1-2

文字数 6,087文字

 私の冀求に報いる云わば絶対的な美と邂逅したのは折しも中学二年生の夏休みの最中であった。多感を極めるにつれ性的なまでに瀟洒を望むようになった同級生の口上が機縁となって夏季休暇の開始間もなく訪れた服屋での正に邂逅と形容するに相応しい遭遇は、脳裏に今だありありと認めることが容易な体験である。苟も同級生に得恋を望むような生殖本能とも言うべき正常な男性的能力に欠如があって、伴ってお洒落という一種の浅ましさに目覚めなければ私は世俗であったかもしれないし、界隈で流行り始めた学生らしい七面倒に只の一人私が異を唱え、不調和を恐れずに慳貪で応じ、皮相でさえも親し気でない人間で生動していても世俗であったかもしれず、首を巡らせてみれば私が瑰麗と巡り合う半生には数多の妨害や径庭があったように感じられて、すると邂逅という言葉は身に沁みるようでさえあった。あるいは、服屋で過ごした三十分にも満たぬ時間で知悉した彼との身体的差異の苛烈であったり、彼が洋服を選び試着する至当な行為が時折陋劣な手段に見えたり、かてて加えて反芻される壮丁風の挙措が劣等感の下萌えを助長したりといった精神的苦痛が、半生で傾倒を余儀なくされる美を一入蠱惑的に彩った為に邂逅が身に沁みたのかもしれなかった。
 私が譬えん方ない美を知ったのは、店内を同級生の三歩程後ろを歩くようになった頃であった。美は道すがらの児童服売り場に冷艶さを宿して凝立していた。当時私はトルソーという言葉を知らぬ学生であったから、砌に澎湃した感情の正体も知らなければ私を席巻する理由というものも分明でなかった。ただ私は遮二無二耽溺し、目路の一方ならぬ美から眼を逸する事ができないでいた。思えばそれは初めての相似であったのであろう。故に私にも見詰めるという差異はあれど凝立が生じていたはずであった。しかしながら往時の私はそれを相似とは思っておらず、啻に私は現前のトルソーに最早傾倒していたのであった。
 トルソーの美は強かであった。一糸纏わぬ灰白色は艶冶が横溢し、建造的でありながら異性の馥郁すら身近そうな曲線は、いかにも人間的な肉体美を魅せていた。加えて発育の慎ましい胸部の輪郭はむしろ健康的であったし、繊弱な腰付きの繊美にも柔靭に引き締まる様は私に欲情の亢進で報いたのである。私には、女性的な柔和こそ感じられぬ質感であるその一つばかりの魁偉さでさえ却って婀娜を誇示するように思われたのだった。
 瑰麗からの教示を無意識に、それでいて実感したのもこの時であった。当座を以って私は瑰麗からあまりに出し抜けに示された錯覚――壮丁を迎えぬ確信の錯覚を実感したのに違いなかった。もしかすれば往時の錯覚は、学生生活に終了が無いと故知らず考えているような云わば青春に耽溺する一学生の颯爽さに似た錯覚であったのかもしれない。
 爾来錯覚は間断無かった。しかしながら壮丁を迎えぬという感情をややあってから再度確かめると、それはいつか青春ほどの澄明さは失していて、どこか倒錯的に変化していた。それは実のところ変化したのでは決して無いのだが、正直なところ私の考え次第でどうとでもなった。
 ともあれ、よしんばトルソーが何らかの手違いも無く洋服を纏って乙になっていたとすれば、私に機縁で応じることは無かったはずである。もしトルソーが洋服を着こなしていれば私は絶対的とも豪語できる美を未だ知らず、壮丁を迎えぬと思う事もなかったのであろう。するとトルソーが機縁になり得た現実は頗る幸福であって、しかるに性愛への悔恨と共に往時のトルソーを今も昔も嫉視するのであった。
