけがんばってもほめられなかったのにね)

気持ちはちょっと複雑でしたが、ささいなことで人から喜ばれるというのはアユミにとって新鮮でした。

わざわざ自分からお客さんに近づく理由はほかにもあります。

アユミはカフェの猫になってから、お客さんのひざの上でなでられていると、なぜかその人の心の中がわかるようになりました。

お客さんたちはみんな、猫とすごす時間を笑顔で楽しんではいましたが、
多くの人が心の奥底に、自分では気づかない小さな悲しみを押しこめていました。

その悲しみが、黒猫のアユミをなでるうちに不思議とやわらいでいくのです。

そして、みんな来たときより元気になって帰っていきました。

(猫ならみんなこんなことができるのか、クロだけがそうなのかはわからないけれど……。これって、なかなかやりがいのある仕事だよね)

アユミはいつのまにか、そんなふうに考えていたのでした。



   ※   ※   ※



夕方、アユミが店のドアベルの音にふり向くと、自分が店に入ってきました。

自分──中身はクロのはずの自分です。

入り口で手を消毒している自分を、アユミはぼうぜんと見つめます。

「おや、アユミちゃん。ひさしぶりだね」

猫ばあさんが声をかけました。

「すみません、仕事がいそがしかったもので」

「大変だね。今日もコーヒーでいいのかい?」

「はい、アイスコーヒーで。すみません」

自分はいつもの窓際の席に座り、スマホでメールをチェックしはじめました。

(おどろいた。クロ、わたしの習慣を知ってるの?)

さらにおどろいたことに、自分はスマホを見ながら前髪を何度も引っぱっています。

習慣どころか細かなクセまで、アユミそのものです。

アユミはしばらく自分を観察しました。

そして、確信しました。

(あれはクロじゃない。外見も中身もわたしなんだ……)

クロになった自分。今、猫カフェに来ている自分。

いったいどちらが本当の自分なのか、わけがわからなくなりそうです。

やがて、猫ばあさんがアイスコーヒーを運んできました。

「おまたせ。今日のクッキーはジンジャークッキーだよ」

「おいしそうですね。どうもすみません」

「気にいると思うよ。では、ごゆっくり」

「すみません」

(なんか……わたしってあやまらなくていいときもあやまってるんだな。
こんなクセがあったんだ。知らなかった)

猫ばあさんが行ってしまってから、アユミは自分に近づきました。

(おい、自分。毎日しっかりやってるの?)

「あ、クロ。ひさしぶり」

よしよしと自分に頭をなでられます。

(なんか変な気分……)

そのとき、アユミのスマホが鳴りました。

「すみません。ちょっと表で電話してきます」

自分がカウンターの奥にいる猫ばあさんにいいました。

(会社からかな?)

アユミは店を出る自分のあとに、こっそりついて行きました。



   ※   ※   ※



「課長、おまたせいたしました」

電話はやっぱり会社の上司からです。

話を聞いていると、前に提出していた書類のデータがまちがっていて、先方からクレームがきたということでした。

「も、申しわけありま──」

言葉がさえぎられるほどに、課長はおこっています。

課長とは以前からウマがあわない上に、今回のミス。

電話をしながらひたすら頭を下げている自分を見ているだけで、アユミは胃がいたくなりそうです。

(でも、あの書類はもともと前任者が作ってたもので……
データだって、そのまま引き継いだだけで……だから……それなのに……)

そんな事情も、自分はまったく上司に説明しようとはしません。

(いってもムダだってわかってるからだよね……。それに……やっぱりわたしがわるいんだよ。
もっとがんばれよ、わたし。もっと、ちゃんと)

ひたすらあやまるだけの自分に、アユミはちょっと腹がたっていました。



   ※   ※   ※



店にもどり、テーブルでしょんぼりとアイスコーヒーを飲む自分の後ろ姿に、アユミはさらにイライラしてきます。

(そんなことしてる場合? さっさと先方に──)

「あやまりに行かないと……」

ぼつりと自分がつぶやきました。

(なんだ。わかってんじゃん)

アユミは自分のそばに行き、下から顔を見あげます。

ぼんやりとした表情で、なんだか抜けがらみたいです。

(そうだよ。わたし、わかってるんだ。やらなきゃいけないことなんか、ちゃんとわかってる。

すぐにやらなきゃいけないってことも。それなのに……なんでわたしって、いつもできないんだろうな……)

そのとき、ふと自分と目があいます。

「……クロ、おいで」

自分が両手を広げます。

(もう……仕方ないな)

アユミはぴょんと自分のひざに飛びのりました。

「ごめんね、クロ」

(あ、わたし、またあやまってる……)

ゆっくり背中をなでられながら、アユミは目を閉じました。

すると、急に心がひりひりといたくなりました。

(なに……これ……?)

