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文字数 2,535文字
「――ねえ、お兄ちゃん。約束覚えてる?」
待合室で退院の手続きが終わるのを待っていると、迎えに来ていた妹が言った。
「どこでも好きなところに連れってくれるって、約束したよね?」
たしかに、そんな約束をした覚えがあった。色々なことがありすぎて、いつどこでしたのかは忘れてしまったが、あっちはしっかり覚えていたらしい。
オレは、腹に巻かれた包帯をさすりながら答えた。
「これが治るまで、待ってくれないか?」
「お願い。今日じゃなきゃダメかもしれないの」
聞き分けのいいことが取り柄のはずが、妙にワガママを言ってくる。仕方なくオレは、半分だけ譲歩してやることにした。
「歩いたり、動いたりするところは無理だ。映画館みたいに、座っていられるところならいいけど――」
「うん。大丈夫、のんびりできるところだよ」
ゆららは顔を綻ばせ、嬉しそうに頷いた。
病院を出ると、オレの車がそこにつけてあった。運転席にはナターシャが乗っている。
「昨日は、ありがとう」
車の外から礼を言うと、ナターシャはほのかに顔を赤らめ、目を逸らした。なにやら奇妙な反応だとは思ったが、特に気にもせず、妹と二人で後部座席に乗り込んだ。
ゆららが行きたがっていた場所とは、花見スポットとして名高い都市公園だった。
敷地を取り囲むように植えられた桜並木は、まだそれなりに美しかったが、満開の時期を越えてもう散り始めていた。レンガの遊歩道に、無数の花びらが散らばり、一つの季節の終わりを告げようとしていた。
「明日は雨だからね、お花見できるのは、今日が最後かもしれないの」
降り続ける花びらを見つめながら、ゆららが言った。小さな体で、レジャーシートを抱えている。ナターシャが持っているのは、お弁当の入ったカゴのようだ。お花見の準備がすっかり整っているのだ。
ちょうどいい広場にシートを敷き、サンドイッチの詰ったカゴを開いた。オレと妹は並んで寝そべり、のんびりと青い空を見上げる。
しばらくそうしていると、ナターシャがいないことに気づいた。彼女はなぜかオレたちのいるシートに近寄ろうとせず、近くにあったベンチに腰を下ろしている。どうしたのかと眺めていると、また顔を赤らめて目を逸らしてしまった。不審に思ったオレは、傷を庇いながら立ち上がり、ナターシャに近づいた。
「どうしたんだよ。来いよ」
ナターシャは目を伏せたまま熱いため息を履きだした。
「ごめんなさい。私、まだあなたたちとは、家族になれない――」
「どうした? なにを言ってるんだ?」
いよいよ心配になり、ナターシャの肩に手を置いた。彼女は小さく体を震わせると、冷たい指先でそっとオレの手に触れた。
「……昨日のプロポーズ、嬉しかった。私を守るためなら死んでもいいって、あなたは言ってくれて。あんなことを言われたの、初めてだったの。ウォッカを飲み干したように、体が火照った。だから昨日はOKしたの。でも……今日になったら急に、怖くなって……」
ナターシャがオレに触れていた指を離した、オレも彼女の肩から手をどけた。
「ごめんなさい。やっぱり私は、シベリアの女なの。見えている愛情より、見えない不安のほうに惹かれてしまう。覚悟が決まったら、心も体も、あなたに捧げるわ。だからもう少しだけ、待って。お願い――」
オレはなんと言ってやればいいのか考えたが、なんと言おうがどうにもならないという結論に達し、そこでもう、考えるのをやめてしまった。
無言で彼女の前から離れ、妹の隣に腰を下ろした。
「なっちゃんは?」
「一人になりたいみたいだ。そっとしておいてやろう」
そのあとはナターシャのことを忘れ、二人でお花見の続きをはじめた。
一時間ほど過ぎ、カゴの中のサンドイッチも半分に減った頃、妹がこんなことを言った。
「ねえ、お兄ちゃん。ずっとこのまま一緒に、のんびりできたらいいね」
