第9話 人魚姫の話

文字数 5,767文字

 放課後、中田さんと渡辺さんと一緒に水泳部に行った。すると、部長が「おいおい。困ったなぁ」と言いながら歩いて来た。
「あ、こんにちは」とみんなで挨拶をする。
「あぁ。この間の。どうかしたの?」
「えっと取材を…」と中田さんが聞いた。
「あー、今日はさ。コーチも来れないらしくて。もう一人の顧問を呼びに行くところなんだけど、あの人…水泳とか分かってないからなぁ。いつものメニューをこなしたら、今日はもう水遊びだよ」と笑った。
「コーチが来れなくなったんですか?」と私は思わず口をはさんでしまった。
「うん。なーんか急に来れないみたいで。なんだろ? 元気そうだったのに」
 私は失礼だと思ったけれど「高坂さんって方をご存じですか?」と聞いてみた。
「高坂さん…って…あの…亡くなった?」
 私たちは頷いた。
「…うん。あの人、まるで彗星みたいに現れて、綺麗な泳ぎで…。おれ、小学校の頃に大会でみたんだけど…本当に一部の隙もない泳ぎで…。なのに、この学校に来て、たしか突然、倒れて…病院で亡くなったんだよな」
「え?」と私は声が出てしまった。
「…そうなんだよ。生きてたら…学校にも来てくれてたかな。それとももっと手の届かない人になったのかな。なんて…。どうかしたの?」
「水泳部の幽霊の噂、高坂さんかもしれないですよ?」と渡辺さんが言った。
「…まさか」と部長はいぶかしんだ。
 その時、後ろから「部長ー」と誰かが呼びに来た。
「ん? どうした?」
「急に気分悪いって…」
「え? 熱中症か?」と言って慌てて戻っていった。
(怪我人が増える)と言った灯君の言葉を思い出した。
 私はふと、止めなければ、という気持ちで、その後をついていった。気分が悪いと言ったのは一人だけじゃなかった。三人ほどが日陰で寝かされている。
「おい、水」と言って、上から水を掛けられている。
 熱中症だろうか、と私は首を傾げた。確かに日差しはきついが、まだ五月だった。
「私、先生を呼んできます」とお節介かもしれないが、保健室に走った。

 保健室の先生と一緒にオーエスワンを運んで戻ってくる。中田さんと渡辺さんも保健室まで来てくれて、一緒に手伝ってくれる。
 意識はあるようだったから、よく分からないけれど、とりあえず状態は少し落ち着いたようだった。
「とりあえずこれ飲んで。歩けるようになったら保健室に来て、休んで」と保健の先生は言いながら、冷却パットを脇に挟んでいく。
「もう今日はコーチもいないし、部活中止」と部長は言った。
 私たちと部長は倒れた部員に付き添って、保健室まで移動した。
「もう大丈夫だと思うから帰っていいわよ」と先生に言われる。
 三人の顔を見ても生気が戻っている。
「よかった」と私は呟いた。
「…あのさ、ちょっといい?」と部長に言われて、保健室を出た。

 保健室から出て、廊下を水泳部の方に向かって歩く。まだ他の部活は活動していた。
「もしかして…高坂さんが部室の幽霊だとしてさ…。今日のことって高坂さんのせい? でもどうして今頃? だって九年前に亡くなってるんだよ」
「今の出来事が高坂さんのせいとは分かりませんけど…。川上コーチがいらしたのはいつからですか?」
「あー。今年の春から…。え? コーチが?」
 私たちは三人とも頷いた。
「ねぇ。君たち、新聞部の活動範囲を逸してない?」
 中田さんが私が担任にいじめられていたことを話した。
「苗字が…川上だから? …まさか。いや…まぁ。仲がいい気はしてたけど」
「川上さんの奥さんは知ってるんですか? 川上さんの奥さん、もとは高坂さんと恋人だったんですよ?」と中田さんが言う。
 何かを思い出したような顔ではっとして呟いた。
「それは知らなかったけど。…でも毎年、差し入れをしてくれる卒業生がいて…あの人も川上だったから」
 奥さんは毎年、この学校に来ていた。お花を供えるわけでもなく、後輩たちにジュースやアイスの差し入れをするという名目で来ていた。
「その日が高坂さんの命日じゃないですか」とふと思いついたことを言った。
「まさか。そう言えば、そろそろ来る時期だ」
「あの、川上コーチのお家の電話番号ご存じですか?」と中田さんが言う。
「知ってるけど、教えるわけにはいかないよ」
「いいんです。ちょっとお話したいだけなんで。教えてもらえないなら、呼び出して欲しいです」と渡辺さんも言う。
「はぁ?」と部長は声を上げた。
「お願いします」と私は切羽詰まって頭を下げた。
 三人がお願いするから、しぶしぶ承諾はしてくれたけれど、コーチの浮気のことはあくまでも推測であるから、口に出さないと約束させられた。
「で? 口実は?」
「忘れ物があるからって言ってください」というと深くため息をついて「やれやれ」と言った。

