第33話 告白

文字数 6,376文字

 一樹が大学に行くと、いきなり数人の生徒に囲まれた。知ってる生徒もいれば、ピアノ科じゃない生徒もいる。一体何の騒ぎだと思いながら挨拶をすると、挨拶は返されることなく用件をいきなり伝えられた。
「桜木先生、ラジオ聞きました。あのジャズの」
「お願い。学祭出てください。枠がまだあるから」
「コンバスとドラム用意するから、出てください」
 そう言えば、学園祭があるとは聞いていたけれど、一樹は何もしないつもりだった。
「ユーチューブにアップしたり、SNSで拡散したいんです。協力お願いします」
「サプライズ演奏としてお願いしたいんです。絶対人がたくさん来ます」
「サプライズ?」と一樹が言うと、バイオリン科の学生が「先生、バズってるんですよ? 知らないんですか?」と言って、スマホを出す。
 前回のWaltz for Debbyが流れ出す。画面は人の家の部屋に置かれたオーディオが写っていて、文字が「このピアノ最高すぎん?」と文字が飛び出してきた。
「五万回再生いってますよ。うちの学校の宣伝にもなるし、ぜひ」
(学校は辞めるつもりなんだけどな…)と思いながら、とりあえず、何でもやってみようとは思っていたので、受けることにした。それに、受けるまで解放してくれなさそうだった。
「後、小早川先生と連弾もお願いします。小早川先生はOKって言ってくれました」
「それっていつなの?」
「今週の金曜日から始まって、先生の枠は日曜ですけど?」
 一樹は何にも聞いてない、と焦った。今日が木曜日でほぼ時間がない。沙希との連弾はともかく、生徒がコンバス、ドラムをするとなると時間が足りない。
「コンバスとドラムは誰がしてくれるの?」
「パーカッションの持田先生がドラムで、コンバスは…オケから選出します」
「すぐ選んで。放課後合わせるから」と言って、急いでレッスンに向かった。
 金曜から学園祭が始まるのだから、今日しか練習する日がなかった。最悪、今日、できなかったら、明日、どこか練習室を借りなければいけない。一樹は桜に「今日は遅くなるからご飯もいらないし、先に寝ていてください」とメッセージを送った。思いがけず、今日は一日学校で忙殺されることになった。沙希との連弾については「当日、リハで大丈夫。昔よく弾いた曲だから」とメッセージを受け取った。沙希は学園祭に出る生徒をレッスンしなければいけないらしく、話す時間も取れないほど忙しいようだった。
 一樹の生徒の野口琳もピアノ演奏で出ることになっている。特に文句のつけようがない演奏だった。何か足りないのだが、それが何かと考えると、彼の人生経験としか言いようがなかった。
「先生、あんな曲…弾いたりするんですね」
「ジャズ?」
「はい」
 なぜか怒った調子で頷く。
「色々やってみようと思って。アニメの曲も弾くと思いますよ」
「どうして、そんなことするんですか? 先生だったらそんなことしなくても、もっと」
「…僕もどうしていいか分からないんです。だから何でもやってみようと思ってね」
 そう言って、野口琳を見ると、信じられないと言うような顔で一樹を見ていた。そして立ち上がって、ぽつりと呟いた。
「僕の…僕の知っている桜木一樹じゃない」
 一樹はそう言われると、残念な気持ちにはなったが、他人に言われることでもないな、と思った。野口琳のレッスンはいつも気まずい感じで終わってしまう。
「じゃあ、本番、頑張ってください」
 野口琳は無言で、礼だけして出て行った。
 結局、彼には何も伝えることができないままなんだろうか、と一樹は自分の中でも消化できない思いが残った。

 放課後、選ばれたコントラバスの学生とパーカションの持田先生と三人で合わせることになった。
「まさか桜木先生が出演するとは…。学生たちも頑張りましたね」
「囲まれましたからね」
「じゃあ、お手柔らかに」と言われた。
