【2話】血を流す痛みがわからなければ、心の痛みもわからないだろう

文字数 12,383文字

 浮宙の果てを目指すのは、簡単であるが簡単ではない。方角は簡単にわかるけれど、単純にかなり距離があるのだ。
 果ては、北斗と呼ばれる星の連なりの真下にある。その位置は常に変わらないから、指標としては限りなくわかりやすい。北斗を追いかけて進めばいいだけだ。道に迷うことはまずない。
 ……はず、だった。

「おかしいなぁ……」
「どうかしたのか?」

 なにも知らないような顔をして、お兄さんが訊いた。既に結構歩いたけど息が上がっている様子はない。星を浴びながらの旅だから、常にエネルギーを天から頂いているのだろう。

「気づかない? この道、さっき通ったよ」
「え、本当に?」

 これは僕が野生であるせいなのだろうか。特に印を付けたりはしなかったけど、見た感じと匂いでわかる。同じ道に出てしまった。近道しようとして森に入ったのがいけなかった。

「参ったなぁ、北斗を追えば辿り着けると思ったのに」
「北斗?」
「あれだよ。知らない?七つ並ぶ明るい星。あれの真下を目指したいんだ。昔の文献だったから、今じゃ古い方法なのかな……」
「なぜ北斗を目指すんだ?」
「この浮宙で一等星って言ったら、北斗しかないよ。僕の目には星の明るさの違いが感じられないけど、いちばん明るいと言われているのは北斗のひとつだ」

 お兄さんは考え込むように黙っていて、やがて空を仰いだ。そこには満点の星が広がっている。お兄さんはある一点で視線を留めると、僕に合わせて少し屈んだ。

「あそこだ」
「なにが?」
「君たちの言う、北斗。本来はあの位置にある」
「え、どういうこと?」
「……わからないけど、そんな気がする」
「ふうん……じゃあ、あれを目指そう」

 僕がそう言うと、自分で言っておいて、彼はまるで驚いたような顔をした。

「信じるのか?」
「うん。あなたはそう思ったんでしょう?」
「そうだけど、いいの?」
「いいよ、何にしたって、僕の知識は役に立たないってわかったとこだし。何となくでも手がかりがあるなら着いていくよ」
「……ありがとう」
「なにそれ、なんのお礼?」

 再び歩き出して、しばらく二人してなにも話さなかった。まっすぐ歩いて、たまにお兄さんが方向を指し示して、その通りに歩く道を変えて。
 別に、楽しい話もおもしろいものも、あったわけじゃない。それなのに、僕にはずいぶん心地よく感じられた。
 お兄さんが顔を上げたとき、衣擦れの音に混ざって、別のなにかが聴こえた。咄嗟に耳を立てて、伸ばした手で横に立っていたお兄さんを庇うように前に出る。

「……静かに。何かいる」

 小声でお兄さんに忠告したけど、彼は特に動じた様子がない。戦闘慣れしているのかと思ったが、そうか、彼らは獣に襲われた程度では死なないのか。
 残念だけど、僕なら襲われれば普通に致命傷だ。音を立てずに弓を構えて、気配のする方へ向ける。
 ガサリ、という音。ピンと弓を張る。顔を出した。星獣だ、大きい────

「待て!」
「うっ、」

 どん、と肩を押されて、衝撃で地面に倒れる。受け身は取ったが、少し腕を擦った。

「あっ、バカ!」

 顔を上げる。星獣がお兄さんに飛びかかる。彼は少しも避けるような仕草を見せず、ただ淡々と、とても緩慢な仕草で、腕を、差し出した。
 ひゅ、と喉が鳴る。
 血が飛び散るであろうと思われたが、そんなことはない。血飛沫も、聞こえたっておかしくない彼の悲鳴も、なにも。
 辺りは静かなものだった。

