主婦の場合

文字数 1,855文字

 住宅街とは、静かなものである。なぜなら頭と足が痛くなるほど立地や交通量を吟味し、ローンで繋ぎ止め、数十年かけて名実ともに我が家となる一軒家に、傷ひとつ付けないよう過ごす家の集まりだからだ。もっとも、ローンを完済した後も傷ひとつ付けない生活は変わらない。
 少なくとも、この主婦はそう思っているしそうやってこの住宅街で四十年ほど暮らしてきた。
 今朝はやけに静かで、昨夜の冷えから薄々勘づいていたが、やはり雪が降り積もっている。早めに起きてよかった。
 身支度を手早く済ませ、ハムとチーズでホットサンドイッチを作り、温かい紅茶と共に食べる。今日は雪の中を歩くのだから、精をつけねば。余った分は、昼の弁当に持って行こう。
 今日は図書館でボランティア活動をする予定だ。本にビニールカバーをつけたり、簡単な修繕をしたり、読み聞かせをしたり。けれどこんな天気だと子連れはあまり来ないから、読み聞かせはしないかもしれない。
 余ったサンドイッチを弁当箱に詰め、食器を洗い、部屋の掃除をするとあっという間に出かける時間が近づいてきた。帰ったらのんびりしたいから、できるだけ家事はしておきたい。
 ダウンを着てマフラーを巻いて、昨夜準備しておいたスノーブーツに足を突っ込む。これなら長靴と違って図書館内を歩き回る際も足首を痛めずに済むし、なにより暖かい。この世にファーとか裏起毛とかがあってよかった。
 玄関の姿見を確認すると、着膨れしている自分が映っている。防寒具は図書館内のコインロッカー(荷物を出す際に硬貨が戻ってくるタイプ)に預ければいいし、この格好で一日過ごすわけでもないから気にしなくていいだろう。
 さあ、支度はできた。後は雪の中、駅前の図書館まで滑らないように気をつけて歩けばいいだけだ。全然大したことのない距離なのに、雪が積もっただけでものすごくおっくうだ。
 主婦は観念して、玄関のドアを開けた。玄関を出ると、寂れた墓地が見える。雪に覆われ、さぞ墓石は冷たくなっているだろう。この家で数十年暮らしてきたが、何か供えられているのはほとんど見たことがない。墓参りで誰かが訪れているのは、もっと見たことがない。住宅街のどの家もその墓地には墓を置いていなかったし、主婦の夫が眠る墓も別の墓地にある。管理人は存在しているらしい。春になると、猫の集会所になる。
 今朝はもしかしたら凍った墓だらけかも、と思っていたのも束の間だった。
 玄関からは墓が凍っているか判別できなかったが、赤い何かがポツンとあるのは見えた。主婦はギョッとして、駆け足で墓地に入った。もしかして動物が血を流して倒れているのではと気が気でなかった。この寒さだと、もう手遅れかもしれない。
 しかし、墓石の前に近づくにつれて緊張は解けていった。生き物の死骸ではなく、赤い薔薇の花束だったからだ。それでも、不気味なものを見た時特有の悪寒は治っていなかった。
 なんでこんな大きな花束が。足元をよく見ると、主婦以外の足跡がうっすら残っていた。こいつか、この墓地にこんな大層な供え物を持ってきたのは。
 花束だけでなく、リボンでラッピングされた箱もあった。雪を払って確かめてみると、繊細な模様と飾りが施された小粒のチョコレートが入っている。花束といいチョコレートといい、ずいぶん金がかかった供え物だ。供え物と言うよりプレゼントだろう、これは。
 主婦はため息をつくと、踵を返して図書館までの道のりに戻った。あの墓地で供え物を見るのは何年ぶりだろう。それに、供え物があるのはあの墓ひとつだけで、他の墓に寄り添っているのは雪だけだ。眠っているのは赤の他人とはいえ、なんだかやるせなかった。
 主婦は図書館で近ごろ組んでいる特集を思い出していた。バレンタインシーズンだけあって、お菓子のレシピ本や恋愛にまつわる詩歌や小説などの書籍が紹介されている。手に取って読んだり、実際に借りていく利用者は多い。時節に沿っているし、一口に恋愛と言っても多種多様な関係性やストーリーが書籍ごとに描かれているのだから人気が出るのも当然だろう。そんな不特定多数が訪れる図書館よりも、主婦が暮らしてきた住宅街よりも、バレンタイン当日にたったひとつの墓だけに供え物がある墓地の方がひときわ静かだった。
 お供えみたいな、プレゼントみたいなチョコレートが荒らされていないか、帰りに寄って確かめてみよう。静けさなんて、油断しているとすぐ散ってしまうものだ。
 故人がチョコレートを実際には食べられないと、わかってはいる。
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