第5話

文字数 9,050文字


ポイズン
橋本希の証言


一羽のツバメが来ても夏にはならないし、一日で夏になることもない。

このように、一日もしくは短い時間で人は幸福にも幸運にもなりはしない。

           アリストテレス

































 第五象【橋本 希の証言】



























 ―一〇月一二日

 私、橋本希は殺された。

 誰にどうやって殺されたのかは、覚えていない。





 その日は、いつもと変わらない朝が来た。

 私は少し離れた場所にあるスーパーでパートをし、残りの開いた時間で、また別の薬局のレジで生計を立てていた。

 夫と離婚してからというもの、娘の夢は言う事を聞かなくなり、まともに会話もしていない日々が続いていた。

 先月、同級生だった村上くんに会った。

 最初は誰だろうと思ったけど、人懐っこい彼の顔に覚えがあって、すぐに思い出せた。

 村上くんは、昔から優しい人だった。

 いじめなんて卑怯なこともしないし、陰口も言わない、誠実な人だった。

 好きだったのか聞かれると、分からない。

 でも、村上くんなら一緒にいてもいいかなって、思っていた。

 私は、自分を偽って生きていたから。

 幼少期の頃から、両親の仲は悪く、暴力を振るわれる事もあった。

 学校では明るいとか優等生だとか言われていたみたいだけど、本当はそんなんじゃない。

 人に嫌われる事が怖くて、でも笑顔でいると、知らず知らず人が寄ってくるから、だから笑っていただけ。

 勉強だって必死に頑張った。

 常に学年上位にいないと、みんな、調子が悪かったの?とか聞いてくるから。

 勉強だって嫌いだったのに、みんなに好かれるためならって、頑張ってた。

 ある日、私が先生にさされて、黒板に回答を書いていたけど、それが間違っていた。

 先生もみんなも、最初はぽかんとしていて、なんだろうと思って、少ししてから間違っていたことに気付いた。

 それも、すごく初歩的なもので。

 でも、村上くんは言ってくれた。

 「橋本でも間違えるときがあるんだな。なんか安心したよ」

 あまり話したことはないけど、完璧でいなきゃって思っていた自分にとって、それはとても嬉しい言葉だった。

 長距離とか水泳とか、苦手だったけど、出来る限り頑張った。

 そんな学生生活を終えて、就職をした。

 自分を知っている人がいると、また完璧を求められると思って、知らない場所を探した。

 一人暮らしを始めてすぐ、両親が離婚したことを知ったけど、正直、どうでも良いと思った。

 勝手に離婚して、勝手に生きていってよ。

 就職した会社では、とても忙しくて、毎日毎日嫌になった。

 でも生きて行くためには仕方ないと、仕事を続けていた。

 だって、愛だの恋だの言っていたって、結局はお金がないと生きていけない。

 それだけのために、仕事はしていた。

 やりがいだとか、目標だとか、生きがいとか、鬱陶しいだけ。

 仕事を始めて二年くらいした頃、帰り道に小さな工場があることを知った。

 「へえ、こんなところあったんだ」

 錆びれているし、見るからに中小企業って感じの工場だった。

 落ちていた何かの部品を拾い上げると、それを見つめた。

 けど、何に使うものかもさっぱり分からなくて。

 そんなとき、工場の中から人が出てきた。

 「あ、それ」

 「へ?」

 私の手から、奪う様にして部品を取りあげた男こそ、私の夫。

 「あの、落ちてたので」

 「あ、そうでしたか。すみません」

 「・・・それ、何に使うんですか?」

 何やらとても大事なものらしいが、説明されても分からなかった。

 首を傾げていれば、男は笑った。

 「最近ようやく軌道に乗ってきたんです。なんとかこの工場を守れそうです」

 「そうなんですか」

 それだけの会話だったけど、なんとなく落ち着いて。

 次の日も、その次の日も。

 ただ彼と話をしたくて、その小さな工場へと足を運んだのを覚えている。

 何度か食事にも行って、彼からプロポーズをされて、結婚。

 式を挙げたいっていうのもなかったから、籍を入れて、写真だけ撮った。

 子供も出来て、彼もすごく喜んでくれていた。