「な、なにを、」

 絞り出した僕の声は掠れていた。それでも正確に聞き取ったらしい彼は、平然としたようすで僕を見下ろしていた。
 星獣がずるりと地面に崩れ落ちる。お兄さんの腕は、肘より下がすっかりなくなっていて、なにか水滴のようなものが、ポタポタとこぼれ落ちていた。あれは──────星水(せいすい)か。

「これはここら一帯で、最後の星獣だ。殺してはいけない。生態系が乱れる」

 唖然とする僕に、お兄さんは手を差し出した。小首を傾げた彼は、僕を心配、しているらしい。

「突き飛ばして悪かった。あいつの姿を見るまで、最後の個体だと気づけなかったんだ」
「いや、なんで最後のとかわかってっ、いやその前に腕!!」
「腕は平気だ。星を浴びていればそのうち生える」
「それはそれで気持ち悪い!!」
「度し難いな君は……」

 半ば腰を抜かした状態だった僕を、彼は残った腕で引っ張りあげる。ドンドンと鳴る心臓がうるさい。僕がよっぽど変な顔をしていたのか、彼はようやくバツの悪そうな顔で目を逸らした。

「悪かったよ、次からはもっと、穏やかに解決できるようにする」
「ほんとうに、頼むよ……」

 なるべく彼のちぎれた腕を見ないようにしながら、僕は再び倒れた星獣に視線を落とした。

「あれは? 殺してないんでしょ?」
「ああ、星宇人の身体は毒性があるんだ」
「………………早く言ってよ!!
「大丈夫だ、少し浴びた程度じゃ死なない。軽く痺れる程度だから」
「そういう話じゃないでしょうが!!

 毒がある、というのは、星宇人の体内に満ちる星水のことだろう。星生まれの彼らは僕らヒトとは違い、体内は血液の代わりに星水と呼ばれる液体で満たされている。あれは常に清らかに保たなくてはいけないらしく、彼らは常に星を浴びて、体内で清い星水を生成して生きている。彼らは段々と、星の光を浴びなくても体内で綺麗な星水を作れるようになるらしい。そうなったら、晴れて天の星へと昇華するのだ。
 それが星宇人以外には毒だと言うんだから恐ろしいものだ。致死量、というのがどのくらいなのかは知らないけど、彼が思っているより毒の力は強い気がする。現に星水を多く摂取したであろう星獣は昏倒してしまった。絶対痺れじゃ済んでない。
 そうか、と彼は首を傾げて、僕が取り落とした弓を拾い上げた。手渡してくれたそれを受け取って担ぎ直す。

「狩りの邪魔をして悪かった」
「いや、食事ならまだ翼馬があるから平気」
「それなら良かった」
「……痛くないの?」

 僕の視線を追って、彼は己の半端な腕を見る。少しだけ眉をひそめて彼は言った。

「痛い」
「痛いんだ……」
「かなりね」
「ほんとに?」
「なんで疑うんだ?」
「いや、僕ならきっと……立ち上がるどころか、悲鳴をあげることもできないくらいの傷だから」
「そうか。星宇人は丈夫だからな」
「程があるだろ……」

 また僕らは、何も言わないまま歩き出した。それでも、さすがに今まで通りとはいかない。
 ひとまず整理しよう。星宇人とは、主に月で生まれて約1000年を生きる人型の生物。生まれた瞬間から死ぬ瞬間が決定され、それは何があろうとも覆らない。星宇人は、他の何かに害されようと命を落とすに及ばない。そして彼らの身体には血液が流れておらず、代わりに星水に身体を満たされている。それは星宇人以外の生きものにとっては毒らしい。食事を必要とせず、代わりに星光を浴びることが必要。それが星宇人。
 ここからは星宇人全体ではなく、少なくともこのお兄さんのことだ。このひとはなぜか北斗の位置を感じることができて、これまたなぜだか、生態系の状況をなんらかの方法で把握している。
 このひとは、もしかして神かなにかなのか?

