第3話

文字数 5,117文字

一週間後。
 期末テストの答案が、返ってきた。おばあちゃんの死を知ってから以降の科目は、いつも
の三分の二しか得点できていない。得意な英語さえ、とんでもない点数だった。涙をこらえて問題と悪戦苦闘している自分の姿を、ものすごく客観的に心の中に描く。泣くまいと噛んだ唇の痛さがよみがえってきた。
「こんなんだったら、テスト受けなくてもよかったかも」
 ひとり言のつもりだった。ついもらしてしまった言葉が母の怒りの琴線に触れた。あ、来るなと言う感覚は、目つきでわかる。急に、敵にでも遭遇したかのようなきつい目になるから。
「自分だけ辛かったようなふり、しなさんな! 私だって、死体から離れてあんた駅まで迎えに行くのに、どんな気持ちでいたか!」
 死体。遺体ではないのか。この場合どう呼ぶのがふさわしいのだろう、その言葉に引っかかり少し考えていると、母はますます一人でボルテージを上げていった。別に母に文句を言ったわけではないのに。この人。こうやって、会社でも他人に噛みついているのだろうか。将来就職してこんなおばさんがいたら、会社に行くのがゆううつになってしまう。いや。ちょっと待て。こんなのがいつも家にいて、毒矢を放って来る方が、どれだけ危険か。
私は、よく耐えている。我慢できている。本当に。
「黙ってないで、何か言いなさいよ、自分から喧嘩売っといて、やな子ね!」
 母に肘をつつかれる。悪意がこもっているから、思いのほか痛い。
「駅に来るのが、そんなに辛かったのなら、学校行かせないで朝から一緒に斎場に行っていれば」
 ささやかな、反撃。
「何言ってんの! 定期テスト受けなかったら進学にさしさわり出てくるじゃないの! あんたのためを思って」
 本当に? 良い大学に入らないと、他の人に言えないからではなく? 都合の悪い時に発射される、
「あんたのためを思って」 
 は、聞き飽きましたから。とても本当とは思えない。
 私は、紺のブレザーに茶系のチェックのスカート、そうして赤いリボンの制服が気に入ってはいるけれど、同時にこれをまとっている間は、親の管理下にあるのだという事も思い知らされる。この制服を脱ぐ日、私は自由になれるのだろうか。なりたいと思う強い気持ちはあるのだけれど、この母を打ち負かして反抗する気力はどこに? 今の私にあるとは思えない。
「親の言うこと聞いてりゃ、間違いないのよ」
 出た。これが、出たらおしまいの印。どう泣いてもわめいても、聞く耳を持ってはくれない。もしくは最初から持ち合わせていない。