 すぐに連絡が出来て、奥さんは学校まで来てくれると言った。みんなで水泳部の部室の前で並んで待つことにした。
「忘れ物って何するんだよ」と部長が言う。
「…忘れ物…見えないけれど、あるんです」と私が言うと、首を横に振った。
 水泳部で待っていると、光君が走ってきた。
「コトちゃん、どこ行ってたの?」
「水泳部行ったり、保健室行ったり…」
「俺、学校中探して、そしたら理科の先生に捕まって、準備室の整理させられて…」と光君は言う。
「ごめんね。今日はいろいろあって…。連絡しとけばよかったね」
「あ、ううん。謝ることじゃないんだけど」と光君はもじもじしてくれる。
(可愛いなぁ)と思わず微笑んでしまった。
「あー、私も熱中症になりそう」と中田さんが横で大げさに手で仰ぎ始めた。
「確かに暑いなぁ」と渡辺さんも言う。
「え? 日陰だけど?」と光君は不思議そうに言った。
 そんな話をしていると、すらっとした綺麗な女性が歩いて来た。
「あ、やっぱり毎年、差し入れしてくれる人だ」と部長が呟く。
 眩しい笑顔と重なるが、年齢を重ねたせいか、今の生活のせいかイメージが全然違った。
「ご連絡ありがとうございます。忘れ物って? 今日は主人はこっちに来てないの?」
 部長の顔がやばいという顔になる。
「今日は部員が急に具合が悪くなって、部活中止になったんです」となぜか中田さんが曖昧な説明で応答した。
「そうなんだ」
「あの…高坂さんのこと覚えてますか?」と私は直接聞いてみた。
「高坂…さん。えぇ。どうかしたの?」
「もしまだここにいるとしたら?」
「え?」
「倒れたまま更衣室にいるとしたら?」と私は続けた。
 その言葉を笑うこともなく、彼女は駆けだした。ブール横にある男性更衣室だった。部長に言って、鍵を開けてもらっている。彼女は間違いなくその扉を開けた。
 更衣室の小さな窓から差し込む光が埃をきらきら映し出していた。
「…いるの?」
「はい。見えないけれど、います」
「…いたら…見えたら…良かったのに」と彼女はぼんやりと光を眺めている。
 仄暗い室内が少し揺れた気がした。塩素くさい水とコンクリートの湿った様な匂いさえ、彼女は愛していると言う表情だった。 