「センカ」

 突然名前を呼ばれて、僕は慌てて彼を見あげた。心の内でお兄さんの正体を訝しみはじめたときだったから、少しの後ろめたさが、僕の五感の邪魔をする。

「君はさ、本当にやりたいこととかないのか?」
「ああ、別に……ないよ。できるなら月に帰って母に会いたいけど、それは叶うことではないから」
「浮宙から月に行ったやつだっているじゃないか」
「それは一般人の、それも変人の話だろ? そもそも、元から浮宙にいる一般人だって少ないのに。その上僕は罪人だし、第一、月に行けたところで母が生きているかはわからない」

 早口でまくし立てると、お兄さんが黙ってしまった。暗い話にする気はなかったけど、結果的にそうなってしまって少し反省した。僕は、自分の罪を忘れたわけではないけれど、明日を考えられなくなるほどの後悔はしなくなったんだ。だって、もう500年も前のことだもの。
 もちろん僕だって、ここに来た頃は毎日を削るように生きていた。まだ子どもだったし、物事の整理もつかなかった。でも、一人で生きていたおかげで、狩りをしたり寝床をつくったり、生きるのを頑張らないといけなかった。だから慣れないうちは、そういう後悔を考えている暇すらなかったのだ。おかげで100年くらいたった頃にはずいぶんメンタルも落ち着いていた。
 何度か死ぬことも考えなくはなかったけど、生きているかもしれない母を思うと申し訳なかった。

「お兄さんはさ、死ねないことをどう思う?」
「……どう、とは?」

 僕は、なるべく僕の心の内が露見しないように、そして彼に対して失礼がないように、慎重に言葉を選んだ。これは彼だから聞いてみる価値のある話であって、その見解は僕が心の内をさらけ出せる理由ではない。

「死にたいとか、思ったことはない?自分の意思で死ねないことを、あなたはどう思ってるの?」

 お兄さんは、なにも言わなかった。見あげた彼の向こうに、きらりと星が光る。
 どん、と強く胸を叩かれたような、そんな心地がした。星空を仰ぎみた彼の横顔が、まるで絵画のように、誰かが腕によりをかけて作り上げた作品のように、美しかったものだから。彼と視線が交わって、やっと会話をしていたのだと思い出した。

「死にたいと思ったことはない。不満があるとすれば、自分で死を選べないことより、生を定められていることだな」
「……同じ意味ではないの?」
「全く違う。俺は死ねないのではなく、死ぬことが許されない。生きることができるのではなく、生きることしか許されないんだ。生き方から死に方まで、全部決まってる」

 お兄さんは、物事の裏と表の話をしているだけのように聞こえた。でもきっと、彼の中ではそうではないのだろう。世の中には生きることを許可されなければ生きていて良いのかわからないような人間もいるが、「生きなさい」という言葉を何より苦しく感じる人間もいる。

「お兄さんは、自分の生き方を知ってる?」
「うん。生まれた頃から知っていた」
「記憶があやふやなんじゃなかったの?」

 出会ってすぐの頃、彼は僕にそう言ったはずだ。名を覚えていない、記憶が朧気だから、僕に会うまで何をしていたかわからない、身分も証明できない、と。

「……嘘じゃない。ほんとうに、自分がなぜ浮宙にいるのかわからなかった」
「でも、あなたはあなたの身分を覚えている」

 違う?と聞くと、彼は静かに頷いた。

「忘れていたのは、本当だ。でも……思い出した」
「教えてくれないんだね」

 僕は、わざとつっけんどんに言った。別に教えるとか教えないとか、そういうのはどうでもよかったけれど、結構仲良くなったと思っていたから秘密にされるのは少し寂しかった。彼は僕にとって、初めて母以外に、たいせつだと言える存在になりかけていたから。
 別にいいよ、と言おうとして、僕は覚えず口をつぐんだ。彼が、何か覚悟の決まったような顔で、僕を見ていたから。

「きみには、教えられない」

 その一言は、僕をより苦しくさせるには充分だった。
 だって、それは、僕だから言えないということじゃないか。

「……どうして?」

 彼は、ずいぶん迷っていた。理由だけでも教えるか、教えまいか、教えるにしてもどう伝えるか、たくさん考えているのが見てわかった。でも、それがどんな理由であれ、僕にはこのひとを軽蔑することはないと思った。本気でそう思っていた。