 産まれたら、家族でピクニックに行こうとか、どんな洋服が似合うかなとか、男かな女かなとか。

 私のお腹の中から出てきた赤子は、きっと世の中で一番可愛い子だと思った。

 「名前は?」

 「考えてきた」

 そう言って、彼が見せた名が、“夢”だった。

 私の名前が希で、希望の希だから、明るい未来を夢見る夢、ということらしい。

 すくすく育っていった夢だけど、そのうち、私に反抗するようになってきた。

 小さい子なんてこんなものだろうけど、私よりも彼に懐いていて、少し恨めしかった。

 「夢!身体拭かないと風邪引くわよ!」

 「パパ!パパが怖い!怒ってる!」

 決してあの頃は、仲が悪かったわけじゃないと思う。

 けど、そのうち彼の工場で問題が起こって、倒産するかもしれないと打ち明けられた。

 「希と夢にまで迷惑はかけられない」

 「何言ってるの。そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」

 「けど、金も持っていかれたから・・・」

 金と部品を持ち逃げした従業員は、借金をしていたようで、その保証人に彼がなっていたようだ。

 そのことを言われても、見捨てようなんて考えていなかった。

 けど、彼は私達にまで迷惑がかかるからといって、強引に関係を切ることにした。

 案の上、私達が彼のもとを去ってからというもの、彼は借金取りに追われる毎日。

 今頃はどこかで隠れているか、もしかしたら、命を絶っているかもしれない。

 確認する術はないけど。







 ―九月十三日

 久しぶりに休みで、希はゆっくりと昼間のうちに買い物に行こうと思っていた。

 鞄の中に財布と携帯を持って、出かけた。

 「今日の特売は・・・」

 チラシをチャックしながら買い物に行けば、みんな狂ったように特売の商品に飛び付く。

 希も負けじと手を伸ばすが、届かない。

 諦めて、カレーにでもしようと、別の通路に行ってカレールーを探す。

 夢は辛口が苦手だから、甘口を買う。

 そして牛肉よりも鶏肉が好きだから、鶏肉を買う。

 買い物を終えて家路を辿っていると、家の前に誰かが立っているのが見えた。

 「あの、何か御用ですか?」

 声をかけてみると、男が希の方に振り返る。

 なんとも言えない、女性の希から見ても綺麗な顔に、男らしい体つき。

 パーカーを着ている男は、希を見ると笑いながら会釈をしてきた。

 「あの、俺、夢さんの同級生だった、神奈広治と言います」

 「あ、夢の?ちょっと待ってね、どうぞ中に入って」

 立ち話もなんだからと、神奈を家の中に招き入れた。

 「そこに座って」

 いつも食事をしているテーブルに座ってもらうと、希は紅茶とお菓子を用意する。

 それをテーブルに置くと、神奈はまた御礼を言う。

 「それで、夢に用事だった?」

 「いえ、ただ、橋本、大丈夫かな、と思って」

 「?何が?何かあったの?」

 「もしかして、お母さんは聞いてないんですか?」

 神奈から聞かされて、初めて知った。

 夢が、学校でいじめられていて、さらには、何処かの不良に襲われそうになったことがある、と。

 「どういうこと?詳しく教えて」

 「俺も、そこまで詳しくは分からないんですけど」

 いじめられているというだけでもショックな出来事なのに、男に襲われそうになったことがあるなんて。

 希はあまりのことに、両手で頭を抱えてしまった。

 「あの、俺も、知ってる奴に聞いてみますよ。誰が橋本を襲ったのか、いじめてるのか。お母さんに報せます」

 「そうしてくれると嬉しいわ」

 神奈が帰ってからも、希は悩んでいた。

 このことを夢に問うべきなのか。

 しかし、ただでさえ二人の雰囲気は最悪だと言うのに、夢はもっと嫌がってしまうのではないか。

 希は、夢に内緒にすることにした。







 ―九月二十日

 朝パートに出かけ、お昼を食べに家に帰ってきたときのこと。

 珍しく家の電話が鳴ったため、希は何の疑いもなく電話に出た。

 「はい、橋本です」

 『橋本、希さんですね』

 「え、ええ、そうですけど、あなたは?」

 『私は・・・デモートです』

 「デモート?あの、イタズラ電話なら切りますけど」

