第7話
文字数 2,413文字
あてもなく彼女と歩く。彼女は僕の一歩先を歩いていた。まるで僕のことなど、気にも留めないかのように。その背中は、はるか遠く、小さく見えるようでありながら、しかし何故か大きくも見えた。
僕らの間に会話はなかった。先程の僕の失態と彼女の見せた表情。会話がないのも致し方ないことかもしれない。
歌舞伎町と新大久保の狭間に位置する大きな公園に入った。彼女はベンチに積もった雪を払い落し、そこに座った。
「どうするの?」
僕は無理をすれば歩いて帰れない距離ではない。しかし彼女はそうもいかない。何かしらの交通機関が必要だ。けれど電車は止まり、タクシーも金銭的に難しい。とはいえ雪が晴れるまでここにいることなんてできるはずがないだろう。
「そうね……」
彼女は少し俯いた。流水のような黒い髪が、肩から流れ落ちる。
「少なくとも、あなたはここで帰っていいわよ」
彼女はやはり僕を見ることなく、ぶっきらぼうにそう言った。
「いやいや、そんなことできないよ」
「でもあなたは帰れるでしょう?」
「そうだけどさ」
「じゃあそうすればいいじゃない」
「だからそうはいかないって」
いくら僕らの関係が終わったとはいえ、ここで彼女を一人にすることなんてできない。そんな見捨てるような真似したくない。
「強情ね」
「そっちだって」
会話が次第に熱を帯びてくる。怒っているわけではないが、しかし下手に食い下がるようなこともできない。そうして会話が続けば続くほど、僕はより意固地になっていった。当初の目的も忘れ、ここに残ることが目的となった。そしてその時には、確かにここにいない方が良いくらい、僕らの会話は荒々しいものになった。
堂々巡りが続く中、彼女は一つ、大きなため息をついた。そうしてまた、僕を見た。
「分からないの?私はもう、あなたにいてほしくなっていってるの」
「……!」
なんだよ、なんなんだよそれ。
僕にここにいてほしくないって。
確かにそれはそうなのかもしれない。事実、僕らはもう付き合っていないのだから。
でも、そんなのってあんまりじゃないか。
「……」
けれど、彼女にそんなことを言われたのでは、僕がもうここにいる意味はなくなってしまった。
「分かったよ」
吐き捨てるように、僕はその場を立ち去った。
けれど、本当にこんな終わり方でいいのだろうか。このまま彼女を見捨てて、帰ってしまっていいのだろうか。この関係の終わりが、せめて美しいものであってほしい、とは思わない。思わないが、しかしこんなやるせない、行き場のないフラストレーションだけが残る終わり方、それが本当に正しいのだろうか。僕には、間違っているとしか思えない。
公園を出て、ふとベンチに座る彼女を見た。彼女は、震えていた。それもそうだろう。傘もなく、雪に晒され、寒さから逃げる手段もない。けれど、その震えは、寒さだけの所為じゃないはずだ。
「……」
僕はこぶしを握り締めた。皮膚に爪が食い込んで少し痛い。
なんなんだよ。なんなんだよ……。
僕はゆっくりと、彼女のいる公園に戻った。一歩一歩、雪を踏みしめる。足の痛みは、もうどうでもよかった。
物音に気付いた彼女が僕の方を見た。その瞳は、揺れていた。
やっぱり。
やっぱりそうじゃないか。
「何しに来たの?」
彼女は慌てて目元を拭った。その一挙手一投足が、僕には何故か痛々しく思えた。思えば、今日の彼女は普通じゃなかった。いくら僕のことが嫌いでも、まるで避けるように、僕と目を合わせなかった。その言動には、まるで僕の存在を少しでも小さいものにしようとする意味が込められているように思える。
でも、それは僕も悪いのだろう。僕だって、今日という日を、この関係の清算のための一日だと思ってきた。けれど彼女目にした途端どうだ。僕はまるで、本音を言えなかった。本音を言い合おうと思っていたのに。何も、言えなかった。