アユミは自分の心に無数の古くて細かな傷があることを感じました。

ひとつひとつは小さな傷ですが、いくつも重なっているところは、まるで深い溝のようです。

『もっと、ちゃんとしないと……』

その声が聞こえた瞬間、自分の心にスッと傷が入るのがわかりました。

『なんでわたしって、いつもこんななのかな……』

また、ごくわずかに傷が入りました。

自分をせめるたび、アユミの心に傷がつくのです。

そして同時に、痛みで心がぎゅっとかたくなります。

でもそんなことに、自分ではまったく気づいていないのです。

(知らなかった。わたし……こんなに自分をいためつけていたなんて……)

(ごめん……知らなかったんだ……ごめん……)

いつのまにかアユミは泣いていました。





涙はつぎつぎにこぼれ、頭がぼうっとしてきます。

(いちばんあやまらなきゃいけないのは、わたし自身にだったんだな……)

自分になでられているのか、アユミが自分をなでているのかもわかりません。

だけど今、涙がこぼれるにつれ、心が少しずつゆるんでいくのを感じています。


少しずつ、少しずつ……
心がやわらかくなります。

そしてだんだんと……
はじめて知るような……


でも、本当はずっと昔から知っていた……
深い安らぎの中に入っていくのでした──



   ※   ※   ※



「アユミちゃん、起きとくれ。閉店だよ」

すぐそばでオーナーの声がしました。

「えっ、あれっ?」

猫カフェにいる客はアユミひとり。外は日が暮れようとしています。

いつのまにか、テーブルにつっぷして眠っていたのでした。

「ぐっすり寝てたね」

「はい……夢、見てました。わたしがクロになる夢。リアルだったなあ。

「ははっ、それはおもしろそうだ」

「おもしろいっていうか……そうだ! わたし、あやまりに行かないと──」

(あっ、でもあれは夢の出来事……?)

スマホの着信履歴を見ると、上司の番号は見あたりません。

そして、カバンの中にも、提出前の書類が入っています。

(そうだ。今日は直帰だからここによったんだっけ。ぜんぶ夢でよかった……)

ふうっと息をはいたとき、アユミの前にコーヒーとジンジャークッキーが差し出されました。

「これはサービスだよ」

そしてオーナーは自分の分のコーヒーもおくと、イスに座りました。

「いつも1杯飲んだあとに店を閉めるんだ。アユミちゃんも飲んでから帰るといい」

「嬉しいです。ありがとうございます」

アユミはさっそくコーヒーをひと口すすりました。

「おいしい……」

もともとこの店のコーヒーは好きでしたが、いつもより風味が増したように感じます。

「やけにさっぱりした顔してるね」

「そうですか? あ、夢のせいかな。泣いたんです、夢の中で。

そしたらなんか、すっきりしたっていうか、癒されたっていうか……。
あと、いろいろ気づくこともありました」

「へえ。なにに気づいたんだい?」

「わたしって、すぐに自分をせめるクセがあったみたいで……。
そのせいで、自分で自分をボロボロになるまでいためつけてたんだなあって。

でも、どんなにひどいことしてたか気づけたんで……もうそんなクセ、これからはやめます」

「そうかい、そうかい」

オーナーはゆっくりうなずきました。

「ところでジンジャークッキーのお味はどうだい?」

「おいしいです、とっても。そういえば、お店のクッキーを出していただいたの、ずいぶんひさしぶりですね?」

するとオーナーは肩をすくめました。

「じつはこのところ、思うようにクッキーが作れなくなってたんだよ。
できあがりがどれもイマイチでね。わたしもさすがに歳かなあと、ちょっと落ちこんだよ。

だけど、ふと思いついたんだ。
バターに砂糖をまぜるとき、2回にわけてたのを3回にしてみようかって。

そしたら前みたいに、うまく作れるようになったのさ。歳のせいで力加減が変わってたんだろうね」

「そうだったんですか……。でも、そんなちょっとしたことで解決したんですね」

「なんでもそういうものかもしれないね。やたら自分をせめて、悩んだり落ちこんだりしなくてもいいんだ。

大事なのは、ほんのひと工夫をためしてみることさ」



             ☆



オーナーが、店の外まで見送りに出てくれました。

「アユミちゃん。また来ておくれよ」

「はい。近いうちに、また。コーヒー、ごちそうさまでした」

「クロといっしょに、猫ばあさんはいつでも待ってるからね」

「え……?」

「それじゃあ、気をつけておかえり」

「は、はい……ありがとうございます」

(オーナー、さっき猫ばあさんって……いった?)

アユミはオーナーが入っていった店のドアをしばらく見つめてしまいました。



   ※   ※   ※



猫カフェからの帰り道を、アユミはのんびり歩いています。

(それにしてもリアルな夢だった。だって、あのキャットフードの歯ごたえ……)

思い出し笑いをしてしまったとき、ふとオーナーの言葉がよみがえります。

『大事なのは、ほんのひと工夫をためしてみることさ』

(ほんのひと工夫か……なんかあるかな。
あ、前任者からのデータ、念のためだ。見なおしとこう。グラフももう少し見やすくできそうだし……)

気分がすっきりしているせいか、いろいろとアイデアも浮かびます。

(また、つい自分をせめてしまうこともあるだろうけど……
これからは、傷ついた心をほったらかしになんかしない。

いつも……どんなときも、自分の気持ちに気づいて優しくしよう)

アユミの心は、まるでクロをひざに乗せてなでているようにあたたかでした。



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