 『橋本夢さんについて、知りたくないんですか?』

 「へ?」

 機械を使っているような、ハンカチで押さえているような、そんな変なくぐもった声をしている。

 デモートが言うには、夢は確かに学校でいじめられていて、いつも一人ぼっちだそうだ。

 それよりも、希が気になっているのは、夢を襲おうとした男のことだ。

 『奴は、今までにも、同じように女性に襲いかかっていました。しかし、どれも釈放されています』

 「どうして!?どうしてみんな訴えないの!?そんな非道なことしておいて!」

 『それは、奴の父親が、関係しています』

 「父親?」

 それ以上は今日は言えないと、デモートは電話を勝手に切ってしまった。

 相手は非通知でかけてきたようで、かけ直すことも出来なかった。

 だが、相手の男は何度も同じようなことを繰り返していて、しかも父親のお陰でのさばっていることが分かった。

 「絶対に許さない」







 ―九月二十二日

 「どうぞ、入って」

 「失礼します」

 その日また、神奈が希のもとに来ていた。

 何か分かったことがあるようで、希も真剣な表情になる。

 「夢さんをいじめていたのは」

 「それはいいわ」

 「え?」

 「夢を襲おうとした男のこと、先に教えてもらえる?」

 ずいっと神奈に顔を寄せ、じーっと神奈から目を逸らさない希に、神奈はこくん、と頷いた。

 「えっと、襲おうとしたのは、次の四人だと思われます」

 「四人?」

 「ええ、つるんでるんですよ」

 その四人とは、タカシ、レオ、ヒデオ、そしてリーダー格と言われている直紀だ。

 「その中で、お父さんが何かこう、権力を持ってる人っている?」

 「それなら、直紀じゃないですかね」

 「直紀・・・」

 「ええ、岡嶋直紀っていうんですけど、確か父親はどっかの会社の社長だったんじゃないかな」

 「社長・・・」

 何かつじつまが合ったのか、希は落ち着きの無い様子で、部屋をうろうろし始めた。

 その様子を見ていた神奈が、紅茶を飲んでから、口を開く。

 「橋本、すごく思いつめてるみたいですよ」

 「夢が?」

 「ええ、俺も友達から聞いた話なんですけど、毎日ぼーっとしてるって。今にも自殺しにそうな顔してるって、言ってました」

 「そんな!」

 「あ、でも大丈夫ですよ。学校には行ってるみたいですし、何もないように、俺もたまに橋本と連絡とってみますから」

 「ありがとう、神奈くん」

 こんなに優しい同級生がいたなんて、初めて知った。

 夢は、学校のことも友達のことも、父親には話していたが、希にはほとんど話したことがなかった。

 だから、同級生にどんな人がいるのかだって、知らないのだ。

 アルバムを見せてもらおうとしたときも、勝手に見るなと怒られてしまった。

 だが、夢を心配してくれている人がいるだけでも、こんなに心強いとは。

 「岡嶋、直紀」

 希の脳裏にこびりついて離れない、その名。

 どうにかして調べようとするも、何の手段もないまま。

 そんなときに、また家の電話が鳴った。

 なんとなく、この前のデモートとか言う男だろうと思った。

 「もしもし」

 『やあ、こんにちは』

 「分かったわ。この前あなたが言っていたのは、岡嶋直紀のことね」

 『おや、もうそこまで分かってしまったんですか』

 「馬鹿にしないで。私は夢の母親なの。なんでもするわ」

 『恐ろしいことを言いますねぇ』

 クツクツと、喉を鳴らして笑っているデモートに、希は嫌悪感を覚える。

 『それで、岡嶋直紀くんのこと、それ以外には何か分かりましたか?』

 「それ以外って?」

 『おやおや、父親の名も、岡嶋直紀くんのこれまでに犯してきた罪も、知らないのですか』

 「ちょっと、そこまで言うなら教えてよ!」

 『いえいえ、今日はこれで失礼しますよ、橋本希さん』

 プツッ、とまた勝手に切られてしまった電話に、希は苛立ちをぶつける。

 あの男は何を知っているというのか。

 そしてどうしてそれを教えるような素振りを見せておきながら、絶対に自分からは教えてこないのか。

 希は、椅子に座って項垂れた。







 ―九月三十一日

 「夢、お母さん仕事行ってくるからね。ちゃんと朝ご飯食べていくのよ」