 その一言を聞いて、一樹はお手柔らかにはしないことに決めた。最初の一音を透明感を持って響かせる。メロディーが流れ出した。本当にかわいい曲だ、と一樹は思った。ジャズであれ、何であれ、音楽は人の気持ちを揺さぶる。コントラバスの生徒は今日渡されたであろう楽譜なのに必死でくらいついている。相当優秀な生徒に違いない。
「もっとラフでいいよ」と一樹は言った。
「はい。ちょっと必死で」
「うん。でも君メインのところは…そんなに必死にならなくて、楽しんでやって」
「はい」
 持田先生のドラムには何も言うことがなかった。一人で弾くのとは違って、やっぱり楽しいな、と一樹は思った。特にジャズは会話するように相手との対話が必要で、それも面白い。持田先生の様子伺いもはっきりわかって苦笑いするしかなかった。 
 一時間ほど、練習した時に、持田先生は「じゃあ、本番で」とさっと立ち上がる。
「あ、私、もう少し練習します」とコントラバスの学生が言うので、一樹は少し付き合うことにした。
「意外と桜木先生って面倒見いいんですね」と持田先生が横槍を入れる。
「面倒見の良さ、知られてないんですね」
「かなり意外でした。付き合い悪そうなので」
「付き合いは悪い方です」
 そう言うと、持田先生は軽く口で息を吐いて、
「僕は予定があるのでお先に失礼します。…楽しかったですよ。また機会があれば」と言って、さっさと出ていった。
「…すみません」とコントラバスの学生が恐縮している。
「後、少し練習したらかなりよくなると思うよ」
 そう言って、練習を再開した。なんせ時間がないのだ。できるだけの範囲でやれることはやろう。
「とにかく、ジャズだし…楽しんで弾いて。それが一番かな。後、一生懸命やりすぎると、指の皮捲れて、本番弾けなくなるから」
「はい。…あの、下手くそで…。着いていくのが精一杯なんですけど。すごく楽しいです。先生方すごいし」
「…よかった」
 そう思ってもらえる相手と、うまく行かない相手は相性の違いだけだろうか、と一樹は野口琳のことを思っていた。
 
 桜は一日、時間が出来たので、東京の動物園に出かけた。パンダを見たり、ぶらぶらした。平日なので混んではいなかったけれど、家族連れもいて微笑ましかった。動物たちを見ていると桜は引き取られた猫の親子を思い出したが、何の連絡もない。東京はビルばかりかと思っていたら、大きな公園もあるし、昔ながらのお店も多い。不思議なところだと思った。でもどこに行っても人が多いのだけは慣れなかった。お店も、電車も、道も驚くほど、人が溢れている。お昼はちょっと贅沢をして美味しいお寿司を食べに行った。感動するくらい美味しくて、一樹にも食べさせてあげたいなぁと思ったけど、ご飯いらないとメッセージが来てたので持ち帰りもしなかった。浅草は葉子と一緒に行くので、今日はスカイツリーに行ってみた。夕方、薄暗くなって来ていたので、しばらくすると夜景が楽しめるはずだ、と桜は思った。雲の中に入るんじゃないかと思うくらい高い場所で、遠くまで見渡せたけど、自分の街はそれよりも遠い。薄暗くなって、綺麗な青色に染まる。どれだけの人がこの綺麗な青い世界にいるのだろう、と桜は思った。夜になる手前の一瞬だけ、街が青く沈む。写真を撮って、母に送った。
「スカイツリー、綺麗だよ」
 すぐに返事が来た。
「いつか行ってみたいわぁ」とかわいいスタンプも付いていた。
「元気?」と続けて送られてくる。
「うん。元気。日曜は浅草に行くの」
「浅草。そこも行ってみたいわー」
「じゃあ、そろそろ帰るね」と言って、またねと言うスタンプを押した。
 母からは気をつけてと言うスタンプが返ってきた。母とのメッセージをやりとりすると、寂しさが込み上げてくる。これだけたくさんの人がいるのに、桜はたった一人でここにいると言うことが辛くなってきた。
「佳はすごいなぁ…」
 下に降りる前にもう一度、青い街を眺める。長いエレベーターを下って外に出た時にはもうすっかり夜の街に変わっているはずだ。