だから僕は……。
だから僕ら、やっぱり間違ってるんだ。
僕は何も言わずに、彼女に向かって丸めた雪を投げつけた。
「フボッ」
土のついた汚い雪の塊は、彼女の顔面を直撃した。彼女は、今まで聞いたことがない間抜けな声を発しながら、その場でバランスを崩した。
「何すんのよ!」
雪を振り払い、彼女が叫ぶ。その顔は真っ赤だった。
「少しは元気出た?」
「バカなこと言ってるんじゃないわ……」
すかさず、もう一度雪を投げた。
「ニョ」
雪が直撃した彼女は、やはり間抜けな声を上げた。それがおかしくて、僕は思わず腹を抱えて笑ってしまった。こんな彼女の姿、初めて見た。彼女に一発泡を吹かせてやったという優越感も束の間、僕の肩に重々し痛みが走った。
それは雪だった。
「やったわね」
彼女は両手に雪を抱え、僕に投げつけてきた。防戦一方になる前に、僕も新しく雪を丸め、応戦した。
僕らの威信をかけた世紀の雪合戦は、この後、しばらく続いた。
手がかじかみ、最早感覚もなくなり始めたころ、おもむろにこの戦いは終わった。
「ストップ。死ぬ死ぬ」
疲れ果てた僕は地面に座り込んだ。彼女も彼女で、肩で息をしながら、ゆっくりとベンチに座った。
「どう?」
髪やコートの乱れた彼女。しかし、悪い表情をしているようには見えなかった。
「どうって、最悪よ」
吐き捨てるような言葉。しかし、その声音は、確実にさっきと違っていた。
「僕さ」
「何よ」
「もうちょっと頑張ってみるよ」
「……」
彼女は僕から顔を隠した。僕に体力が残っていればその顔を覗き込みに行ったのだが、まあ、今日はいいだろう。
僕はふと空を見上げた。すると、雲の隙間から、月が輝いていた。そろそろ、雪が晴れる。
「さよならだね」
今日一日、言えずにいたその一言は、案外すんなり喉を通った。
やっと僕は、今更になって僕は、彼女と向き合うことが出来たのだ。
彼女は僕を見た。真っ直ぐに。
「さよなら」
僕らの間に会話はなかった。先程の僕の失態と彼女の見せた表情。会話がないのも致し方ないことかもしれない。
歌舞伎町と新大久保の狭間に位置する大きな公園に入った。彼女はベンチに積もった雪を払い落し、そこに座った。
「どうするの?」
僕は無理をすれば歩いて帰れない距離ではない。しかし彼女はそうもいかない。何かしらの交通機関が必要だ。けれど電車は止まり、タクシーも金銭的に難しい。とはいえ雪が晴れるまでここにいることなんてできるはずがないだろう。
「そうね……」
彼女は少し俯いた。流水のような黒い髪が、肩から流れ落ちる。
「少なくとも、あなたはここで帰っていいわよ」
彼女はやはり僕を見ることなく、ぶっきらぼうにそう言った。
「いやいや、そんなことできないよ」
「でもあなたは帰れるでしょう?」
「そうだけどさ」
「じゃあそうすればいいじゃない」
「だからそうはいかないって」
いくら僕らの関係が終わったとはいえ、ここで彼女を一人にすることなんてできない。そんな見捨てるような真似したくない。
「強情ね」
「そっちだって」
会話が次第に熱を帯びてくる。怒っているわけではないが、しかし下手に食い下がるようなこともできない。そうして会話が続けば続くほど、僕はより意固地になっていった。当初の目的も忘れ、ここに残ることが目的となった。そしてその時には、確かにここにいない方が良いくらい、僕らの会話は荒々しいものになった。
堂々巡りが続く中、彼女は一つ、大きなため息をついた。そうしてまた、僕を見た。
「分からないの?私はもう、あなたにいてほしくなっていってるの」
「……!」
なんだよ、なんなんだよそれ。
僕にここにいてほしくないって。
確かにそれはそうなのかもしれない。事実、僕らはもう付き合っていないのだから。