 夢からの返事はないが、それでも希は夢に声をかけるようにする。

 無視されるのなんて慣れているが、やはり厳しいものがある。

 労わってほしいわけではないが、ちょっと顔だけでも見せて欲しい。

 パート先に着くと、髪をまとめてエプロンをつける。

 「おはようございます」

 先に来ていた人に挨拶をしながら、自分のレジに入ると、お客を迎える。

 ここでは、いつもニコニコしていなければいけない。

 まるで、昔の自分のように。

 嘘でもなんでも、これは仕事だから仕方ないのだと、自分に言い聞かせながら。

 「いらっしゃいませ」

 お昼に入る頃、希のレジに見知った顔が現れた。

 「神奈くん」

 「お疲れ様です。あの、お昼のとき、ちょっといいですか?」

 「ええ、わかった」

 きっと、夢のことで何か分かったのだろうと、希は早くお昼に入れるようにする。

 社員に確認をとってお昼に入ると、神奈が待っているだろう店の外へと向かった。

 「神奈くん、ごめんね」

 「いえ、仕事中にすみません」

 「よくここが分かったわね」

 「たまたま見掛けたんです」

 神奈を連れて、近くのファミレスに寄ることにした。

 神奈にも遠慮しないでと言ったが、神奈は一番安いドリアにしていた。

 もっと食べたいだろうに、と思いながらも、その優しさが嬉しくて、デザートは食べてもらった。

 「実は、岡嶋直紀について、わかったことがありまして」

 「何?」

 デザートまで食べ終えると、神奈はようやく口を開いた。

 「実は・・・」

 岡嶋直紀の父親は、あの大手企業の社長だということや、直紀には余罪があることを教えてもらった。

 「余罪って?」

 どういった内容なのかと思い、希は神奈に聞いてみる。

 水をぐいっと飲むと、神奈は少しだけ前のめりになって、こう話した。

 「恐喝や親父狩り、それに、暴行。性犯罪に関しても、被害者がいるみたいです」

 「そんな!」

 なんということだろうか。

 まさか、夢がそんな男に襲われそうになったなんて。

 未遂で済んだだけでも有り難いと思うべきなのだろうか。

 だが、次の瞬間、希は再び直紀に殺意を覚えることとなる。

 「それが、また夢さんを狙おうとしているみたいなんです」

 「!?」

 「噂なんですけど」

 神奈が言うには、直紀は以前失敗した夢を、また襲おうとしているようなのだ。

 こんなことを聞かされて、黙っているわけにはいかない。

 「お母さん?変なこと、考えないでくださいね?」

 心配そうに言ってくる神奈に、希はハッ、と笑顔に戻り、微笑み返した。

 神奈を見送って、まだ多少残っている休憩時間を確認したところで、携帯が鳴った。

 非通知だったが、なんとなく相手が分かった。

 「もしもし」

 『さて、どこまで分かりましたか?』

 やはり、デモートだった。

 希は、これまでに神奈から聞いたことを話すと、また向こう側で笑ったような気がした。

 『参りました。素晴らしいですね』

 「あなた、何が目的なの!?」

 『私はあなたにお教えしたかっただけです。あなたが守ろうとしている大事な大事な娘さんが、どんなに酷いことをされたのか』

 「どうして知ってるのよ!」

 『おや、感情的になってはいけませんよ。さもなくば、あなただっていつ、犯罪者になるか分かりませんからね』

 ツ―ツ―、と切れてしまった携帯を睨んでいると、休憩が終わっていることに気付き、慌てて仕事に戻った。







 そして、橋本希は殺された。

 真実は闇に葬られるかとも思われた。

 だが、そうでもなかった。











 ―真実



 《続いてのニュースです。えー、先日お伝えしました、橋本希さん殺人の件に関して、急展開です。犯人が捕まりました》

 速報として取り上げられたニュースの画面には、一人の男が映っていた。

 仏頂面で髭を生やしたその男は、手錠をかけられパトカーに乗せられる。

 朝起きてテレビを点けたらやっていたそのニュースに、村上はご飯を食べながら軽く眺めていた。

 《えー、ただいま入った情報によりますと、犯人は警察官で、別所清照、四十三歳ということです。別所容疑者は、橋本希さんを殺した動機として、金づるだった岡嶋哲也氏を殺されるかもしれないと思ったから、と答えているようです》