 とはいえこの嫉視と言うものは決して後ろ暗い感情ではなく、むしろ前向きな、云わば恋慕の類であった。――そうではない、恋慕そのものであった。もっとも当時の私はこの嫉視を恋慕などという感情と結び付けることができぬ陋な存在であったので、今の私が代弁して恋慕であったと形容しているに過ぎない。しかしながら私はそれが往時から確かな恋慕であったと知っているのは、私しか知悉し得ぬ反証、それも当時の私が示した証跡――眼前にトルソーを認めた私は、有ろう事か可能を示していたからのことであった。生来の不能を思春期になって痛感しては劣等感へと飛躍させていた私が初めて可能であったのである。この反応は正しく恋慕であって、また、得恋への期待に踊る肉欲の亢進であった。
 私は人目を憚らず、ズボンを隆起させる魁偉勲しく佇立していた。すると憚らなかったとの表現ではなく、恍惚状態であったと表白した方が適切であろう往時は、頓に膨張する魁偉に羞恥心の類は一再認めなかったのも撞着は無いはずであった。むしろ人生で初めての極めて人間らしい応報に感激し、私の今となっては尊崇する対象との邂逅にいつか喪心していたと形容した方が受け入れやすかった。つまり私は可能を魅せた瑰麗に酩酊していたので、邂逅後の私の半生というものは一種の譫言であるのかもしれず――惜しむらくは譫言であり、故に私は壮丁へ猜疑的とも考えることができた。しかしながら所詮は倒錯者である私の思惟であることから、本を正せば私の思考こそが譫言の妄執に過ぎぬのかもしれない。
 いずれにせよ私は何かに急き立てられるように閑所へ向かわなければならないと信じた。その前に数秒だけトルソーを熟視し、影像としなければならないとも嗾けられた。そのくせ同輩に急遽帰宅するとの粗雑な嘘を言い残す程に余裕もあった。……私がトイレに馳駆したのはそれからであった。猛り立ちに微動する手で個室を施錠し、下半身をはだけると、私は誰からも教わった覚えのない、しかるに会得していた動作で自涜の快楽を得るに至ったのである。
 いつか自らの性癖を明け透けにした際に自涜について触れたのだが、そこでも表白したように私はこれが初めての自涜ではなかった。思春期であるばかりに暇さえあれば自涜に興じていたし、登校すれば教室で自慰行為への俗見が吹聴されていたり、あるいは異性の気を引きたくて自慰行為という話題を利していたり、その実昨夜や今朝に自涜に耽っていてもその事には皆触れなかったり、とかく思春期の男児には自涜という存在は身近な小楯のような物であって手に取ったり消費したりするのは至当でもあった。
 とはいえ同じ消費――つまり自涜に及んでも私は彼等のように可能の膨張を認めていたわけではなく、不断の不可能であった対象を自らの手で虐めていたに過ぎなかった。それも事務的に、これと言って性的な対象を脳裏に認めず、啻に黒紅を宛らの無心とも言える状態で遮二無二手を動かすのである。そこには性的興奮など皆無であって、しかるに白濁の迸りと共に確かな心地よさが脳の中央に向けて這うように昇るのだった。それでも私には瘧が落ちた瞬間に自らの不能である姿と格闘せねばならぬ義務があり、須臾にして男性的な失態の敗北が私に蕭々ばかりを集積させるのである。故にトルソーの裸体を目撃した砌の極めて男性的な正常さの趣は格別であった。
 その為に私は嫉視した。級友は一再ならずこのような状態で快楽を享受していたと知れば嫉視さえやむを得なかった。私の知らぬ、一種幸福にも似た快楽を既知していた彼等への嫉妬は、かの幸福を与り知らぬ私という欠落に劣等を増す一因をも担った事だろう。とはいえ往時は羨望の傍ら可能の伴った快楽に魅せられており、それどころか劣等感を増した感覚などは毫も抱いていなかったので、思えば嫉妬が劣等を増す端緒であったと今に確信するこの考えは一種附会なのかもしれなかった。
