【ヒューマン】第6地区

文字数 2,964文字

私の住んでいるこの第6地区は、まるでここだけが世界の終わりかのようだった。


第1地区から第9地区まであるこの町は、幸福の町と呼ばれている。
ただ第6地区だけは、様子が違った。
昔は、この地区にも桜が咲き、小川が流れていたというが、今はその面影はなく、ガラクタのような工場が黒い煙を垂れ流し、空は一面、重たそうな灰色に覆われている。

昔、この地区を襲ったのは正体不明の疫病と、災害だった。そしてもうひとつ、この地区をおかしくしたのは「記憶屋」という、謎の商店だった。
長い間、人々は貧困に苦しんでいた。
そんなある日、道にチラシがばら撒かれ、そこには「貴方の記憶、買い取ります」と、書かれていた。
人間の記憶をお金に変えてくれる店だという。

初めは誰も信じていなかったが、1人、また1人と足を運び、評判はすぐに広まった。それからというもの、この地区の人々は記憶を売って生活するようになった。

記憶は、幸せな記憶ほど高価で売れ、悲しい記憶は1週間の食事代にもならなかった。それでも人々は記憶を売って、わずかなお金を握りしめ生きていた。
記憶を売れば売るほど、それに伴い感情も薄れていくという。記憶を全て売り、感情を失った者たちの中には、快楽を求め、違法な薬に手を出す者もいた。

今では、警備隊だけで管理しきれず、ほぼ、無法状態の地区となってしまった。そのため、第6地区はその他の地区と完全に隔離され、境界の出入り口には警備隊が立っている。


「おじさん、わたし、おつかいをたのまれたの」

「お〜お嬢ちゃん。許可証は持っているかい?」

「はい、これです」

「いつもご苦労さん、気をつけてね」

幼い私は、警備隊の人からサインを受け取り、バスに乗って、となり地区へ向かった。


私の母は足が悪く、働くことができなかった。
そのため、別の地区への買い物は私が行くことが多かった。生活に困ったことはなかったので、昔なぜなのか聞いたところ、離婚した父親からの援助金だと言っていた。 

幼い時の記憶はおぼろげだが、母は、私がこの世界について理解しだした時にはすでに、私に関心がなかった。

キッチンで一緒に料理をしたこともなければ、2人で洗濯をしたり、絆創膏を貼ってもらったり、お絵描きをしたり、絵本を読んでもらったこともない。
抱きしめたり、手を繋いでもらったこともない。
ただ、毎日、決まった挨拶と少しの話をするだけだった。話が終わり、寝室へと向かう母の後ろ姿をいつも見つめていた。ひとつに束ねた黒い髪に、最近は白い髪が混ざっている。

私は、生まれてから今まで、母に愛されていると思ったことはない。1人で買い物に行けないから、しょうがなく私をずっとそばに置いているのだと、今でもそう思っている。



外は春霞が棚びいているのか、ただ空気が澱んでいるだけなのか分からない。私は、16歳になった。
この地区の条例では、16歳になった者は、審査を受け、合格すれば別の地区への移住が許される。
私が「審査に行ってくる」と家を出た日、あの日、母は玄関から私を見つめていた。


「あおちゃん、バスまでまだ時間あるけど、随分早く行くのね」

「うん、ちょっと寄るところがあって」

「お母さん、寂しがってたでしょ」

「分からない。でもいいの」

「ちゃんと話してないの?」

「話したよ。今日出ていくことも言ったけど、特に反応なかったし。いいのいいの。あの人、私がいなくなっても気にしないから」

「あおちゃん、、、、」

「るい、元気で。いつか絶対また会えるから、お別れじゃないよ」

1週間前、合格通知を受け取った私は、今日この地区を去る。

「じゃあね」

両手に手提げ鞄を持ち、リュックを背負った私が向かったのは、バス停ではなく、商店街だった。
私は、全てを忘れるため、母との記憶を売ることにした。

記憶屋の場所は、昔るいに教えてもらったことがある。中央商店街に入り、パスタ屋と酒屋の間の細い路地を進むと、"記憶屋はこちらへ"と紙が貼られた緋色の扉を見つけた。

扉を開けると、すぐに階段があったので、私は手荷物を床に置き、錆びついた階段を慎重に登った。


「いらっしゃいませ」

「わっ!びっくりした、、、」

2階に着き、薄暗い闇の中から出てきたのは、白髭を蓄えた老人だった。

「これはこれは、驚かすつもりはなかったのですが、失礼しました。私はここの店主です。今日は、記憶を売りに?」

「はい。母親との記憶を全て売りにきました」

「それはそれは、随分と大金が必要なようで」

「いえ、きっと幸せな記憶はないので、そんなに高価にはならないかと」

「そうですか。それではこちらに」

記憶を消すのに、時間はかからなかった。
椅子に座り、ヘルメットのような鉄の装置を被り、少し眠りについたかと思うと、目覚めた時には母親との記憶はなかった。

「いかがですか。何か思い出すことはありますか」

「いえ、何も。私にも、母親がいたんですか」

「うまくいったようですね。それではこちら、買取分お渡しいたします」

私は、何枚かのコインが入った袋を受け取った。

「ありがとうございました。それで、、」

「あ、そうだ。お嬢さん、今特別キャンペーンで、お客さんから買い取った記憶をお配りしているんですよ」

老人はそう言うと、ひとつのカプセルを見せてきた。

「これって、いわゆる違法の薬なんじゃ」

「いえ、これはそこまでのものじゃないですよ。これには、ある方のいろんな記憶が混ざっております。とは言っても、安全な記憶ですのでご安心ください。中毒性はないので、他人の記憶に浸れるだけです。荷物を拝見するに、どこか旅行にでも行かれるようで。旅のお供に、いかがですか」

このカプセルを飲むと、他の人の記憶を見ることができると言う。私が目指す第2地区までは、ここからバスで2時間ほどかかる。長い道のりの暇つぶしにでもするかと、私はそのカプセルを受け取った。


ベンチに腰掛け、バスが来るのを待つ。
第2地区は、とても空気がきれいなのと、食べ物が美味しいことで有名だ。春には、あちらこちらに桜が現れ、桃色の絨毯ができあがるという。
もうすぐバスが来て、多分私は、もうここへ戻ってくることはない。
生ぬるい灰色の風が私の頬を撫でたその瞬間、ほんの小さな寂しさが生まれた気がした。


「バイバイ」


私はそう呟き、253と書かれた第2地区行きのバスに乗り込んだ。

バスから見える景色はしばらく変わらなかった。
退屈になった私は、老人からもらったカプセルを水で流し込んだ。
5分ほどすると、頭の中がじんわりと温かくなりフワフワすると同時に、持ち主の記憶らしき風景が散文的に浮かんできた。


黒い髪をひとつに束ねた女性が、生まれたばかりの赤ちゃんを抱きながら、幸せそうに微笑んでいた。

その瞬間、家は大きく揺れ、倒れた女性の下半身には食器棚が乗っている。女性は、自分の体の下にいる小さな女の子を"よかった"と強く抱きしめている。

そしてその女性は、大きくなった女の子がどこかへ向かう背中に「行っておいで」と静かにそう呟き、その頬には一筋の光が流れていた。

これが誰の記憶かは分からないけれど、心の真ん中が毛布で包まれたように温かく、春の風と相まって、少し眠たくなってきた。

きっとこの記憶の持ち主は、この子と生きてとても幸せだったのだろうと、そう思いながらバスに揺られ、私は目を瞑った。











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