文字数 3,501文字

 午後の三時に職場を早退して、病院に直行した。
 精神科の受付で予約の確認をすると、診察室ではなく、三階の多目的室まで行くよう指示された。オレは事務員に軽く会釈をして、混雑する受付を離れた。
 時間帯が悪かったせいだろうか。待合室のある一階は人で溢れていた。エレベーターの前にも人だかりができている。おれはその場を素通りし、一人で奥の階段を上った。
 二階へ抜けると、掃除機で吸い尽くしたように辺りの雑音が消えた。だが、むわっとくる独特の臭気だけは、三階の廊下に出た後も纏わりついてくる。黒ずんで汚れたリノリウムの床に、消毒液や体液の臭いが、べったりと染み付いているようだった。
 多目的室のドアをノックして、冷たいノブを回す。
 部屋に入るとまず、壁に下がった巨大なスクリーンが目に止まった。ここで入院患者に映画でも見せるのだろうか。窓はすべて暗幕に覆われ、十脚ほどのパイプイスが二列に並んでいる。
 およそ病院らしからぬ光景につい気を取られていると、誰かがオレの名前を呼んだ。
「飯塚、涼さんですね? お待ちしていました」
 白衣を着た細身の女性が、アンダーリムのメガネに手を添えながら近づいてくる。白いファイルを小脇に抱え、胸には「医師 藤崎塔子」と書かれたネームプレートをつけていた。外見を整えることにはあまり関心がないのか、艶のない傷んだ髪をぞんざいにまとめ、化粧っ気もない。浮き世離れした理系の学者――真っ先にそんな印象が浮かんだ。
 オレは返事をする代わりに、上着のポケットからSDカードの入ったケースをとりだした。事前に頼まれていたとおり、隠し撮りした妹の動画を持参してきたのだ。
「早速、準備をします。座って待っていてください」

 藤崎がプロジェクターの操作をしている間、オレはまだなにも映っていないスクリーンを見上げ、大きなため息を吐いていた。
 妹のあんな恥ずかしい姿を、シアタールームで他人と鑑賞することになるなんて。
 ユイはまだ中学生なのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 やり切れない思いが、海に漏れ出た重油のように胸を覆い尽くしていた。
 まもなくして、天井の蛍光灯が一斉に消えた。プロジェクターの起動とともに、まばゆい光に縁取られた妹の影が、壁いっぱいに映し出される。水玉模様のパジャマを着て、わずかに頬を紅潮させたユイが、とろけるような目でオレを見ていた。

『ねえねえ、お兄ちゃん。聞いて。ゆららね、お兄ちゃんに秘密にしてたことがあるの。知りたい? あのね、これはまだ誰にも話したことないんだけど、実はね、ゆらら……普通の人より体温が高いの! 日本人はね、だいたい三十六度五分くらいが平熱なんだけど、ゆららは三十七度二分もあるんだよ。すごいでしょ? ……あれ? どうしたのお兄ちゃん。どうしてそんなに浮かない顔をしてるの? ……もしかして、ゆららの話を疑ってる? 違うよ。嘘じゃないよ。本当にゆららの平熱は高いんだよ。その証拠にほら、計ってみて。ゆららのワキにお兄ちゃんの指を突っこんで……え? そんなのダメだよ。おデコじゃ正確な体温は計れないんだから。ワキにしっかり挟まないと……ダメ? なんでダメなの? ……恥ずかしいから? もう、しょうがないなぁ。だったら今日は、おデコで許してあげる。待ってて、いま出すから。ほら、出たよ。優しく触って。あっ――お兄ちゃんの手、冷たい。冷たくて気持ちいい……そういえば、お兄ちゃんて冷え性だったよね。エアコンの設定温度は二十九度だし、「朝起きると足の感覚がない」って、いつもぼやいてるもんね……そっか、わかった。じゃあ、今日からゆららが添い寝してあげる。もう電気毛布なんて使わなくていいよ。そんなのなくたって、ゆららが熱を発するから。遠慮しないで、お兄ちゃん。今日はゆららと――』

「――これはまた、深刻な症状ですね」
 いつの間にか隣に座っていた藤崎が、そんな感想を漏らした。
 オレもまったく同じ気持ちだったが、医者に共感されたところでなんの解決にもならない。目の前で繰り返される悪夢が早く終わるのを、ただ祈るだけだった。
 それから五分ほどして動画は終わり、部屋の灯りをつけてまた戻って来た藤崎が、膝の上でファイルを開いた。
 医師の問診がはじまったのだ。
「状況はわかりました。まず間違いなく、例の病気の影響でしょう。――念のため確認しておきますが、妹の結さんは、以前にもあんなふうに甘えてきたことがありましたか?」
「ありません」
 オレは即答した。

