【3話】きみの瞳の小宇宙

文字数 12,696文字

 ふと、目が覚めた。しばらくぼうっと空を眺めて、ああそうか、泣いていたんだと思い出す。泣き疲れて眠るなんて、本当に幼子みたいだ。身体を起こす。なにも考えず、お兄さんを見る。
 ──元々、僕が目を覚ましたのは、物音がしたからだった。迷人の眠りは浅い。
 お兄さんが、僕のナイフを手にしていた。逆手に持って、それを、己の脚に向けて。

「────なっ、」

 反射的に身体が動いた。彼の手からナイフを弾き落として遠くに蹴った。ナイフの行く先を確認して、再び彼の顔を見る。
 そして、僕は初めて、眠る前の自分の行いを後悔した。こんなにも絶望にまみれた人間の顔を、僕は、見たことがなかったから。

「…………なに、してたの」

 声が震えた。これは怒りではない。

「俺は、血がでないから、きっときみの痛みをわかってやれない。血はでないけど、でも、このまま何もしなかったら、一生わからないと思って……」

 途切れ途切れに言った彼の声もまた、震えていた。僕はやっと彼をここまで追い詰めていたことに気づいた。かすかに震える彼の肩に手を置く。

「ごめん、言葉が過ぎたね、そんなことをさせるつもりじゃなかったんだ」

 彼はまだ、僕を見ない。口がカラカラに乾いていた。飲み込むような唾液すらなくて、僕はとりあえず唇を舐めた。

「あなたは、大切な人がいたと言ってたよね? それなら、形は違くとも、きっと同じ痛みがわかるよね。ひどいことを言ってごめんなさい」

 お兄さんは、やっと少しだけ僕を見て、ただ頷いた。
 もう星は隠れていて、辺りは明るくなり始めている。僕は食事の準備に取り掛かった。お兄さんは、膝を抱えて黙り込んでしまっていた。
 わかっていたことだったんだ。僕が恨んでいるのは『天流人』であって、『お兄さん』ではない。そんなこと、誰にとっても一目瞭然なはずだ。でも、僕は止まることができなかった。全部八つ当たりでしかなかったのに、冷静になれなかった。やっぱり、僕はまだまだガキなんだ。

「お兄さん」

 変わらず綺麗な星の瞳が、僕を見た。

「ミルク……飲む?」

 頷いてくれたから、僕は温めたミルクをカップに注いで彼に手渡した。ふたりして何も言わずに黙々とミルクを味わう。甘くて美味しいはずなのに、昨日とは少し、味が違う。

「……お兄さん、あのね」

 昨日の食事もこんなだったけれど、今度は僕が言葉を選ぶ番だ。

「僕は母を襲った天流人のことが許せないけど、だからって僕があなたを責めていい理由にはならなかったんだ。ごめんなさい」
「……いや、俺は、それも覚悟できみに話したんだ」
「でも、僕はあなたの覚悟よりもひどいことを言った」

 短く、お兄さんが息を吐いた。それはどこか自嘲めいていて、僕は一気に胸の真ん中が冷たくなった。彼にそんな顔をさせているのは、他でもない僕なのだ。

「きみの言うことは、もっともだよ。俺には、きみが感じたのと同じ痛みはわからない」
「それは僕だって同じだよ。種族も関係ない、同じ種族だって、別の固体なら仕方がないことなんだ。感情は、いくら言葉を尽くしたって心のそのままには伝わらないんだ。……わかってたんだよ、そんなこと。ほんとうにごめん」
「……俺は、謝られる資格はないよ」

 謝るというのは、「いいよ」を強要する行為だ。大人になればなるほど、ごめんなさいと言われたら許さないといけなくなる。そういうことに、僕は800年生きていて、やっと気づいた。僕は、例え天流人にごめんなさいと言われたところで許さないだろう。でも、いいよと言わないといけないかもしれない。だって、僕は彼らを殺したから。
 自分が謝る立場になって、痛いくらいにわかった。
 謝る人は、許してほしいから謝るんだ。
 いいよと言ってもらって、罪を軽くしたいから謝るんだ。