ゆららの頭には、桜の花びらがいくつもくっついていた。空は晴れ、風もなく、春の温かい空気がオレたちを包み込んでいた。
「――寂しい思いをさせて、ごめんな」
オレはゆららに言った。ゆららは微笑みながら首を傾げている。
「なんでそんなこと言うの? ゆららはぜんぜん寂しくないよ。お兄ちゃんと一緒だもん」
その通りだった。オレが謝らなければならないのは、ユイなのだから。
いつかゆららがユイに戻ったとき、オレは妹をきつく抱き締めて、同じセリフを口するだろう。もちろんユイは嫌がる。嫌がるというより、本気で気持ち悪がるはずだ。
それでもよかった。オレを許してくれなくてもいい。
妹が元に戻ってくれれば、それでいいと思っていた。
だけどやっぱり、本音は寂しい。
そうだ。散りかけた桜を見上げながら、はじめてオレは、ゆららに支えられていたことに気づいた。母も妹もいなくなって、ついに独りぼっちになったオレを、いつも側で慰めてくれたのが、ゆららだったのだ。
ゆららがいたからオレは立ち直れた。おぞましい怨霊にも立ち向かえた。危機的な状況でも勇気をふるうことができた。
じゃあ、オレはどうだ? いつか消えてしまうはずのゆららに、いったいなにをしてやれるのだろう。
オレはそんな思いを抱きながら、初めて彼女の名前で、妹を呼んだ。
「――なあ、ゆらら」
「なに?」
「今日から……日記をつけないか。いや、ブログを作ろう。そこに写真とか動画を載せて、その日にあった出来事を書くんだ。オレも書くよ。思い出をぜんぶ、その中に詰めこんでやろう」
「なにそれ、面白そう!」
こんなことをしたって、なんにもならないのかもしれない。
それでもオレは足掻きたかった。
いつかゆららがいなくなったあと、きっとオレは毎晩そのブログを見返すだろう。
妹にも見せてやる。
ユイが失っていた時間が、どんなに素晴らしいものだったのか教えてやるんだ。
オレたちがゆららを見るように、彼女もきっと、オレたちを見ているはずだ。
だって彼女は、オレたちとは違う。生身の人間ではないのだから。
二次元の彼女が、ずっと側に残っていられる居場所を、作ってやりたかったのだ。
待合室で退院の手続きが終わるのを待っていると、迎えに来ていた妹が言った。
「どこでも好きなところに連れってくれるって、約束したよね?」
たしかに、そんな約束をした覚えがあった。色々なことがありすぎて、いつどこでしたのかは忘れてしまったが、あっちはしっかり覚えていたらしい。
オレは、腹に巻かれた包帯をさすりながら答えた。
「これが治るまで、待ってくれないか?」
「お願い。今日じゃなきゃダメかもしれないの」
聞き分けのいいことが取り柄のはずが、妙にワガママを言ってくる。仕方なくオレは、半分だけ譲歩してやることにした。
「歩いたり、動いたりするところは無理だ。映画館みたいに、座っていられるところならいいけど――」
「うん。大丈夫、のんびりできるところだよ」
ゆららは顔を綻ばせ、嬉しそうに頷いた。
病院を出ると、オレの車がそこにつけてあった。運転席にはナターシャが乗っている。
「昨日は、ありがとう」
車の外から礼を言うと、ナターシャはほのかに顔を赤らめ、目を逸らした。なにやら奇妙な反応だとは思ったが、特に気にもせず、妹と二人で後部座席に乗り込んだ。
ゆららが行きたがっていた場所とは、花見スポットとして名高い都市公園だった。
敷地を取り囲むように植えられた桜並木は、まだそれなりに美しかったが、満開の時期を越えてもう散り始めていた。レンガの遊歩道に、無数の花びらが散らばり、一つの季節の終わりを告げようとしていた。
「明日は雨だからね、お花見できるのは、今日が最後かもしれないの」
降り続ける花びらを見つめながら、ゆららが言った。小さな体で、レジャーシートを抱えている。ナターシャが持っているのは、お弁当の入ったカゴのようだ。お花見の準備がすっかり整っているのだ。
ちょうどいい広場にシートを敷き、サンドイッチの詰ったカゴを開いた。オレと妹は並んで寝そべり、のんびりと青い空を見上げる。
