第1話

文字数 2,210文字

「ふうー」
 あの禿、同じことをぐちぐちぐちぐちうるせーんだよ。煙草をふかして歩く新宿の街。
 8月の暑さも俺の苛立ちを増加させる。ネクタイを無造作にぐいっと緩めた。
 子供を連れた親が、俺を睨んだ。知ったことかよ。こっちはイライラしてんだ。歩き煙草をしているやつなんて俺以外に沢山いるだろ。
 子供もわざとらしく咳こんでるんじゃねえ。不細工なガキだなそんで。
 いつものように、意識もなく、何気なくコンクリートに煙草をほうった。
 近くにあったベンチにどっかり腰を下ろす。隣には誰も座っていない。
 足をだらんと広げ、友人と肩を組むようにベンチに両手を預けた。
「はー」
 ムカつくくらい清々しい青空だ。
「あのー」
 黒い前髪をぴっちり5:5に分けた男が不気味なくらい満面の笑顔で話しかけてきた。
 子供に視線を合わせる大人のように膝を曲げ、座っている俺を見下ろしている。
「あ?」
 こんな奴は知らねえ。
「誰だァ、あんた」
 俺の視線は、ソイツの持っている見覚えのあるゴミへと注がれた。
「そんで、何でそれを持ってんだ」
 さっき俺が道に捨てた煙草だった。俺は、煙草を噛む癖がある。
 先端が潰れているのですぐわかった。
「落としましたよ」
 はい、とソイツは俺にゴミを差し出してきた。
「は?」
 何言ってんだァ?コイツ。暑さで頭がおかしくなったんじゃないか?
「いや、どう見てもゴミだろ。ソレ」
 俺が、煙草を指さすと、ソイツは変わらない笑顔で頷いた。
「はい、あなたのゴミです。ですから、あなたが捨ててください」
「いや、は?いきなり話しかけてきてそれかよ」
 気持ちわりィ。俺は、そう吐き捨てて頭のおかしい変人から一刻も早く遠ざかろうと席を立った。足早に背を向けて歩き出そうとすると、肩を掴まれた。
 結構、いや、かなりいてぇ。
「何すんだよ!てめえ!」
 俺は、肩に置かれた手を乱暴に振り払うようにして振り返った。
「なっ・・・」
 ソイツの、不気味なくらいの満面の笑みは消え去っていた。一瞬で足がすくむような、俺に明確な殺意を持っている顔になった。
「な、なんだよ、そ、その顔」
 その顔を見た途端に、俺の舌は上手くまわらなくなった。
「た、たた、煙草のポイ捨てなんて誰でもやってんだろ!」
 謝れ!!!!!!!俺の本能はそう言っているのに、口は勝手に舌はからまわる。
「何で俺だけなんだよ!他の奴にも注意しろよ!」
 はあ、はあ、ごくっ。息切れも、喉の渇きも。
 かすむ視界も、滲む汗も。全部全部こいつのせいだ。
「大体てめえは」
 ソイツは、喋る俺の口元に焦げ付いた煙草を灰皿に煙草を押し込むように突き付けて俺を黙らせた。
 う、嘘だろ。だれか、誰か止めろよ!周りを見回すけど、誰もこっちを見ていない。時間が止まったような感覚がした。
「私の嫌いな言葉は2つ」
 ソイツは、先ほどの爽やかなセールスマンのようなはきはきとした声とは打って変わって、低くがらがらの、聞きずらい声で俺に告げた。
 どうでもいい。お前の嫌いな言葉なんて。
 でも、俺はソイツの真っ暗な眼に捕まって、喉元に手をかけられているように動けなくなった。
「1つ目は、他人に迷惑をかけた奴の、自分には関係ない」
 そして、とソイツは吸い込まれそうな真っ黒な眼球を俺に軍っと近づけて言った。
「2つ目は、ルールを守らない奴の、みんなやってる、だ」
 焦げ付いた煙草は、もう俺の唇の先まで来ていた。俺の両手?そりゃ決まってんだろ?とめてんだよ!このいきなり現れた頭のおかしい奴が、俺の口の中にこの煙草を押し付けようとする勢いで、押し付けてくるコイツの手を両手で止めてんだよ!必死だよ必死!すげー力つえーんだよ。でも、こいつは片手で俺の口に煙草を容赦なく押し付けようとしてきやがる。
 俺は、まるで人間じゃないもんを見るような目で改めてコイツを見た。
 ソイツの顔は、20代半ばってところだろうということがはっきりわかった。なのに、何でこんな恐ろしい表情ができるんだよ。俺を、同じ人間としてみてねーようなさァ。
「わ、わかった」
「はい?」
「捨てる、捨てるから」
 早口でそう言うと、ソイツは俺から離れた。
「そうですか」
 ソイツは、最初に声をかけてきたときと同じ表情で微笑んだ。
 一気に空気が変わった。
 はい、とソイツは俺に煙草を差し出した。
 俺は素直に受け取った。つまんだ煙草の表面がじんわり暖かかった。
「もう、ポイ捨てはやめてくださいね。歩き煙草も」
 そう言ってソイツは視線を俺から外した。視線を追いかけてみてみると、そこにはポイ捨て禁止、歩きたばこはやめましょう、という子供が書いたようなポップなポスターが貼ってあった。
「あ・・・ああ」
 そういうしかなかった。
 ソイツは、そういうとそれ以上は何も言わず立ち去って行った。
「は・・・か・・・」
 俺は、その場にへたりこんだ。ケツがじりじり焼けつくように痛い。
 一息ついて、地面にへたり込んでいる俺を、アイスを食いながら不思議そうに眺めているガキと目が合った。
 俺は、煙草をつまむ手に力を込めた。
「ああ、わかってるって、捨てるよ」
 そのガキに約束するように、俺は空いた手で頭をぼりぼりかいて立ち上がった。
 休憩時間は、とっくに残り20分を切っていた。
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