「あの…写真撮ってもらっていいですか?」
 カップルに声をかけられた。桜はもちろん、と言ってスマホを預かる。
「二枚くらい撮りますね」と言って、画面越しに恋人同士を見た。
 幸せそうな笑顔で肩をくっつけあっている。その笑顔を上手く収めて、スマホを渡した。
「あ、あの…私も、一人なんですけど、撮ってもらっていいですか?」と言うと、カップルは快く受けてくれた。
 一人で写真撮ってもらうのは恥ずかしかったけれど、スカイツリーに行った記念になる、と思った。そして家に帰ろうかな、と思った時に一樹からメッセージが入った。
「思ったより早く終わりました。桜も出てきて、一緒にご飯食べない?」
 知らない街で、誰かと待ち合わせできることが本当に嬉しかった。
「はい。今、スカイツリーに来てて」とついでに証拠写真のように、さっき撮ってもらった写真も送りつけた。
 写真も既読になって、しばらくしてから待ち合わせ駅が来た。桜がその駅まで検索していると、「かわいい」と通知が来た。一樹はボキャブラリーの少ないギャル以上にかわいいしか言っていないと桜は思った。
 
 待ち合わせの駅で一樹の姿を探したけれど、今度は大きなターミナル駅なので、すぐには見つからない。人の多さに不安になりながら、キョロキョロしていると、肩を叩かれた。
「お姉さん、暇?」
 桜は金髪の若い男性に声をかけられて、固まってしまった。初めてナンパをされたからだ。
「ご飯行く?」
「あの…待ち合わせしてるんで」と言って、一樹に電話をしながらその場を離れた。
 電話はすぐにつながって、場所を教えてもらったけれど、自分がどこにいるのかも分からない。電話をしながら、歩いていると肩が知らない人とぶつかる。頭を下げながら周りを見回す。
「桜」
 向こうの人波から一樹が一瞬見えた。待ち合わせるだけで一苦労する。何とか一樹のところまで行くと、手を繋がれた。
「時間が帰宅ラッシュだから…」
 会えただけで、ほっとして桜は黙って付いて行った。
「何か食べたいものある?」
「あ、…お昼、お寿司食べました。とっても美味しかったです。一樹さんにも食べさせてあげたかったなぁ…」
「一人でお寿司食べに行ったの? 一人でスカイツリーも?」
「はい。大冒険でした。東京って広いんですね。だからちょっと疲れました」
 想像すると、一樹は可愛くなって笑ってしまった。
「なんで、笑うんですか?」
「なんか…一人で美味しそうに寿司を食べてるの想像したら、かわいいなぁって思って」
「え? そうですか?」
「お昼、寿司だから…じゃあ、天ぷらにしよう」
「わぁ。嬉しい」と言って、桜の笑顔が弾けた。
 その笑顔を見て、一樹はちょっと眉間に皺を寄せた。
「美味しいもの食べようって言われても、知らない人に付いて行かないように」と急に真面目な顔で言われた。
「ちゃんと断りました」
「え? 声かけられたの?」
「美味しいものとは言われてないですけど」
 一樹はため息をついて、「待ち合わせ場所、もっと考えればよかった」と言った。
 連れて行ってもらったお店は一樹の祖父の知り合いらしく、上品な店で、桜一人ではとても敷居が高くて入れそうにない店だった。個室に通されて、桜は一日歩いていた足を解放できたし、出されるもの全てが美味しくて、お腹がきつくなっても最後まで食べれてしまった。桜が幸せそうに食べる姿を見れたので、一樹もここに連れて来てよかったと思う。
「あ、そうだ。日曜日、学祭に出ることになったんだけど」
「学祭?」
「うん。なんか急に…出てって言われて」
「大ホールですか?」
「うん。まぁ、そこそこ大きいホールで」
「間に合えば…ぜひ聞きたいです」
「六時頃になるかな…。最後のオケの前にするから。もし来れたら。葉子ちゃんにも聞いてみて」
「はい。多分、六時まで観光してたら疲れてしまいます」
「山崎の家にお邪魔するのが少し遅くなると思うんだけど…」