 事後の私の足取りは閑所を汚穢に染めた後ろ暗さからか、あるいは店内に存しているであろう級友を警戒してか、自ずから歩調は速まっていた。いや、実のところ今しの気持ちよさに見惚れて有頂天であったから足取りが弾んでいたというのが帰宅後に於いても快楽への恍惚状態が収まらなかった点に如実だった。もっとも恍惚は帰宅後暫くあってから脳裏に先程のトルソーと伴った体験を上映した際に報いた云わば後出しの快楽であり、決して店内から永続していた幸福ではないはずなのだが、私は帰宅後に出し抜けに亢進した肉欲に追従していたという往時の記憶を一再ならず擦過する内に恍惚状態の終息や開始が朧気で、ともすると洟も引っ掛けない問いであるように思いはじめていた。
 さるほどに私は自室で猛り立ったのだ。やはり軽躁する手で手近に塵紙を手繰り、せせこましく下半身を露呈させ、それから美を想い、しかるに可能を見せた局部は未だ不興気であった。今一度脳裏の美を信じて握りしめてもそれは変化を見せなかったが、既に私の手は特定の動作を不躾に反復するように嗾けられていた。稍あって快楽が幸福を魅せようとした頃に家族の生活する音が耳朶を打ちある種生木を裂かれると、痴態を見られたくない思いが焦りを昇らせ、伴って含羞し、やがて幸せを瓦解された少しばかりの苛立ちが私に居住まいを正させた。それでも今しの行為を未遂行にしておくことはどうしてもできなかったので、既に粘性のある体液の先走りに汚れた手で施錠してから感興を取り戻すべく眼を閉じて空想に耽ると、美の輪郭を描くたったそればかりで頽廃したと思っていた今しの喜びが即座に帰したのだった。忽ち私の不可能は徹して不可能であるのに可能を宛らに戦慄き、とこうするうちに私の手は先程よりも痛々しく反復動作をはじめ、あまりに逸楽なその仕打ちは決して幸福を衰えず久遠に愉悦を提供するのだろうと確信させた。昇る快楽に身を委ね酩酊状態に陥ると、一瞬の安堵に似通った爽快感の魅了が白濁を迸らせ塵紙を穢し、愉悦の衰亡を信じなかった私の快楽、また妄執は、精液と共に塵紙に収まった。出し抜けに私を支配した索然は、不愉快な塵紙と男性的な臭い、それから運動によって上昇した体温を厭わしい肉感として彩り、悔恨さえ見せた。店舗での行為と本質的には同じ『自涜』であったにも拘わらず、この時の事後は自涜を陋劣な行為であると感じさせたのだった。
 ……あれほど陋劣な行為に思われたのに私の自涜への傾倒は日増しに強まった。それも、以前までは習慣的に行為に及んでいた事務的な傾倒であったのに対して、この頃は夏休みの課題など集中を要する作業の齷齪の間隙を縫うように出し抜けに絶対的な美が脳裏にけざやかになることによって、憑き物でもしたように衝動に従う動物的な取り組み方であった。
 しかしながら肉体は毫も動物的ではなく去勢された肉体なのである。惜しむらくはそれは私の生来の人間的な欠落の所以であるけれども、連日脳裏に宿る美に慣れが訪れてしまったのだと糊塗することで往時の私は己の非を是認するように努め、可能を示さない己を甘んじて快楽を求める事を継続したのである。もっとも、可能を認めた際を宛らの感情の亢進は伴わない為に一隅では不興が報いるのは自明である。しかるに私が自慰行為を止めなかったのは、瑰麗が魅せる中毒、性が魅せる中毒に侵されていたからであった。あるいは啻にいつかの可能への期待を込めて刺激しているのかもしれなかった。
 とかくまれ私が再度の可能を確認するのは、夏休みも最終日から数えた方が早いような八月の中旬であった。暑熱の厳しさに唐突に訪れた寒風を宛らの至極は、譬えん方無い悦であった。