「ねえ、お兄さん」

 重々しく、彼が顔を上げた。

「あなたさえ良ければ、あなたの話を聞かせてほしい。言いたくないことは言わなくていい……なんでもいいんだ、あなたのことが知りたい。あなたと会ってから、僕が話してばかりだったから」

 お兄さんはしばらく黙っていて、もう一度ミルクを口に運んだ。中身が無かったのか、喉が動くことなくカップは机に戻された。

「……俺は、メリーって呼ばれてた」
「メリー?」
「メラクを主とする個体だから。俺だけじゃなくて、メラクの子はみんなそうだ。300機くらいいる」
「……なんかややこしいね」

 お兄さんは薄く笑って続けた。

「呼び分ける必要が無かったからな。同じ親を持つ個体は、基本的には同じエリアで働かないから。ただ、敢えて呼び分ける時は番号を使ってた」
「自分で名前を付けたりしないの?」
「名をいただくというのは、俺たち北斗にとってとても特別なことなんだよ。個として認識してもらうという意味だからね」

 少し寂しそうに、彼は笑った。個として扱われていなくたって、彼は少なくとも彼の兄弟のことを、個として見ていたはずだ。他何百もいる同胞たちと兄弟たちとを、同じように扱ってはいなかっただろう。

「ねえ、じゃあさ、僕が名前を付けてもいい?」

 お兄さんが、銀河の瞳を見開いた。二度、三度瞬きをして、絞り出したような声で「どうして」と訊いた。

「名前をいただくというのは特別なこと、なんでしょう?」
「うん」
「あなたを、僕の特別にしてあげる」

 間を置いて、彼がふっと笑った。きっと彼は笑うだろうと思っていたから、僕も微笑んだ。

「きみは本当に、おもしろいことを言うよね」
「ふざけてないよ、ちっともね」

 わかってる、と言って、彼は少しだけ目を伏せた。それがどうにも悲しそうな色を帯びているように見えてしまって、僕には彼が何を思っているのかがわからなくなった。でもきっと、名付けられるというのは、嫌なことではないだろう。もしも、僕があなたの友人でいられるなら。

「そうだな、きみの名付けのセンスによる」
「ふふ、任せてよ」

 ちょうど温まったスープを二人で飲んで、前よりも穏やかに、僕たちは朝食を摂った。顔を出し始めた朝日を、眩しいと思ったことは何度もあるけれど、素敵だと思わなかったのは初めてだった。
 目の前に、もっと素敵なひとがいるからだと、僕の心が言った。



 ***



 それから、僕らは数十日ほど歩いた。きちんと休息を取りながらではあったけれど、僕は歩くことに慣れているし、お兄さんは僕よりも疲れにくいらしく1日でかなりの距離を進んでいた。
 ちぎれたお兄さんの腕も結構生えてきて、僕らの旅路も出発からかなり遠くまで来た。それでも、果ては遠い。果ては遠いから「果て」と言うのだ。途中何度か星獣にも会ったけれど、その都度お兄さんに確認をとった。個体数の少なくないものは狩って何日か分の食料とし、少ないものは殺さないように停止させて撤退した。

「ねえ、北斗の真下まであとどのくらいあると思う?」

 お兄さんは生えかけの腕をぐるぐる回しながら、空をじっと見つめて答えた。

「あと、休まず歩いて2日ってとこかな」
「え、結構近かったね? 3ヶ月くらいは歩き続ける覚悟だったんだけど」
「浮宙は確かに広いけど、見掛け倒しなところもあるんだ」

 お兄さんは僕に近づいて、僕と目線を合わせるために少しだけ腰を屈めた。同じものが見えるように、彼は空を指さす。

「あの星が見える?」
「みっつ連なってるやつ?」
「そうだ。さて、賢いセンカくんは、あの真ん中の星からすぐ隣の星までどのくらい距離があるかわかるか?」

 みっつ連なった星の少し東に、ひとつぽつんと明るい星がある。そのふたつの星の距離を問われているのだ。大体の本は小さい頃に読み漁ってきたけど、星にはあまり詳しくない。