でも、そんなのってあんまりじゃないか。
「……」
けれど、彼女にそんなことを言われたのでは、僕がもうここにいる意味はなくなってしまった。
「分かったよ」
吐き捨てるように、僕はその場を立ち去った。
けれど、本当にこんな終わり方でいいのだろうか。このまま彼女を見捨てて、帰ってしまっていいのだろうか。この関係の終わりが、せめて美しいものであってほしい、とは思わない。思わないが、しかしこんなやるせない、行き場のないフラストレーションだけが残る終わり方、それが本当に正しいのだろうか。僕には、間違っているとしか思えない。
公園を出て、ふとベンチに座る彼女を見た。彼女は、震えていた。それもそうだろう。傘もなく、雪に晒され、寒さから逃げる手段もない。けれど、その震えは、寒さだけの所為じゃないはずだ。
「……」
僕はこぶしを握り締めた。皮膚に爪が食い込んで少し痛い。
なんなんだよ。なんなんだよ……。
僕はゆっくりと、彼女のいる公園に戻った。一歩一歩、雪を踏みしめる。足の痛みは、もうどうでもよかった。
物音に気付いた彼女が僕の方を見た。その瞳は、揺れていた。
やっぱり。
やっぱりそうじゃないか。
「何しに来たの?」
彼女は慌てて目元を拭った。その一挙手一投足が、僕には何故か痛々しく思えた。思えば、今日の彼女は普通じゃなかった。いくら僕のことが嫌いでも、まるで避けるように、僕と目を合わせなかった。その言動には、まるで僕の存在を少しでも小さいものにしようとする意味が込められているように思える。
でも、それは僕も悪いのだろう。僕だって、今日という日を、この関係の清算のための一日だと思ってきた。けれど彼女目にした途端どうだ。僕はまるで、本音を言えなかった。本音を言い合おうと思っていたのに。何も、言えなかった。
だから僕は……。
だから僕ら、やっぱり間違ってるんだ。
僕は何も言わずに、彼女に向かって丸めた雪を投げつけた。
「フボッ」
土のついた汚い雪の塊は、彼女の顔面を直撃した。彼女は、今まで聞いたことがない間抜けな声を発しながら、その場でバランスを崩した。
「何すんのよ!」
雪を振り払い、彼女が叫ぶ。その顔は真っ赤だった。
「少しは元気出た?」
「バカなこと言ってるんじゃないわ……」
すかさず、もう一度雪を投げた。
「ニョ」
雪が直撃した彼女は、やはり間抜けな声を上げた。それがおかしくて、僕は思わず腹を抱えて笑ってしまった。こんな彼女の姿、初めて見た。彼女に一発泡を吹かせてやったという優越感も束の間、僕の肩に重々し痛みが走った。
それは雪だった。
「やったわね」
彼女は両手に雪を抱え、僕に投げつけてきた。防戦一方になる前に、僕も新しく雪を丸め、応戦した。
僕らの威信をかけた世紀の雪合戦は、この後、しばらく続いた。
手がかじかみ、最早感覚もなくなり始めたころ、おもむろにこの戦いは終わった。
「ストップ。死ぬ死ぬ」
疲れ果てた僕は地面に座り込んだ。彼女も彼女で、肩で息をしながら、ゆっくりとベンチに座った。
「どう?」
髪やコートの乱れた彼女。しかし、悪い表情をしているようには見えなかった。
「どうって、最悪よ」
吐き捨てるような言葉。しかし、その声音は、確実にさっきと違っていた。
「僕さ」
「何よ」
「もうちょっと頑張ってみるよ」
「……」
彼女は僕から顔を隠した。僕に体力が残っていればその顔を覗き込みに行ったのだが、まあ、今日はいいだろう。
僕はふと空を見上げた。すると、雲の隙間から、月が輝いていた。そろそろ、雪が晴れる。
「さよならだね」
今日一日、言えずにいたその一言は、案外すんなり喉を通った。
やっと僕は、今更になって僕は、彼女と向き合うことが出来たのだ。
彼女は僕を見た。真っ直ぐに。
「さよなら」