「言ってしまえば、きっと、こうして一緒にはいられなくなる」
「ははっ、お兄さんは僕と一緒にいたいの?」
「いたいよ」

 からかうつもりで言ったことが、彼のせいでほんとうになった。それは、きっと、僕こそがほんとうに思っていることだった。もっと一緒にいたい。だから果てへの旅を提案したんだ。僕は今までひとりで生きてきた。僕を認めてくれたひとはもういなくて、二度と現れないと思っていた。だから嬉しかったんだ。僕は誰かといることでしか、生きていると思えなかった。そのことに、あなたと出会えて初めて気づけたから。
 できればもう、もう少しだけ、離れたくなかった。

「センカ、俺はね」

 お兄さんが僕を見ていた。彼は、笑っていなかった。

「きみを、月に返したいんだ」



 *



「千夜子さん、お昼食べたぁ?」

 間延びした、ほんのりと艶っぽさを帯びた声が、私の名を呼んだ。慌てて顔を上げて、戸口に立つ彼女を振り返る。

「いいえ、まだ」
「やぁね、お昼の時間でしょ? それはもう終わり」

 私は少し迷って、結局言われた通りに機織り機から手を離した。手招きする彼女に従って着いていき、すっかり馴染んだ食堂に足を運ぶ。

「千夜子さん、働き者で困るわ。ちょっとは手ぇ抜いてくれないと、ウチらが働いてないように見えんのよぉ?」

 すみません、と笑いながら返す。
 来たばかりの頃から言われ続けているし、昔はなんと返せばいいかわからなかったけれど、それがただの暇つぶしのジョークだとわかってからずいぶん楽になった。

「でもねぇ、働くなって言いたいところだけれど、あなたの織る布は心地いいのよね。いっとき身にまとってしまったら、他じゃ満足できないもの」
「恐縮です」

 住み込みの機織りの仕事を始めてから、もう500年ほど経つ。暮らせていくだけのお金を頂けるだけで、娯楽なんかには使えない。湯浴みができるのは多くて3日にいっぺんで、服だって自分で買ったことはない。ありがたいことに姐さん方に気に入って頂けて、たまに姐さんたちのあまり湯をもらえたり、お古の服をもらえたりする。お古と言っても、彼女たちは流行に敏感だから、少し流行りに遅れている程度で手放してしまう服が多い。とても綺麗な状態なので問題なく着ることができる。機織りを始める前よりも良い服だ。売ったら良い値がつくはずなのに、私にくださるのだからほんとうに愛されている。

「千夜子さんはいつまでここにいてくれるのぉ?」
「さあ、きっと死ぬまで」
「たいへんねぇ。息子さんがいるんでしょう?」

 息子、という単語を聞いて、私の気分がほんの少しだけ沈んだ。
 私には、あの子がまだ幼いうちに離れてしまった息子がいる。夫は早くに死んで、私1人で育てた愛しい子だった。元はと言えば、全部私のせいなのだ。夫が死んだのも、あの子と離れることになってしまったのも。

「会いたいけれど、いいんです。私があの子の傍にいたら、きっとあの子は不幸になる」
「……悲しいこと言うのねぇ」

 姐さんが、長いまつ毛を伏せた。憂いを含んだ眼差しがとても色っぽく、女の私ですらも見惚れてしまう。

「例え不幸になるとしても、家族っていうのは一緒にいたいと思うもんじゃないのかなぁ」
「…………そうだとしても、わたくしは母ですから。息子を不幸にすることはできません」
「難儀だねぇ」

 鼻にかかったような声で笑って、彼女は優しく私の手を握ってくれた。
 500年。あの子はちゃんと食べているだろうか。ちゃんと生きていられているだろうか。そう心配する度に思い出す。
 あの子は夫に似て賢い子だったから、きっと大丈夫だと。