「あの日、担架で運ばれていく彼を見たのが最後だった。私は怖くてお葬式にも行けなかった」
 私たちはゆっくり話を聞きたくて、でも学校帰りにお店に寄り道したら怒られるということで、みんなで光君の家に行くことになった。光君の家に行くと、トラちゃんが驚いたような様子で二回ほど飛び上がった。
「可愛い」と渡辺さんと中田さんは撫でまくっていたが、トラちゃんは必死で耐えてる様子だった。
 水泳部の部長も私たちが浮気の話をしないか見張るという理由で着いてきた。光君がお茶をみんなの分を出してくれるから、手伝うと、また渡辺さんと中田さんに「もう結婚しちゃえ」と言われる。
(あんまりそう言う事言うと)と思って、光君を見ると、案の定、顔が赤くなっていた。
「もう、取り合えず話を聞かなきゃ」と私は言った。
 それでなんとか席について落ち着いて話を聞くことになった。
「だらんと伸びた手が見えて、私はもうダメだって…分かってたの。心臓マッサージしても…。戻ってこないって。だってその数分前に高坂君の声がしたから」
「え?」
「佐々木さんって。でもお互い更衣室にいるから、はっきりは聞こえなくて。でも他の人に聞こえたら恥ずかしいなぁって思いながら、慌てて、外に出たの。そしたら…一人男子が入ってすごい叫び声上げて、私も気になって覗こうとしたら、その人が『倒れてる』って言うから。高坂君が…壁にもたれてて。後は他の人が先生を呼んだり、心臓マッサージしたり、担架に乗せて、救急車に乗せたり。何だかよく覚えてないけど…」
「…その発見者って…どなたか覚えてますか?」
「それが…覚えてなくて」
 川上さんじゃないのかもしれない。でもそれを口にしていいのか分からず私は俯いた。
「高坂君ね。泳ぐのそんなに早くなかったの。でもすごく綺麗に泳ぐから…きっとこの人は早くなるなぁって思ったの」
「そういうの分かるんですか?」と部長が話に入ってきた。
「うん。なんかね。イルカみたいだったから。泳ぐことが当たり前で、無理してないの。無理しないからタイムも伸びないんだけど…」と懐かしそうに言う。
「そんな時期があったんですか…」と感慨深そうに部長が頷いた。
「でも泳ぐのが好きで、速さは全然競ってなくて、本当に自然体で、そう言うところに惹かれたんだけど…。ちょっと教えるだけで、ぐんぐんタイムを伸ばして」と彼女が言う。
 私の記憶が綺麗に蘇る。まるで人魚の影を追うように泳いでいたことを。青い底に白い光の模様が浮かぶプールの中を自在に泳ぐ美しい人を追いかけていた。
 水面に上がると、眩しい笑顔。
「高坂さんは…あなたのことを…人魚だって…。すごく綺麗な人魚だって思ってて…。それで」
 彼女の大きく開いた目から涙が零れた。
「…どうしてそれを」
「…見ました」
 私は繊細なことまで記憶にある。
「私を人魚って…言ってくれて」
「その影を追いかけてたって言ってました」
 彼女は涙が止まらなくなってしまった。
「どういうこと?」と中田さんが聞く。
 私は見た夢の話をした。その話をしていると、彼女が頷ぎながら、涙をハンカチで押さえている。
「そうなの。私が彼をハントしたの。もっと早く泳げるって。そしたらもっと楽しくなるって。でも…それが彼を…死に至らせてしまった…。もともと不整脈があるなんて知らなかった」
「お医者さんに通うほどだったんですか?」と光君が聞く。
 首を横に振った。
「でも検査には引っかかったみたい」
「不整脈は検査時に出ないと分からないからなぁ」と光君が呟いた。
「私が…私のせいで…彼は」と苦しそうに呟く。
「違います。そうじゃないです。あの。すごく幸せでした。一緒に泳げて。誰よりもあなたに喜んでもらえることが幸せで」と言いながら、なぜか私が涙がこらえきれなくなる。
 その時、トラちゃんがニャーンと泣きながら、私の膝に乗った。
「佐々木さんには感謝の気持ちしか…ないです。短い人生…会えて、良かった。充実した毎日を送れたのは佐々木さんのおかげだから。だから幸せになって…欲しかった…のに」
 がたっと音がして部長が立ち上がって、私の口を塞ごうとして、光君に手を取られていた。
 私は今、自分が何を話したのか全然分かっていない。
「川上のこと? 分かってる。浮気してるの…。でもそれも私のせいなの。高坂君を失って、私は本当に駄目になって、すぐそこにある優しさに縋ってしまって。でも…どこかで私は高坂君を想ってた。それが伝わったから。浮気されても…仕方がないの」
 それまで黙っていた渡辺さんが
「そんなことないです」と突然大声で言う。
「浮気なんて、どんな理由があっても許せません。した人が悪いんです。離婚して、恋愛すればいいんです」
「度正論だけど…」と部長が呟いた。
「そうね。離婚しなきゃね。彼を解放してあげようと思って。いつまでも私のお守りなんてできる人じゃないから」と淋しそうに言った。
 私の膝の上にいたトラちゃんが「にゃーん」と鳴くから立ち上がって、チュールの戸棚に行ってあげることにする。
 今日はそれで解散することになった。

 私もお暇しようと思ったら「灯に聞くことあるんじゃない?」と光君に言われた。
「あるかなぁ」と思いながら、とりあえず待つことにして、ママに電話する。
「光君の家にいるの? ちょっと心配してたのよ。うん。いいんだけどね。心配はしちゃうのよ。連絡してね。うん。いいよ。うん。じゃあ、またおかず持って行くからね。待ってて」と激甘なことを言ってくれた。
「ねぇ、ママってさぁ…。私に甘いんだけど、大丈夫かな? おかず持ってきてくれるって」
「ありがたいねぇ。でも俺だってコトちゃんに甘いけど?」
「うん。あ、そうだね。今日はごめんね」
「謝らなくていいけど。俺も連絡はして欲しい」
 確かにママと同じかもしれない、と思って頷いた。こんなにイケメンなのに、私なんかといつも思ってしまう。トラちゃんが足元に来たので、抱き上げると
「俺と恋人になってくれる?」と光君に聞かれた。
「恋人?」と思わず聞き返してしまう。
「うん。今までは仲良い延長線上で一緒にいたけど、さっきの話聞いて、寿命なんて分からないし。俺…一秒でも長くコトちゃんと一緒にいたいから。ほんと、早く結婚したい」
 私は思わずトラちゃんをぎゅっと抱きしめて、頷いてしまった。そのせいで顔を近づけた光君はトラちゃんから思い切りキックをされてしまった。
「大丈夫?」
「トラー」と言いながら、光君が蹲る。
 トラちゃんは私の腕からすり抜けて、どこかへ行ってしまった。喉の下あたりが少しひっかき傷になって血が出ている。
「どうしよう。消毒しなきゃ」
「舐めてたら治るけど…自分では難しいなぁ…」と光君が私を見るので「ばい菌入るよ」と言って、救急箱を出してもらう。
 消毒をして、ガーゼを貼っておく。
「折角恋人になったのに」と膨らむ頬にキスをした。
 途端に頬の膨らみがなくなって、顔が赤くなった。
「恋人になれて嬉しい」と言うと、さらに耳まで赤くなる。
 すくっと立ち上がって、ベランダに出て「ちょっと風に当たる。コトちゃんも来る?」と言った。
 恋人になるって今までと何か変わるんだろうか、と思うと、少し不安で、そして鼓動が早くなった。
 
 
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