歯医者の患者の場合

文字数 811文字

 よりによってバレンタインに歯医者とは。
 バレンタイン当日といっても特別なことは何もしないが、それはそれとして記念日に歯医者が重なるのはむなしい。胸の中に空洞ができてみたいに、すうすうする。なぜせっかくの日に歯をゴリゴリされる必要がある。
 小さいころから通っている歯医者は、最寄から一つ離れた駅から歩いてすぐの住宅街にある。今日は雪のせいで電車がちんたらしていて予約時間に間に合うか不安だったけど、これなら大丈夫そうだ。
 侘しさ溢れる墓地を通り過ぎればもうそこだ。歯医者の近くに墓地があると心配になる人もいるだろうけど、安心してほしい。墓地といっても猫の額ほどの広さだし、侘しすぎて墓地を通り越した何かに見えるから。
 子どもの時は前を通る時に息を止めたけど、大人になって幾年の今は、心の中で己の口内に呪詛を唱えつつさっさと通りすぎれるようになった。
 けれど、今日は足を止めることになった。なんと薔薇の花束とチョコレートという、普通の墓地でも見たことのないお供え物が置かれてあったのだ。
 雪景色に突如現れた幻影でもなんでもなく、本物の薔薇とチョコレートだ。バレンタイン仕様にもほどがあるだろう。
 しばらくまじまじと見ていたが、このままだと歯医者に遅れてしまう。それに、どれだけ時間をかけて見ていても、様子が変わることはないだろう。所詮バレンタインでないと、誰もお供えしに来ない墓地なのだ。きっとお供えも今年だけで、来年からは見ることはないだろう。
 息を弾ませながら歯医者の出入り口に着いたころには、このお供えもののことは頭から抜けていた。歯医者に対する恐怖で、もはやそれどころではなかった。
 もっとも予想とは裏腹に、この墓にだけ花束とチョコが毎年バレンタインに供えられるようになる。しかし、この日から記念日を避けて歯医者の予約を取るようになるこの者にとって、一風変わったお供えに遭遇したのは後にも先にもこれっきりだった。
 

 
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