「えぇ、大体10センチくらいだから……1200光年?」
「お、さすが博識だな。その考え方も感覚も大正解だけど、実はあのふたつの星はせいぜい150光年程度しか離れてない」
「え、ほんとに?」
「本当なんだな、これが。原因はこの『浮宙』の深さにある」

 深さ、と繰り返すと、彼は頷いた。その表情がどこか楽しそうだったから、ああ、兄がいたらこんなふうなのかなと少しだけ思った。

「浮宙が海底にあるとイメージしてくれれば良い。星々はそのまま高い空にある。俺たちと星の間には水があって、それらがいつも風やら何やらで揺蕩いている。そのせいで、俺たちに見える空はいつも少しずつ違うんだ。浮宙に、少し歪みがあると言ってもいい。歪んでいるから距離が曖昧なんだ。ちなみに時の流れも乱れてる。月とは随分ちがうはずだ」
「…………ごめん、わからない」
「難しかったか?」
「いや、何が起きているのかはわかったんだけど、どうしてそうなるのかがわからない」
「それは俺だってわからないよ。なんとなく、こうなってるから距離だって歪んで感じるんだろうなってだけで。誰も解明しにこないから、誰にも理由も原因もわからない」

 その言葉に、僕はとても驚いた。解明されていないということは、学者たちは誰一人として浮宙を調べようとしていないってことだ。未知なんて、僕にしてみればこれほど魅力的な言葉はない。

「学者たちも来ないなんて、信じられない」
「浮宙のことを罪人の掃き溜めだと思ってる連中だからな。汚いものしかないと思ってる」
「だとしてもさ、知らないことって調べたくなるものじゃないの?」
「それでも、ヤツらの変なプライドが、浮宙に来ることを思いとどまってるんだよ。そういうヤツらなんだ、星宇人は」

 もったいないね、と、心からそう思って言うと、お兄さんはなぜか嬉しそうに笑った。それからガシガシと僕の頭を撫でた。

「君はいい子に育つよ」
「いや、もう充分育ったあとだから」

 迷人の寿命は平均して800年。
 かく言う僕も、実はそろそろ潮時なのである。

「君は、なんでそんなに知ることが好きなの?」

 不意に、お兄さんが訊いた。そういえばそんなこと、考えたこともなかった。

「ええ、なんでだろう」

 知らないことを知るのは楽しい。自分の視野が広がっていくのがおもしろい。そういう感情はずっとあって、初めてそう感じたときから忘れていなくて。でも、そう思うきっかけがあったはずなんだ。

「あ」

 ふと思い出して、僕はまた母の顔を思い出した。顔を上げると、お兄さんが僕の言葉を待っているようだった。

「えっと、あなたが、僕の名前に聞き覚えがある、と言ったのは覚えてる?」
「……ああ、覚えてる」

 あれは、結局彼が、僕が殺しをした話を聞いたことがあったからだったのだろう。今気まずそうに目を逸らしたのだって、そういうことなのだ。でも、僕は最初、別の理由だと思った。僕の名の由来に関係する伝説を、きっとお兄さんも知っているものだろうと思ったんだ。

「星に辿り着いた兎の話は、聞いたことある?」

 少し考えて、お兄さんは首を横に振った。それならきっと、やっぱり月の民に伝わる話だったのかもしれない。いくらお兄さんが星の子でも、お兄さんが知らなくて僕だけが知っていることもある。あったっておかしくない。そういう当たり前のことを、僕はやっと『当たり前だ』と認識することができた。きっと、彼に出会わなければ、一生気づけなかったと思う。


「その兎は、元は普通の兎だった。
 あの、月にいる耳の長いやつね。四人兄弟の末っ子で、身体も小さくていつもみんなに馬鹿にされてたんだ。そんな中、唯一優しくしてくれる母の存在が救いだった。でも、彼はどうしても不幸だった。彼の母が病気になってしまったんだ。病床に伏した母は、彼を枕元に呼んで、
 『あなたは特別な子。字を覚えなさい、本を読みなさい、学を身につけなさい』
 と言ったんだ。言われた通り、彼はたくさんの本を読んで、多くの知識を身につけた。いつしか彼は『先生』と呼ばれるまでになったけど、それでも母親を助けることはできなかった。ひどくショックを受けた彼だったけど、その後素敵な女の子と出会って幸せになるんだ。そういう話」