 「ぶっ!!!」

 まさか、こんなところで自分の会社の社長の名が出てくるとは思っておらず、村上は口に含んでいたコーヒーを出してしまった。

 すぐに布巾を持ってきてテーブルと口もとを拭い、汚れてしまったワイシャツも新しいものに着替えようとする。

 会社に行ってもクレーム対応に追われるだろうと思いながらも、会社に向かった。

 会社に着くと、まだ八時にもなっていないというのに、会社にはバンバン電話が鳴り響き、社長のことについての対応に追われているようだ。

 携帯をチェックすると、そこには岡嶋哲也社長、逮捕、と書かれていた。

 「マジか」

 タップしてスクロールすると、岡嶋のこれまでしてきたことが書かれていた。

 《岡嶋哲也、息子直紀の犯罪を今まで金で解決》

 《岡嶋社長、転落》

 《別所、岡嶋の息子の罪を隠匿してきた》

 《岡嶋と別所のこれまでの悪事の数々》

 「わちゃー、ダメだこりゃ」

 「おい村上、お前も対応してくれ」

 「はいはい」

 電話対応に追われ、昼休憩にも入れないでいた村上だが、なんとか三十分だけ解放された。

 ネクタイを緩めて空を仰いでいると、同僚がぽん、と雑誌を出してきた。

 「なんだよこれ」

 「読んでみろって」

 言われた通り読んでみると、そこには、岡嶋直紀の犯罪歴が書かれていた。

 正確には、闇に葬られた犯罪歴だ。

 友人と共謀しての親父狩りに関しては、犠牲者は五十人以上と言われ、恐喝で巻きあげた金はおよそ三百万。

 さらには、レイプ被害者は百人を越えるだろうと書かれていた。

 「酷いことしてたんだな」

 「ま、そこに書いてあることが百パーではないにしろ、酷いよな」

 「一体誰がこんなこと」

 「これ見ろよ。息子の方も親父の方も、証拠写真撮られてんだぜ」

 良く見てみると、直紀とその仲間が女性をレイプしているところや、岡嶋が被害者に金を払っているところが載っていた。

 「っかー。すげーな」

 「あ、そろそろ戻らね―と」

 休憩時間が終わったのか、同僚はさっさと仕事に戻って行った。

 残された村上は雑誌を眺めたあと、苦い顔をして空を仰ぐのだった。







 その頃、岡嶋は事情聴取を受けていた。

 「本当なんだ!確かに息子のことを今まで金でなんとかしてきた。だが!私も強請られていたんだ!変な男から電話がかかってきて、金をせびられたんだ!」

 「しかしねー、岡嶋さん。何の履歴も残ってないんですよね」

 「嘘じゃ無い!ちゃんと調べてくれ!」

 その時、取調室に、若い警官が入ってきた。

 岡嶋は自暴自棄になっていて、テーブルに伏して頭を抱えている。

 「遊馬、どうかしたのか」

 「はいっす!俺も事情聴取してこいって言われたっす!」

 「遊馬、だと?」

 聞き覚えのある名前に安心したのか、岡嶋は勢いよく顔をあげる。

 ようやく自分のことを知っている人が来てくれた、そう思ったのだが。

 「君は、誰だい?」

 「俺は遊馬っす!岡嶋さんっすね?よろしくっす!」