 *



「……帰れないよ」

 僕から出たとは思えないくらい、低くて冷たい声だった。僕だって帰りたい。でも、どうして帰れないかは僕がいちばんわかっている。帰れないんだ、どうしても。
 僕の存在は、母を傷つける。

「俺は、きみを危険ではないと証明することができる。それは俺にしかできないことなんだ」

 彼が、また不思議なことを言った。きっと教えてくれない『秘密』に関係しているのだろう。もし、彼の『証明』に何か、特別な意味があるのだとしても。僕が多くの人にとっての危険分子ではないことは、僕が帰れないことと関係がない。僕が、僕である限り、僕の存在は母にとっての傷なのだ。

「僕は罪人だから帰れないんじゃない」

 お兄さんが、呼吸を詰める。絞り出したような、空っぽの空気のような声で、彼は言った。

「……なんで、きみは帰ろうとしないんだ?」

 500年。その期間は、僕の何かを奪っていった。成長しながら、僕があそこにいられなかった理由を、浮宙でなければならなかった理由を考えた。

「僕の母は、空人(からびと)だ」

 お兄さんは何も言わなかった。驚いた表情のまま、黙って僕を見つめていた。僕の見た目は間違いなく迷人だ。でも、中身は空人と迷人の混血種。
 空人というのは珍しい。どこから来たかもわからないのだから、空人だと知れれば誰もが興味を持つ。当人に記憶がなくても関係ない。どの種族の血が濃いのか、その細胞はどんな特徴を持つのか、そういうことを調べようとする。つまり、解体されるのだ。
 僕が殺しを犯したあの日、狙われたのは母ではなくて僕だった。空人と迷人の混血種なんて前例がない。僕と母を隠そうとして、迷人の父は殺された。母は僕を守ろうとして、星宇人の連中に殺されかけた。だから、僕は母の傍にいてはいけないのだ。僕のいる場所は常に危険だから。

「……じゃあ、なおのこと、俺はきみを返さないといけない」

 乾いた声で、お兄さんが言った。

「どうして」

 少し考えて、お兄さんは僕を見た。迷ったように視線をさ迷わせる。

「ここらで休憩にしないか」
「……いいよ、わかった」

 水場の近い乾いた地面を探してテントを立てた。今日はお兄さんも手伝ってくれた。火を起こして、まずは暖かいミルクを作る。といっても、翼馬の脂から作れる、ミルクに味のよく似た液体だ。本物のミルクも手に入りにくいわけじゃないけど、足が早いから滅多に持ち歩かない。

「俺、これ結構すきだ」
「美味しいよね。僕もすき」

 ホットミルクを味わいながら、食事の用意を進めていく。淡々と手を動かす僕を、お兄さんはじっと見ていた。
 僕は星宇人と違って、星光や陽光からエネルギーを得ることはできない。腹が減ればふつうに食事を摂るし、夜は寝る。そういう僕を気遣ったのもあるんだろうけど、お兄さんが休憩を提案したいちばんの理由は、きっと言葉をまとめるためだろう。
 さあ、なるべく耳障りの良い言葉にしてくれよ。僕は、あんたとは仲違いしたくないんだからね。

「空人というのは、生まれも家族もわからない者たちの総称だ」
「うん」

 スプーンを手に、彼は静かに言った。僕はなんでもないように翼馬のスープを啜っていたけど、耳だけはしっかりと彼に向けていた。

「一説によると、空人は元地上の人間だとされているんだ」
「……地上? 地上って、あの?」
「そう。あの、地上。稀に、地上の人間が月に昇ることがあると聞いた。地上人は短命だから、月に昇れるほどの徳を積むには何世代もかかるはずだ。だから、地上から来た人間はとても尊いとされている。けれど地上の情報を月に持ち込むことはできないから、彼らはどこからきたのか、自分が誰なのかを覚えていない」
「それが、空人……?」
「あくまで一説だけどね。信ぴょう性はあると思うよ、空人には変に親切だったり、物知りだったり、穏やかな人間が多い。俺たち星宇人よりも人間慣れしてる」