「あ、そうですね。私は先に行っておきますね。何弾くんですか?」
「この間のラジオの曲がなんか、いいって言われて…。後、この間、家に来た沙希と連弾もするんだ」
「沙希さん?」
 あの美しい一樹の元恋人…。桜はもう一度会いたいと思っていた人にまた会える、と思ったけれど、二人がピアノを弾いてる姿を見るのはどんな気持ちになるか自分でも分からなかった。
「桜?」
「あ、楽しみにしてます」と言って、にっこり笑った。
 笑いながら、桜は今までとは違う何かを感じていた。その嫌な気持ちを見ないために、笑顔で蓋をした。
「葉子ちゃんにメッセージ、今、送っておきますね」
「桜…。沙希のことは…過去のことだから」
 一樹が気を遣ってくれるから、桜はメッセージを葉子に送りながら、正直な気持ちを伝えた。
「…きっと一樹さんは沙希さんのことを忘れることはないし…、気持ちが消えることもないんです。その一樹さんに私は会ったんだし…。それに私、まだ何も一樹さんに答えてないから、そこに何かを言う資格もなくて。私はただご厚意に甘えさせてもらってるだけで…」
 送信すると、すぐに既読になった。
「私の方がずるずると…答えを出さないのに、こんなに優しくしてもらってて…申し訳ない気持ちもあるんですけど」
 かわいいキャラクターが喜ぶスタンプと「音大の学祭行けるなんて楽しみ」と返信が来た。
「日に日に一樹さんを好きになっていく気持ちと…、でも不安も同じだけ増えて」
 桜もキャラクターが喜んでいるスタンプを送り返す。
「好きっていう気持ちだけでは…今は暮らせないです」
 全部、本当の気持ちだった。今日、東京を一人で歩いてみて、自分の場所がどこにもなかった。居場所を作れる自信も見つからなかった。一樹はずっと桜の一言一言を聞いていた。
「僕の…魅力不足かな?」
 桜は首を振った。
「そうじゃなくて、自分のこれからのこと…ちゃんと考えれてなくて。でも一樹さんのこと好きで…だから悩んでます」
 好きじゃなかったら、きっと何を言われても帰っていた。桜は日曜の約束があるから、と言うのを理由にずっと帰らない自分も分かっている。でも今の自分がここで暮らすことも想像できない。
「桜」
 俯いていたことに気づいて、顔を上げる。
「好きって言ってくれてありがとう」
 一樹の優しい笑顔に胸が詰まった。
「好きです。一樹さんが誰かを思っていても、気持ちは変わりません」
「前にも言ったけど、桜のタイミングで考えたらいいから、そんなに思い詰めないで欲しい」
 いろんな思いがまだ胸の中に詰まっていたが、桜は笑顔で隠した。自分でもまだ消化できてない思いもある。
「僕は単純に桜がそばに居て、楽しいし…。昨日は一緒に寝れて、幸せだったから」
 昨日一緒に寝れてと言うのはほぼ一樹が無理矢理そうしたことだった。それで桜は一言言おうと思った。
「あ、昨日のは…ひどいと思います」
「え? 猫が布団に入ってくるような優しい気持ちになれたのに?」
「猫? 一樹さん、猫アレルギーでしょ? 知らないでしょ?」
「うん。だから想像してた。桜が腕の中ですやすや寝てるのを見れて、とっても幸せだったのに」
「私が寝てるところ? じゃあ、一樹さん、起きてたんですか? やっぱりひどいです」と桜は横を向いた。
「結構、我慢したのに」
「我慢って…」と一樹の方を向いて文句を言おうとした。
「だって、桜のこと好きだから」
 そう言われて、何も言えなくなった。色素の薄い目が桜を見ている。その透き通った目が本当に綺麗だと思って、桜は一樹の全てが欲しいと思った。分かったようなことを言ったけれど、自分の心の淵をのぞいたようで、眩暈を覚える。そんな初めての自分にも戸惑った。
 多分、一瞬のことだった。
「我慢してください」
 それは自分に言った言葉なのかもしれない、と桜は思った。
 
 
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