しばらくそうしていると、ナターシャがいないことに気づいた。彼女はなぜかオレたちのいるシートに近寄ろうとせず、近くにあったベンチに腰を下ろしている。どうしたのかと眺めていると、また顔を赤らめて目を逸らしてしまった。不審に思ったオレは、傷を庇いながら立ち上がり、ナターシャに近づいた。
「どうしたんだよ。来いよ」
ナターシャは目を伏せたまま熱いため息を履きだした。
「ごめんなさい。私、まだあなたたちとは、家族になれない――」
「どうした? なにを言ってるんだ?」
いよいよ心配になり、ナターシャの肩に手を置いた。彼女は小さく体を震わせると、冷たい指先でそっとオレの手に触れた。
「……昨日のプロポーズ、嬉しかった。私を守るためなら死んでもいいって、あなたは言ってくれて。あんなことを言われたの、初めてだったの。ウォッカを飲み干したように、体が火照った。だから昨日はOKしたの。でも……今日になったら急に、怖くなって……」
ナターシャがオレに触れていた指を離した、オレも彼女の肩から手をどけた。
「ごめんなさい。やっぱり私は、シベリアの女なの。見えている愛情より、見えない不安のほうに惹かれてしまう。覚悟が決まったら、心も体も、あなたに捧げるわ。だからもう少しだけ、待って。お願い――」
オレはなんと言ってやればいいのか考えたが、なんと言おうがどうにもならないという結論に達し、そこでもう、考えるのをやめてしまった。
無言で彼女の前から離れ、妹の隣に腰を下ろした。
「なっちゃんは?」
「一人になりたいみたいだ。そっとしておいてやろう」
そのあとはナターシャのことを忘れ、二人でお花見の続きをはじめた。
一時間ほど過ぎ、カゴの中のサンドイッチも半分に減った頃、妹がこんなことを言った。
「ねえ、お兄ちゃん。ずっとこのまま一緒に、のんびりできたらいいね」
ゆららの頭には、桜の花びらがいくつもくっついていた。空は晴れ、風もなく、春の温かい空気がオレたちを包み込んでいた。
「――寂しい思いをさせて、ごめんな」
オレはゆららに言った。ゆららは微笑みながら首を傾げている。
「なんでそんなこと言うの? ゆららはぜんぜん寂しくないよ。お兄ちゃんと一緒だもん」
その通りだった。オレが謝らなければならないのは、ユイなのだから。
いつかゆららがユイに戻ったとき、オレは妹をきつく抱き締めて、同じセリフを口するだろう。もちろんユイは嫌がる。嫌がるというより、本気で気持ち悪がるはずだ。
それでもよかった。オレを許してくれなくてもいい。
妹が元に戻ってくれれば、それでいいと思っていた。
だけどやっぱり、本音は寂しい。
そうだ。散りかけた桜を見上げながら、はじめてオレは、ゆららに支えられていたことに気づいた。母も妹もいなくなって、ついに独りぼっちになったオレを、いつも側で慰めてくれたのが、ゆららだったのだ。
ゆららがいたからオレは立ち直れた。おぞましい怨霊にも立ち向かえた。危機的な状況でも勇気をふるうことができた。
じゃあ、オレはどうだ? いつか消えてしまうはずのゆららに、いったいなにをしてやれるのだろう。
オレはそんな思いを抱きながら、初めて彼女の名前で、妹を呼んだ。
「――なあ、ゆらら」
「なに?」
「今日から……日記をつけないか。いや、ブログを作ろう。そこに写真とか動画を載せて、その日にあった出来事を書くんだ。オレも書くよ。思い出をぜんぶ、その中に詰めこんでやろう」
「なにそれ、面白そう!」
こんなことをしたって、なんにもならないのかもしれない。
それでもオレは足掻きたかった。
いつかゆららがいなくなったあと、きっとオレは毎晩そのブログを見返すだろう。
妹にも見せてやる。
ユイが失っていた時間が、どんなに素晴らしいものだったのか教えてやるんだ。
オレたちがゆららを見るように、彼女もきっと、オレたちを見ているはずだ。
だって彼女は、オレたちとは違う。生身の人間ではないのだから。
二次元の彼女が、ずっと側に残っていられる居場所を、作ってやりたかったのだ。