 お兄さんは、呆然と遠くを見つめているようだった。話の内容を反芻しているのだろうか。やがて僕を見て、言った。

「おしまい?」
「おしまい。この話に出てくる兎っていうのが、『千花』という名前なんだ。僕の母はこの神話の名を借りて、僕に千花と名付けた。だから、僕にとっては『学ぶ』ことは母の願いに応えることなんだ。名付けというのは、子の人生に願いを込めるものでしょう?」

 母はきっと、僕に博識な子に育って欲しかったんだと思う。僕が本を読んでいると、母は必ず褒めてくれた。僕は、褒められるのが嬉しかったから本を読んだ。そうやって、僕は「知ること」を好きになっていったんだ。

「……名とは、そんなに重要なものなんだね」

 呟くように、お兄さんは言った。大事なことには違いないのだろう。だって、一生付き合っていくもので、親から一番最初にもらう贈り物だ。だから僕も大事にしたかったし、あなたに贈る名前も、僕の精一杯の祈りを込めようと、思っているんだよ。

「…………おにいさん、あのね、」

 見上げた、おにいさんは、僕を通り越して遠くを見つめていた。何かあるのだと思う前に振り返って、遠くの方に立ち上る何かを見た。

「……あれは?」

 僕は問う。お兄さんの瞳は、驚きと焦りに揺れていた。

「あれは、救難信号だ」

 救難信号。聞いたことはある。湿らせた布を星の下に晒して、星の光を集める。布が太陽の下でもわかるくらいに薄く光り始めたら、それを筒に絞って詰める。なるべく大きな圧力をかけて栓をすれば完成だ。栓を抜くと、勢いよく光が飛び出すというしくみになっている。

「え、てことは、あそこで誰かが困ってるってこと?」
「そうだ。行くぞ」

 迷わず、お兄さんは立ち上がった。まだ生えかけの腕で。

「待ってよ、お兄さんには兄弟がたくさんいるんでしょう? あなたが行かなくても、きっと誰かが、」
「ダメなんだ」

 お兄さんが言った。それは、これまでのどの時よりも強い言葉だった。

「あれは星宇人の信号じゃない。俺たちは死なないから、あれを出す必要がほとんどないんだ。打ったとしたら星宇人以外。だったら『星の子』はたぶん動かない。奴らはほかの種族を見下してるから……」
「でも、打ったのが空人だったとしたら? 彼らはあなたたちにとって、敬うべき存在じゃないの!?」
「空人が元人間っていうのは仮説でしかないし、俺たちの中でも偉いやつしか知らないんだ。俺が知ってるのは、北斗に最も近い個体のひとつだから。ほかのやつは大体そんなこと知らないよ」

 お兄さんが素早くテントを畳んで丸めてしまう。僕がいつもやっているやり方だ。そんなによく見ていたのかとどこかで感心しながら、僕は慌ててミニテーブルを畳んでカバンの形に戻した。

「きみはここにいていい。1時間、俺が戻ってこなかったら、俺のことは忘れて」
「は!? 僕も行く!」
「痛いのは嫌だろ?」
「ぼっ、僕があなたを止めたのは、痛いのが嫌だからじゃない!」

 お兄さんの動きが、一瞬止まった。僕を見る。

「じゃあ、なぜ止めるの?」
「あなたを心配してるんだよ!」
「なぜ? 俺は死なない」
「そうじゃないでしょ! あなたが怪我をしたら僕も痛いの、傷つくの! だから、あなたが行くなら僕も行くの! あなたが独りで傷つくのはダメ!」
「………………なぜ?」
「好きだから! それ以外に理由がある?!」

 お兄さんが、大きく瞳を見開いた。星空の瞳が揺れる。底なしに綺麗な瞳は、それでも、僕を甘く身勝手に連れ出してなんかくれない。惹き込まれそうになる。でも、惹き込んではくれないのだ。