 地上人は短命種で、個々で生きていく力が弱いことから、よく集団で行動する。そのためか、コミュニケーション能力に長けた者や、自分のすべきこと、できることを正確に把握している人間が多いらしい。残念ながら僕は文献でしか見たことはないけれど。

「……それが、僕の母」
「たぶんな。知っての通り、星宇人は交配をしない。きみの母上が迷人ではないのなら、そして空人であるなら、徳を積んで昇ってきた地上人だと考えるのはごく自然なことだよ」

 彼は一度匙をおいて、真面目な顔でまっすぐに僕を見た。目を合わせると吸い込まれそうになる、あの銀河の瞳で。

「だから、俺はきみを、何としてでも月に返さないといけない。空人の亜子を奪ったなんて、お上が聞いたら震え上がる」
「……どうして?」
「北斗でいちばん偉いお方の友人に、空人がいたんだ。そのせいなのか、そのお方は空人への尊敬とか、信仰とか、そういうものが人一倍強い。いくらきみが罪を犯したって、そんなことは問題にならないはずだ。それにきみが殺しをしないといけなかったのだって────」

 言いかけて、彼は突然口を噤んだ。瞳孔が大きく揺れている。大きな手で口を覆って、視線を僕から外した。

「……すまない、忘れてくれ」
「ちょっと待って」

 忘れられるものか。今、言いかけたことは、まるで僕が殺しをしないといけなかった理由が星宇人のお偉方にあるかのような、僕の罪はそいつらのせいと言ってもいいような、そういう流れだった。
 僕と母を襲ったのは星宇人だった。僕が殺した。星の運命にしか侵されないはずの星宇人を、僕はなぜか


 ────もし、それが、僕が銀河の異分子であることが理由なら。地上人の血が流れていることが理由なら。なんで殺さず追放したのか?僕が星宇人を殺せたと広まるのは、星宇人が母────空人を襲ったことが広まるのと同じことだ。でも、口封じのためでも、彼らは僕を殺すわけにはいなかった。それは、空人の子どもだからだ。尊い血を継ぐ者だから。だから僕は殺されず、あの事件を無かったことにするために追放された。母と引き離された。
 この推測が、ほんとうのことだったとしたら。