 「いや、私の知っている遊馬くんは君じゃない。もっとこう、スラッとしていて、顔ももうちょっと男前で・・・」

 「何言ってるっすか!遊馬は俺しかいないはずっす!それに失礼っすよ!」

 「どういうことだ?」

 「それより遊馬、何か分かったか?」

 「ああ、いえ。ただ、近所の人達が言っていたような病院も医者もいませんでしたっす。結局、橋本希は、精神疾患なんかじゃなくて、病院にも通ってなかったみたいっす」

 「なんだと!?じゃあ、冴っていう医者はなんだったんだ?」

 「そこも含めて、今調査してるっす!」

 岡嶋も勿論だが、その場にいた警察官たちも、みな頭を捻らせた。

 どうなっているのだろうか。

 「それから」

 「まだ何かあるのか」

 「岡嶋直紀が、生前親しくしていたっていう、結川蔵貴に関してなんすけど」

 「なんだ」

 「確かに、同級生にはその名前の人物はいたんすけど、本人に確認したところ、卒業以来、岡嶋直紀には会ってないって言ってるみたいっす」

 「はあ!?」

 「それと」

 「まだ何かあるのか!」

 「なんか、すんません。えっと、橋本希のパート先に姿を見せたっていう、神奈広治に関しても、現在は五十キロ先の田舎に住んでいて、やはり橋本希には会ったことがないと証言してるみたいっす」

 「はあ・・・どうなってるんだ」

 バタバタと警察内部は慌ただしく動き始めた。

 別所は素直に供述をし、起訴されることになった。

 岡嶋も同様に罰せられることになり、会社は副社長だった男が継ぐことになった。







 「・・・出ないなー」

 希の娘、夢は、冬弥に連絡を取ろうとしていた。

 夢は一人で生きて行くことを覚悟していたのだが、おばあさんが引き取ると言ってくれたらしく、夢は引っ越すことになったのだ。

 もう冬弥に会えなくなるため、せめてお別れだけでも言いたかったのだが、全く繋がらない。

 「入杜さん、バイト中かな?」

 留守番サービスになってしまうため、夢は諦めて電話を切る。

 「あーあ。朧さんも最近全然いないし」

 チャット内で、唯一の話相手だった朧も、最近ではルームに入ってくることもない。

 「みんな忙しいのかな」

 はあ、とため息を吐くと、おばあさんが迎えに来たようだ。

 「おばあちゃん」

 「まあ夢、大きくなったわね」

 「うん」

 「さ、行きましょ」

 おばあさんが頼んだ引っ越し業者が来て、荷物をどんどん積んで行く。

 夢は別の車におばあさんと乗って、また冬弥に電話をかけてみる。

 「・・・入杜さん」

 やっぱり出ないと、夢は通話を切った。

 でも、最後に冬弥の声を聞いてしまったら、引っ越ししづらくなるかもしれない。

 きっと良いことなんだと、夢は冬弥の番号を消去した。

 「さよなら、入杜さん。ありがとう」









 「やれやれ。まったく、人間というのは、誰も彼もが脆く弱く、そして愚かだ」



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