「……俺は、きみを傷つけた。今、償いの真っ最中だ」
「僕はっ、あなたにたくさん酷いことを言ったけど、償ってほしいわけじゃない……あなたの罪じゃない。僕はあなたが感じている罪よりももっと、あなたにたくさんもらってたんだ。だから、もうなにも欲しくない」
「…………許してくれるってこと?」
「許すとか、許さないとかじゃないの! そりゃ、母さんを傷つけた天流人のことは何があっても許さない。でも、あなたは違う……あなたが横取りしてまで背負わなきゃいけない罪じゃないんだよ」

 静かに、お兄さんは首を振った。悲しそうな瞳をしていたから、僕は、ああ、またダメだったと思った。

「それでも、俺が忘れてはいけない罪だ」
「だったら、ごめんねって言って!」

 手をいっぱいに伸ばして、お兄さんの両頬を両の手で包む。僕から、目を逸らさないように。

「あと一度だけ、ごめんって言って。そしたら僕はいいよって言うんだ。友達ってそういうものなんだ。僕は、あなたと、そういうふうになりたいんだ」

 お兄さんの手が、僕の手と重なった。ああ、星の子は冷たいのだと、人と同じではないのだと初めて気づいた。

「…………ごめん」

 震える声で彼は言った。僕は、自分で言い出したくせに、どんな顔をしていいかわからなかった。でも、お兄さんが少しだけ口角を上げたから、きっと僕も笑っているんだと思った。

「いいよ。許してあげる」

 自分から生まれたとは思えない、とても穏やかな声だった。お兄さんはまた頷いて、先程の救難信号が上がった方角に目を向けた。

「じゃあ、行こうか。急がなきゃな」
「うん、走って間に合うかしら」
「言ったろう? 浮宙は空間が歪んでる。見た目ほど距離は無いよ。でも、実際遠いし時間がないのは確かだ。千花、来て」

 手招きされて、言われるがままに僕はお兄さんに近寄る。ぐい、と腕を引かれて、お兄さんの手が僕の肩を抱き込んだ。

「しっかり掴まれ。足は地面から浮かせておいた方がいい、最悪削れて無くなる」
「……待って、何する気?」
「手荒だからできればきみには使いたくなかったんだけど……俺を信じてくれ。 友、なんだろ?」
「ちょっと嫌になってきたかも……何するかだけでも教えてくれない!?」

 お兄さんが僕を抱える手に力がこもって、準備体勢に入ったことが嫌でもわかった。彼の腰に締め付けるくらいの強さで抱きついて固く目を閉じる。

「心配ない。ちょっと────早く走るだけだ。2日分の距離をね」

 キン、と耳鳴りがした。高周波の音だ。体の表面を撫でる風がもはや痛い。お兄さんの片方しかない腕が僕を抱えていることを思い出して、僕も僕で精一杯お兄さんにしがみついていた。
 永遠とも思える時間の先で、肌を撫でる風が徐々に弱くなる。減速しているのだと気づいたときには、地面にふわりと足が着いた。

「大丈夫か、千花」
「なんとかね……」

 お兄さんが僕を地面に立たせてくれたけど、まだ視界がふよふよとしていた。仕方なくお兄さんの服の裾をつまんで、目を閉じて三半規管が回復するのを待つ。

「…………フィー?」

 お兄さんの声で、僕は目を開けた。そこには、髪の長いキレイな人と、背の高い短髪の男がいた。

「メリー!」

 長髪の方がお兄さんを見て言った。お兄さんは短髪の様子を見ながらゆっくりと歩を進める。座り込んでいた長髪に近づこうとしても、短髪は動かなかった。どちらかが救難信号を打ったはずだ。しかし、そんな様子は見受けられない。

「何があった? 信号を打ったのはどちらだ?」

 フィーと呼ばれた長髪が、短髪を指さした。長髪の方は女性のように見えるし、強そうなのは短髪の方だ。僕には少し意外だった。

「コイツに殺されかけたんだ」

 低い声が、空気を震わせる。短髪の大男の声だった。フィーはお兄さんに駆け寄って抱きついた。お兄さんはフィーの頭を撫でる。居場所が無くなった僕が三歩後ずさったところで、ちょうど、短髪と目が合った。