火傷をしてしまった。フライドポテトの揚げ油が、右手の親指あたりに飛び散り水ぶくれを作ったこれは、まずい。母にばれたら。一番の心配は、それだった。
高三になり、いよいよ受験勉強を強いられるようになり、勝手に塾のコマを増やされた。つまり、毎日。放課後から、夜の九時まで。名の知れた大学しか授業料は出さない、と脅されているので、4月ごろはそのプレッシャーに押しつぶされそうだった。
「由香、毎日塾になっちゃって、もう遊べないじゃないかー、つまんないよー」
直美が言うと、
「仕方ないよ、お母さんがそう言ってるんじゃ」
 幸代が、言葉を繋げる。幸代は、かばってくれているつもりなのだろう。感謝しなければ。でも、
「あんなお母さんで由香かわいそう」
 と言っているようにも聞こえる。母のひがみ根性が遺伝してしまったか、と切なくなる瞬間。
 でも。けれども。私にも少しだけ光が見えてきた。塾を辞めたのだ。まず退会度届を持ち帰り、大人を真似た筆跡で記入し、捺印。塾長に持って行き、提出した。普通ならここで親への確認などがあるはず。しかしながら、塾長はさも残念そうな表情をつくり、素直に退会届を受理した。母とこれ以上関わらないで良いという安堵感から。入塾する時、志望校に入れなかったら返金して欲しい、と母は詰め寄った。そんな規約はないと押し返しているが、母はどんどん攻める。塾長は猛獣を見るような目つきで怯え、間に挟まるカウンターを猛獣から守る柵に見立てているかのように、自分のテリトリーを守った。母は、それを乗り越えそうな勢いで、怒鳴る。
 後になり、気さくな人柄とわかってからは、本当に気の毒だったと思う。母が次に何かを言ってくるのは、結果が出た時。それが全て。その途中でどれだけ努力したかは、全く関係がない。だから、日ごろのテストの成績も関心などない。塾でのテストも見せろと言われた事はなく、適当に九十点の後半の点数を口頭で伝えておけばまず問題はなかった。だから、行けると思った。今時珍しいシステムだったが、個人経営だからか塾代は現金払いだった。私は、毎月八万いくらの塾代を母からもらい、そのまま自分の口座に貯金することにした。
五月から始めたので、まもなく半年になる。これを卒業後一人暮らしをするための資金に当てようと思っている。最初の二ヶ月は、友人とお茶を飲んだり、図書館で時間をつぶしたりしていたが、七月からはファストフード店でアルバイトを始めた。基本は、オーダーを受けるのだが、時々手が足りないとポテトを揚げることもある。慣れないので油が飛んでしまったわけだが、バンドエイドで覆っておけば問題ない程度とわかり、ひと安心だ。なぜなら母は、そんな細かい事に気づくほど私を観察してやしないから。
 おかげで塾代とバイト代、二重の収入となった。特に、七、八月は一日中働けるし、塾も「追い込みの夏」と称して、特訓カリキュラムが組まれていたから追加で申し込んだ事にして、いつもより多額の現金を受け取った。
 アルバイト代とあわせて、三十万円弱。それでも私は、欲しいものも買わずにせっせと貯金をした。
 図書館通いをしていた間、私は色々な本を読んだ。主に母親について書かれた本だ。日に日に知識が蓄えられていくと、息が苦しくなってきた。こんな思いをしているのは、私だけかと思っていたが、違った。本当にたくさんの母親に傷つけられた娘たちがいた。もちろん、私よりひどいことをされている人もいた。その痛みがわかってしまう自分も、なんだかとても痛々しかった。
 中でも衝撃的だったことが、二つ。こういう親は、どんなことがあっても反省したり、謝ったりはしないから、逃げなければいけないこと。
辛かったと言ったところで、
「あんたの被害妄想。そんなこと考えるあんたのほうがおかしい」
 と言われるのが関の山、とある。母のことをどこかで盗み見て書いたのかではないか、と思ったほどだ。「あんた」と呼ばれる度に、軽蔑されているようで、見下されているようですごく嫌だったのだが、この類の親は「あんた」を使うことが多いらしいこともわかった。
 そうして一番の解決策は、逃げることとあった。逃げること。最初は、そんなこと出来るわけないと思った。お金がない。せめてどこか遠い大学に行き、一人暮らしをさせてもらうのが精一杯。どこか遠い大学・・・。すぐにそんな所に行かせてもらえるわけがないということに気づいた。人に言って自慢できない大学は、大学ではない。自宅から通えないほど遠い大学にしか合格できなかったとしたら、どれだけの罵声を浴びせられるか。想像しただけで、萎えてしまう。けれど、数々の本の内容を総合すると、私は思った以上に母に精神をやられていることもわかった。このまま成長していくと、心を正常に保てず病気になったり、無力感から自殺してしまったりする人もいるらしい。それは、嫌。この先もっと苦しいことが待っているなんて無理。心の底から、そう思った。