「…………教えて」

 お兄さんが、息を呑んだ。その目は、僕がこれから問うことに、覚悟を決めたような目だった。

「あなたは、何?」

 呼吸をおいて、彼はゆっくりと空を指さした。その先には、僕には見えない、きっと北斗があるのだろうと、なんとなく思った。

「俺は、二番目の北斗だ」



 *



 姉、兄、妹、弟と呼び合いはするが、俺たちに性別はなく、また血縁もない。ただどう呼ばれるのが良いかで性別を決めるし、序列の意味合いで兄弟というかたちで生きている。
 俺は二番目、メラクを背負って生まれた天流人である。
 厳密に言えば、生まれたという言い回しは正しくない。より正確に言うならば、生まれ変わったと表現するべきだ。
 俺たち「次代の北斗」と、今空に輝いている「現代の北斗」は本質的には同じもの。「次代の北斗」は、「現代の北斗」の分身と言える。
 数千年に一度、北斗を引き継ぐ者が生まれる。俺たちは生まれた瞬間から己が次の北斗だと理解している。今の北斗が尽きたとき、入れ替わりで俺たちは死ぬ。そしてそのまま天に昇り北斗となる。俺たちは生まれたときから、自分がいつ死ぬのか知っていて、死ぬまでにどのように生きて、死んでからどのように在るかを定められているのだ。
 北斗は天から、銀河を見通す力を持つ。罪を犯したものはないか、異常気象のせいで家をなくしたものはないか、生態系が乱れている場所はないか。その北斗の権能を分け与えられた俺たちは、天から見守る北斗の代わりに星に降りて、乱れた場所を元に戻すという役割がある。星とは、ただ見守るだけではないのだ。いわば、北斗は『星を統治する星』と言える。
 俺は、数千年前までは月にいた。月で兄弟たちと、ふつうに自分の仕事をしていた。俺が浮宙に来たのは、月でとある禁忌を犯したからだ。
 星宇人は、命を星の運命以外に侵されない。それは揺るがないこの世界のルールである。しかし、そのルールには決定的な穴があった。俺たち天流人と、星宇人の違い。まるで同じもののように扱われることも多いが、俺たちふたつの種族は全く違う。在り方は同じだが、成り立ちが違うのだ。星宇人は、ひとつひとつが個々の星である。個々で星として成り立つ力を持ち、それらは個々の力で己の生涯を全うすることができる。ただし、天流人はそうではない。
 天流人というのは、北斗という七つの星の眷属である。俺は『次代の二番目の北斗』だが、『次代の二番目の北斗』は俺だけではない。俺の他に300ほどいる。みんなまとめて『二番目の北斗』になのだ。俺はそのリーダー格というだけで、二番目の北斗は俺ひとりではない。
 それが、天流人がある一点において、ひどく脆い理由である。天流人は己で生き抜く器がない。術はあるが、器がない。故に、『現代の北斗』に逐一エネルギーをいただいて生き延びている。それは北斗が多くの眷属を抱えているためだ。元を辿ればひとつの個体なのに、それを数多く分散させて働かせているのだから、ひとつひとつは脆いはずだ。ただし脆いと言っても、曲がりなりにも北斗の者。そこらの生き物が、俺たちの死に干渉できることはまずない。
 できるとすれば、同じ権能を持つ天流人。
 天流人は、互いに互いを殺せるし、天流人である俺は、天流人である己を殺せる。
 俺が犯した禁忌とは、自害である。
 死とは救いであると、俺の大切なひとが言った。その神経が、俺には理解できなかった。死ぬ当人にとっては救いであるとしても、遺されたほうの身になってみれば、大切なひとが死んだときに、ああ救われたんだ!なんて思うことができるとは思えない。実際俺はできなかった。
 愛っていうのは、そうじゃないだろ。あのひとが死を望んでいたんだから、そうなれたことは祝福であって、喜ばしいことだなんて、思えるわけがない。彼女の願望全てを肯定するのが『愛』だと言うのなら、俺のこれは愛じゃない。愛じゃなくていい。そんな綺麗な名前が付かなくていいから、俺はただ、あのひとと色々なものが見たかった。色々なものを見せたかった。
 何百分の一でしかない二等星が、一等星に恋をした。
 ただ、それだけの話なのである。
 彼女だって何百分の一の一等星だけれど、俺にとっては唯一だ。唯一だった。俺にとっては彼女の死なんて、何が起きても救いになんてなるわけがないのに。


 ────「わたしたちはね、死んだらあれになるのよ」


 そう笑った彼女がどうにも、どうにも綺麗だったから。だから俺は彼女の全てを否定することはできない。死は悲しいものだと、永遠の喪失なのだと、彼女に訴えることができなかった。彼女の持つ美しさも、清らかさもほんとうだった。本当だったから。本当だったのに。

「お兄さん、そんな顔もするんだね」

 不意に、迷人の少年が言った。そう言われて初めて、俺は己がどんな顔をしているのかを意識した。それでも、彼の言う「そんな顔」がわからなかったから、俺はただ呆然と少年を見つめるしかなかった。



 ✣



「つまり、何が言いたいの?」

 僕は、ほんとうはもう、お兄さんが何を言おうとしているのかわかっていた。わかっていたけど、僕の予想を裏切ってほしかった。違うと言ってほしかった。激しく揺れる情動とは裏腹に、僕の中身はどこまでも、残酷なまでに冷えきっていくのを今なお感じているから。