「オマエ、どこの生まれだ?」

 訊かれているのは僕だ。かなり距離があるのに、それでも圧を感じる。僕はさりげなく腰のナイフに手をかけながら、短髪の目から目を逸らさずに答えた。

「……月だけど、どうしてそんなことを訊くの?」

 短髪は黙って僕のことを見ていた。お兄さんが、僕を庇うように前に出る。

「フィーは俺の妹だ。妹が迷惑をかけた責任なら俺が負う。こちらの少年は関係ない」
「少年?」

 フッと、短髪が笑った。広い肩が震える。思わず半歩身を引くほど、次の一手が予想できない男だった。

「星宇人ってのは、本当に無知でヒトを見る目が腐ってンだな」
「どういう意味だ」

 強い語気で聞き返したお兄さんに、短髪は嘲笑うような顔を向けた。黒い髪の隙間から覗く白目が不気味で、そうか、これが。
 これが、恐ろしいというやつなのだ。

「そこの迷人、500年は生きてる。どこが少年だってンだ? アンタからすりゃ年上だと思うが」
「はっ……!?」

 お兄さんが驚いたように僕を見た。

「言ったじゃん! 子ども扱いしてたのはお兄さんでしょ!」
「そうだったか……」
「ていうか、待って。あんたはなんでお兄さんの年齢を知ってるの? 星宇人は生まれた瞬間から星に成るまで見た目は変わらない。外見では判断できないはずだよ」

 睨みつけると、短髪はまた笑った。「メリー」と小さい声で、長髪の人がお兄さんを呼ぶ。

「メリー、アイツはダメ。早く……殺さなきゃ」
「待て。なぜそんなことを言う?」
「あいつは、ドゥーべが

ことを知ってる」

 僕には、意味がわからなかった。でもお兄さんにはわかったみたいだった。一瞬でお兄さんの顔色が悪くなって、あの単発を見る目が変わった。例えば、殺さなくちゃと、思っている目。

「お兄さん、」

 どういうこと、と問おうとした。でも、言葉は続かなかった。刺すような視線を感じた。言わずもがな、あの短髪の視線だ。身体が動かなかった。声が出なかった。
 あいつを見る。あいつも、僕を見ていた。

「迷人、オマエ、千花だろう」

 ヒュ、と喉がなる。心臓が強く脈打つ。身体の表面が粟立って、震える。覚えずナイフの柄を握りしめていた。有事のとき、必ず僕を守ってくれるのはこいつだけだから。

「昔資料を見たことがある」
「きみは……『月衛』の人間か」

 お兄さんが、静かに言った。

「月衛……!?」

 月衛。『月面防衛対策本部』のことだ。その名の通り月の中心部にある防衛組織で、主に月での犯罪やテロの防止、その取り締まりのために働いている。確かに大男だとは思ったけど、まさか本当に、そちら側の人間だったなんて。

「元、だけどな。貴族殺っといて死刑にならずに流刑なンて、何百年に一度あるかないかのクソ珍しいヤマだ。名前も顔もよく覚えてるよ。オマエ、空人なンだろ?」

 ずどん、と、鈍器かなにかで頭を強く殴られたかのように、目の前が真っ白になった。
 僕に空人の血が流れていると知れたら、きっと母が空人だとバレてしまう。バレてしまって、それが月に知れ渡ったら、きっと、母は、殺されてしまう。みんな、星のえらい人が空人を敬っているなんてことは知らない。普通の人間からすればこれは、下流の人間が上流貴族を手にかけたという恐ろしく、忌むべき事件だ。月のえらいヤツらはきっと、己のメンツを守るためだけに、『犯罪者の親』であり、『天流人に襲われた』と知っている母を、殺してしまうだろう。口封じのため、もしくは、犯罪者の親であることを罪として。
 もう、どうしようもないと、ナイフを抜きかけたときだった。僕の肩に大きな手が置かれた。見上げる。
 お兄さんは笑っていた。

「御仁。その件を知っている人間はどれくらいいる?」
「月衛じゃ、オレぐらいだろうな」
「そうか。不幸中の幸い、だな」

 一瞬、息が詰まった。僕は本当に、お兄さんがあいつを殺してしまうと思ったんだ。でも違った。
 お兄さんは、地面に片膝を着いて頭を垂れた。それは、月ではメジャーな祈りの姿勢だった。