 おばあちゃんとの思い出以外に幸せな子供時代のエピソードを持たない私。これが、死ぬまで続くのか。このまま母の言うことを聞いていたら、間違いなく狂ってしまうだろう。変える気は、あるのか? 自問してみる。それは、どう考えても死ぬよりは簡単ではないか。このまま母のそばにいたら、病んで死期を早めてしまうのだとしたら、なんとか逃げた方が。だって私にはまだ、心から楽しい一日が、ないのだから。出した結論は、私の中で熟成し発酵し芳香を放ちながら現在に至る。嘘をついて塾を辞め、塾代を着服する。以前なら母が怖くて、こんなことできるはずもなかった。ましてや家を出るなんて、とてもとても・・・。
「お金もないし」
 そんな言い訳も平気でするだろう。
だけど今。お金はある。あきらめや言い訳に使っていた言葉は、もう通用しないのだ。
二つ目にショックだったこと。それは「連鎖」。こういう親は、そのまた親からひどい仕打ちを受けていることが多いという。また、そういう親に育てられると、子供も同じような性質になり結婚後はそれしか育て方を知らないために、同じことして簡単に世代間連鎖が行われてしまうと書いてあった。息を、呑んだ。
 私も、母のように? あんな怖い母親になるのか? 
ありえない。こんなに苦しいのに、それを自分の子供にするようになるなんて。考えただけでも怖いし、絶対に避けたい。ふと思う。おばあちゃんから母へは、どうだったのか。私には、やさしいばかりのおばあちゃん。私の知らない時代に、知らない所で母にひどいことをしていたのだろうか。
 時折り見かけた記述に、そういう親はえてして外面が良く、他の人に子供がいくら訴えたとしても、
「あんないいお母さんなんだから、親を悪く言うもんじゃないわよ」
 とたしなめられてしまうらしい。おばあちゃんも、上手く隠しおおせたのかもしれない。そう言えば、二人はあまり仲良さそうではなかった。お互いの悪口こそ言わなかったけれど、私を預ける時以外は、実家に帰ったりもしなかった。だから、おばあちゃんが亡くなった時に、
「死体から離れたくない」
 と言った時、不思議だったほどだ。
 本当は、おばあちゃんもひどい母親だったのか。それとも、母だけが突然変異で鬼のような親になってしまったのか。おばあちゃんはもうこの世にいなくて、確かめる術はない。「連鎖」の方だとしたら、それを無意識に受け継いだ母は、もうそれだけでダメ。気づけなかった罪は、大きすぎる。
 そう思いつつ、ふと疑問がよぎる。おばあちゃんは、ある程度は知っていたはず。私が母から正当に扱われていないことを。本当に小さい頃は、言っていいことと悪いことが区別できないから、
「ママねー、いつも怖いのー、突然怒り出すのー」
 とよく訴えていたような気がする。一回や二回ではない。本当に怖くて、何度も何度も言ったはず。おばあちゃんに告げ口。これは母がいかにも怒りそうなパターンだ。でも母に、その事で怒られた記憶は、ない。
母は、知らなかったのだろう。おばあちゃんが放置したのかもしれない。私の気持ちを。怖いと怯えている私を、取るに足らないこととして無視したのなら、おばあちゃんのものさしも壊れている。言った時に、母がいつものように狂ったようになるのが面倒で言わなかったのだとしたら。あまりにも無責任ではないのか。そのように育ててしまったのは、母親であるおばあちゃんなのに。幼くて一人苦しんでいる私の方を見捨てる選択をするなんて。       
「連鎖」かどうかなど、もうどうでもいい。私の寂しさ、辛さには実はおばあちゃんも一役買っていたことに気づいてしまった。
そう思うことで、おばあちゃんの死から立ち直れた私だった。
 落ち込むことばかりが書いてある本の中で、読んだ瞬間動けなくなるほどに力を与えてくれた文章に出会った。
「この本を手に取ったあなたは、自分の親が家族がどこかおかしいと思ったからだと思います。その事に気づけたあなたは偉い! 大丈夫、忌まわしい連鎖は必ず断ち切れますよ」 
 夕暮れの図書館の窓際の席で、泣くことさえ許可の必要な私が、自分の意志で大量の涙を流した。人の目を気にせずにこぼれる涙の、温かいこと・・・。私は、きっと解き放たれる。
独立の日へのシナリオは、着々と進められているけれど、阻止される可能性もある。だから、より一層慎重に事を運び、どこかへ逃げよう。逃げて逃げて、そうしてもう二度と帰らない。
 あの日の図書館に差しこんだ夕日の赤は、私が心の中で流した血。強烈な、救いの色。

 今日もハンバーガーやコーラのオーダーを聞き、
「ポテトのサイズは三種類ありますが・・・」
 と言いつつ、ラージサイズを勧めて店の売上に貢献する。目一杯の、でも心からの笑顔を作る。笑顔に、なる。
 その日は、必ず来るから。
 
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