「……500年前、俺の眷属が予定外の死を迎えた。……眷属どうしは、わかるんだ。同じ身体を持つ他何百の生き死にが」
「そう。とても便利だね」

 僕の返答を訊いて、彼は顔色を悪くした。片方しかない彼の手が、自身の顔を覆い隠す。
 逸らしたってダメだよ。

「……きみの母上を襲ったのは、天流人だ」

 お兄さんは俯いた。俯くなら、話さなければよかったのに。
 そうしたら僕だって、こんな話、知らなくて済んだのに。
 黙っていてくれたら僕は、あなたに、こんな気持ちを抱かずに済んだのに。

「……ここに来て500年、僕は摩耗されて生きてきた。その間にたくさんの感情を遠く感じるようになったんだよ。……でも、遠いだけで、失ったわけじゃなかったんだ。あなたのおかげで思い出した」

 覚えず、声が震えていた。彼を見る。もう、目は逸らさない。

「どっちなの」

 彼は答えなかった。質問の意図が伝わらなかったのかもしれない。

「母を襲ったことを謝りに来たの? それとも、仲間を殺した僕を糾弾しに来たの」

 彼の瞳の小宇宙が、大きく揺れた。それは紛れもなく動揺ととれた。それでも、僕の気持ちも、言葉も止まらなかった。

「どっちかって、聞いてるんだ」

 喘ぐような息を漏らして、彼はやっと重い口を開いた。また、目を逸らしたまま。

「どっちでも、ない。糾弾なんてとんでもない。でも、謝ったところで、許されることだとも思ってない……」
「じゃあなんで話したんだ! 僕が怒るってわからなかった? 傷つくってわからなかった!? 話さなきゃいけないって思ったの? どうして? 糾弾じゃないなら、そんなこと、僕に話すべきじゃないだろ!」
「は、話すことを促したのはきみだ……」
「僕はあなたに『何者か』と聞いたんだ! あなたの、あなたたちの罪を打ち明けろなんて一言も言ってない!」

 肩で息をする。その自分のしぐさでやっと、どれだけのエネルギーで僕が言葉を吐き出していたかを思い知った。呼吸を整える。その間だって、お兄さんはなにも言わない。地面を見つめたまま、僕の顔だって見ようとしない。それが、ことさらに僕の神経を逆撫でした。

「……僕に、逆らう力がなかったら、どうなっていたと思う? あのまま母が、僕のかわりに、どこかへ連れていかれるのを傍観するしかなかったんだよ。それがどんな地獄か、考えたことある……?」

 彼は答えない。そんな、そんな顔になるなら本当に、なんで僕に話したんだよ、馬鹿野郎。

「僕にとって、母はすべてなんだ。僕の世界には母しかいなかったんだよ。そのたったひとりを失う気持ちが、おまえにわかるのかって聞いてんだよ!!

 びく、と彼の方が大きく震えた。初めてだ。僕は、こんなに大きな声を出せたのだと、初めて知った。
 喉が焼けるように熱い。目の奥がじんじんと痛い。
 500年。溜め込んでしまった炎は、簡単には鎮火できない。

「失う気持ちは、俺も……よくわかる」

 呼吸が、上がる。その言葉を脳がただしく理解したとき、頬を、涙が伝った。

「……らないよ」
「え?」
「わからないよ!」

 出ていく言葉は脳を介さない。止まらなかった。止められなかった。


「血を流す痛みもわからないおまえに、心の痛みなんてわかるはずがない」


 自分の顔も、彼の顔も、気にしている余裕なんて僕にはなかった。そのとき、お兄さんがどんな目で僕を見たのか、きっと、見ようとしなかったのは僕の方だった。
 許せなかった。
 母を傷つけようとした奴らも。僕も。
 ほんとうは、違うんだ。僕が許せないのは天流人だけじゃない。僕は、僕のことだって許せないんだ。母を守る術がなかった。殺しは守れたなんて言えない。現に、母には迷惑をかけた。犯罪者の親にしてしまった。それじゃあ、守れたなんて言えないんだ。
 僕は僕のことが嫌いだった。愛する人ひとりすら守れないじぶんが大嫌いだった。
 その日、僕は初めて、声を上げて泣いた。
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