 往時私は、有ろう事か小学校のプールに赴いていた。いつか母親が人手不足を理由に懇願されたようで、その七面倒を私に押し付けたからのことである。
 プールは懐かしい一方、新鮮でもあった。腰洗い槽の塩素の強か潔癖なにおいは水遊びに嬉々とする数年前の姦しさを回視させ、あまりに清潔な真新しい更衣室のにおいは何も記憶を呼び起こさなかった。無論、小綺麗になっている箇所の発見は私の記憶に差異を示すので、その見慣れぬ清潔が私に新鮮さを認めさせたからの事であった。
 私がプールに一種郷愁していたあの時はきっと、数多の児童が水遊びを目指して訪れていたはずであった。漠とした言い草であるのは、今しの感情の起伏で記憶が定かでないという事実はもとい、可能を認めた記憶――ある妙麗が報いたが故に余人の遊戯は卑小であった為である。
 妙麗の登場はプールの開放から稍あった、二回目の休憩の最中だった。おしゃまな風姿で訪れた三人の女児に紛れていた一入の艶は、同性に紛れておきながら紅一点と形容してしまうまでに感覚的に映えていたのだ。例えば幼気な挙止、例えば軽薄才子な口元、例えば緩慢にうねる頭髪、それが肩で靡く手弱女――しかるに玲瓏な風采が異質であったのではなく、隧道の出入口に連想される暗澹に射る光芒を宛らであったものだから自ずと視線が誘導されるのであった。なまじ私は監視台という彼女等を見下ろすような位置にあったので、一抹の妨害無く瞳は彼女を追うに至った。
 休憩時間が終わると、始まった喧騒に体裁上の注意喚起を施してはいたものの私の心は既に彼女へ向いており、やがて見詰めていた。それどころか、彼女の腰付きに嘱目していたと言うべきであろう。しかしながら彼女等は皆授業で着用するスクール水着を纏っていたものだから、その中で彼女の腰付きに固着していたとなれば彼女を注視していたとの表現で間違い無いのかもしれない。とかくまれ私は限りない絶対的な美の面影を彼女の腰部に認めていたのだが、それは彼女が水着姿であった事に如実であった。
 なぜといえ、人工的な質感の決して人間的ではないどぎつい紺青が彼女の幼弱な身躯に沿うことでけざやかになる腰部の曲線を物質的にしてみせたのだ。端座する蛙の背にも似た婀娜な皺ばみさえ脇腹に添え、ましてや入水に濡った水着が未熟な身体に張り付いて肉感を帯びた事で一層物質を連想させた。それは人間的な扇情ではなく造形美が魅せるような芸術的な蠱惑であった。
 私は眼を逸することは叶わなかった。とはいえ露骨な凝視は彼女に嫌悪されてしまう気がしたので、あくまで瞥見のように、そして故意に見詰めない様の却って不自然な流し目で熟視した。それ故に矯めつ眇めつの叶わなかった悔恨が私を記憶の保存に嗾け、目交いの妙麗を忘却しないようにと彼女と水着の誘引を脳裏に書き留めた。それが功を奏したので私は一再ならず記憶の擦過が出来ているのだが、傍目には奇矯なこの行為は既に往時の記憶もとい映像に実に写実的な質感を含有させるに至った。それは彼女の腰部を目路に湛え、特徴的であり一種の馥郁でさえある塩素までもを再現し、遊ぶ小学生の肉感を連想させる卑猥なまでの水飛沫も聞こえてくるような、とかく瞳を瞞着し鼻腔を錯覚させ耳朶を打つ程に空虚を精緻で報いる事が可能であった。
 彼女の腰付きなのか、あるいは水着に整えられた腰部が連想をもたらして脳裏に絶対的な美である彼のトルソーを認めたからなのか、惜しむらくは当時には分明でない事柄であるけれども、とかく私は彼女に対して、彼女を見詰めているばかりで可能を示していたのである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み