 七才年下の妹のことなら、誰よりもよく知っている。真面目で、きれい好きで、年のわりには大人びたところがあって、スナップ写真を撮るため自転車に乗って出かけるのが趣味だった。複雑な家庭環境のせいか、少し内気で人見知りなところがあり、笑顔を作るのが苦手だった。あんなふうにグイグイ甘えてくるなんて、とうてい考えられない話だったのだ。

 それが三日前の朝に、とつぜん変わってしまった。
 早朝に家を出ていたオレは、まだユイの異変に気づいていなかった。中学校から職場に届いた連絡で、ようやくそれを知ったのだ。
 妹がまだ学校に着いていないと聞かされた瞬間、母さんが倒れた夜のことがフラッシュバックした。オレは心配で溜まらなくなり、慌ててユイの携帯に電話をした。
『あ、お兄ちゃん。どうしたの? お仕事中なのに、ゆららの声が聞きたくなっちゃった? 心配しなくても大丈夫だよ。ゆららはお家で、お兄ちゃんが帰るの待ってるから』
 スマホを持つ手が恐怖に震え出した。
 それはたしかに妹の声だったが、明らかにオレの知っているユイとは違った。
 妙に甘ったるい声色を使い、テンションが高く、挙げ句の果てに『ゆらら』とかいう頭の悪そうな一人称まで使っている。
 どうして学校へ行かなかったのかと訊ねても、『お兄ちゃんのためにね、ディナーの準備をしてるの』なんて、ふざけた答しか返ってこなかった。
 それでもまだ、この時点では手の込んだイタズラという可能性も考えられた。女子中学生の間では、こうしたドッキリを仕掛けるイベントが流行っているのかもしれない。家族の驚く様子を撮影して、インスタグラムでクラスのみんなと共有するのだ。実にはた迷惑な話だが、友人の手前、やるしかなかったのかだろう。
 だがそんな楽観的な希望は、仕事を終えて家に帰るとすぐ、立ち消えてしまった。
『お兄ちゃんおかえりなさい! これ見て、おいしそうでしょ? ゆららが一人で作ったんだよ!』
 居間のちゃぶ台の上には、立派なローストチキンが用意されていた。シャンメリーの瓶が一つに、シャンパングラスが二つ。コーンスープとサラダは個別の容器に取り分けられている。オレは無邪気に笑う妹と、豪華な食卓とを見比べながら、襖の前に立ちつくしていた。
『……どうしたんだよこれ。クリスマスには早いだろ。まだ四月だぞ』
『お兄ちゃん最近、お仕事頑張ってるみたいだから。これは、ゆららからのご褒美だよ』
 そう言うとユイは照れくさそうに俯いて、腕にしがみついてきた。
『――大好きだよ、お兄ちゃん』
 妹は幸せそうに袖の匂いを嗅いでいたが、オレは全身が凍りつくほどの恐怖を味わっていた。
 こんなものがドッキリであるはずはない。
 オレの知っているユイは、たとえお芝居でも、こんな小っ恥ずかしい演技を見せることはできないはずだった。
 妹の身に、いったいなにが起きているのか。
 キツネに憑かれたのか? 
 それとも、宇宙人になにか埋め込まれたのか?
 姿形は同じでも、中身はまるで別人になっている。
 オレの妹だったユイは、もうどこにもいないのだ。
「困惑されるのは当然です。ご家族はみな、そういう反応を示されます。ですが、安心してください。不治の病というわけではありません。時間はかかるかもしれませんが、完治した例も多く見られます」
 その言葉には、感情がこもっていないように思えた。素人があてたナレーションのように、セリフが棒読みなのだ。
 どうもこの先生の態度には、情熱というものが感じられない。単に薄情なのか、あるいは精神科の医師という特殊な職業柄、自然とそうなってしまうのか。淡々とカルテを書き込む藤崎を、オレは不安な気持ちで見つめ返した。
「それは、なんていう病気なんですか」
 藤崎はそっとメガネを持ち上げ、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
「妹さんは“キャラクター性人格障害”を発症しています」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み