「頼む。このことは公言しないでほしい」
「……ほお、なぜ?」
「それが広まると、千花が……傷つく。それは、俺が嫌だ」

 こんなに、とても笑ってはいられない状況なのに、僕は胸が熱くなった。僕は、別に、お兄さんに同じものを返してもらえなくたって良かったんだ。それでも、お兄さんは同じものを返してくれた。同じでいいよと言ってくれた。
 罪を犯した迷人。星に作られた星の子。絶対に、交わるはずのない種族同士だ。それなのに、僕は、お兄さんの何かになれた。

「ハッ」

 ヒリ、と空気が変わった。
 笑ったのは言わずもがな短髪だ。ヤツが笑う度に、その顔の大きな傷が歪む。

「良いじゃねぇか。素敵な友情だ。種族を超えた絆なンて、ガキの頃から犯罪者の迷人サンにはさぞ響いてンだろうなぁ」

 カッと顔に熱が集まった。本当のことを、厭らしい言い方をされた。こいつは、敵だ。

「オレはな、星宇人が……『星の子』が嫌いなンだよ」

 短髪の顔から笑顔が消える。チャキ、と音がしたときには、短髪の手には武器があった。それは、月衛の、それも特別機動隊だけが持つことを許される武器。

「銃っ……!?」

 銃口は、お兄さんに向けられている。お兄さんは至極落ち着いた様子で両の手のひらを掲げて見せた。敵意が無いことを示す行為だ。

「銃を下ろしてくれ。場所が良くない。北斗の御前だ」

 彼の言葉で、僕はようやっと、ここが「果て」であることに気がついた。見上げれば、空には北斗があった。
 あまりにもお兄さんが動揺していないなと思いかけて、気づく。ああ、そうか。彼は死なないんだ。考えて、刹那、時が止まる。
 月衛という月でいちばんの情報組織に所属していて、状況証拠から僕のことを空人だと言い当てる程度の推理力がある。そんなヤツが、「天流人の死には星の運命以外干渉できない」というポピュラーな情報を見落としているなんてことが、有り得るだろうか。
 短髪が引き金を引く。形容しがたい強い音が、聞こえた。脳で処理する前に、僕の身体は動いていた。今日ほど迷人の反射神経に感謝したことはない。お兄さんに体当たりするように覆い被さる。腹に、重い壁がぶつかってきたような衝撃が走る。ひどい耳鳴りがしていた。

「……千花?」

 お兄さんの声に縋るように、僕は飛びかけた意識を引き戻す。視界がぐらぐらと揺れている。遠くの方で、あの短髪の笑い声が聞こえた。

「千花、何を……どうして、俺は死なない……!」
「ダメだっ、アイツは…………僕とおなじ、」

 喉に何かが迫り上がってきて思わず咳き込んだ。 溢れてきた液体は全部赤く、お兄さんの白い肌を汚した。お兄さんが僕の、たぶん撃たれたであろう腹を強く圧迫する。その間も彼の手はひどく冷たくて、その温度は間違いなく今の僕には毒だったけれど、心はどこまでも安堵していた。

「きみは、まさか……」
 それは短髪に向けられた言葉だろう。視界が白い。短髪がどんな顔をしているのか、僕には見えない。


「空人─────!!」


 否定の言葉は、いつまで経っても聞こえてこなかった。恐らく答えはイエスなのだろう。星のえらい人はどんな顔をするのだろうか。敬うべきとしてきた空人が、ヒトを殺すなんて。これが広まったら、本当に、母が、危ない。

「メリー、その子はもう無理だよ」
「なっ、なんてことを……!」

 そのひとの言う通りだよ。僕はもう無理だ。身体中が寒くなるのを感じている。きっと血がたくさん出すぎているんだ。

「ボクはあれを殺す。良いよね?」

 お兄さんは答えなかった。僕にも、それをダメだよと言ってやる理由はない。
 でも、だけど、それでも。

胤青(いんせい)……」

 お兄さんが、僕を見た。朧気な視界の中でも、彼が呼吸を詰めたのが気配でわかった。

「千花……?」
「お兄さんの名前……あなたは、星の子……特別な、ひと。あなたの持つそれは、祝福。どうか、忘れないで、あなたは、素敵……」

 もしも、あなたがその手を汚しても。誰かを殺めて、それが許されざる罪だと咎められても。

「生きて。なんでも、いい、何かを、守れるあなたでいて。僕は、あなたに救われた……そんな、あなたを、損なわないで」

 頬に水滴が落ちてきた。よく見えないけれど、お兄さんの涙かもしれない。そうだったら良いと思った。僕の死で泣いてくれるひとがいるのは、とても、幸せなことだ。
 意識が遠のいていく。どこかで、お兄さんが「ごめん」と言った。それが何に対しての謝罪なのかは見当つかなかったけれど、なんであれ、僕は「いいよ」と返せる自信があった。

「ありがとう」

 声になっていたかはわからない。もう目はほとんど開いていなかった。ただ、僕を抱き起こしてくれているお兄さんの手が、今は片一方しかないことが、少しだけ惜しく思えた。



 *



 なんとなくそんな気になったから、今日は天蓋を上げて作業をしていた。夜空の光に照らされてはたを織るのが、私は随分好きだ。でも、あまり光に晒してはならない生地もある。今日は偶然、そういったものが無い日だったから、たまには良かろうと天蓋を上げたのだった。
 ふと見上げた空の先で、きらりと星が光った。あれは星になったのではなく、地上に堕ちる流れ星だ。
 ああ、どこかで何者かがゆかれたのだと、ぼんやりと眺める。月から見る流れ星は、他からみるそれより随分緩慢な速度であると聞く。よく見ておこうと腰を上げて縁側に出て、見上げる。

 私はどうしてか、その星から目が離せなくなった。
 光っている。美しい。儚い。眩しい。
 それはとても、私の思い出に似ていた。

「千花……?」

 気づけば声に出ていた。愛おしい息子の名前。私のせいで不幸にしてしまった可哀想な子の名前。
 星があの子に見えるなんて、私はなんと愚かだろう。きっとあの子の方が、私よりも強く生きている。あの子は強いから。あの子は賢いから。
 いつかまた、を、願わない日はない。
 けれど、親として。あの子が幸せであるならそれで良い。それが親というものなのだ。
 私は静かに天蓋を降ろして、行灯に火を入れて作業に戻った。覚えず、とある歌を口ずさんでいた。あの子を寝かしつけるときによく歌っていた、どこかで聞いた春の歌を。



 *



 俺の腕の中で、千花は動かなくなった。微笑んでいたから、少なくとも、不幸な終わりでは無かったのだと思う。
 千花。その名の由来となる伝説は、実は俺も知っていた。「星に辿り着いた兎」と聞いてわからなかったのは、その伝説が、俺が知るものとは随分違ったせいだ。
 星の持つ知識では、あれは「知識を持ったとしても、力を持たない兎では世を変えることはできない」とする童話だ。いかにも星生まれらしい、他種族を見下した物語。千花の話したものは「最後は素敵な女性と出会って幸せになった」という結末だったが、本当は違う。
 兎────千花は知識欲に溺れた。この世の全てを知り尽くす勢いで学び、やがて彼よりも物を知る生きものは天の星のみになった。実質、彼は生命体の中で最も知識を持つ者のひとりと呼べるまでになったのだ。しかし、それ以上のことは何もなかった。虐げられる種族を救うことも、襲われる種族を守ることも。彼には何もできなかった。知識は力の前にひれ伏した。これは、そういう物語だった。
 千花。きみはどうだったのだろう。少なくとも俺にとっては、彼は尊敬に値する男だった。俺は千花の目を閉じさせて、傷口に俺の服を破って巻いてやった。空人は死後地上に戻り、迷人はまた月に生まれ直すと言われている。半分の千花はどこへ行くのだろう。道に迷ったりはしないだろうか。

 俺はふたたび天に向かって祈りの姿勢をとった。

 母よ、どうか。
 この大切な友人を、穏やかな場所に連れて行って。

 俺の生涯、星に祈らなければ叶えられない願いなど、このただひとつだけだろう。
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