第15話 絵本のメニュー

文字数 5,362文字

 男の子は時間通りに非常階段に行ったけれど、やはり女の子には会えなかった。起き上がれないのかな、と心配して、そして少し寂しかった。すぐに部屋に戻って、ベッドの中でラジオを聞いた。いつものタカシーンのオープニングトークも面白かったけれど、共有できる人がいないと、残念な気持ちになる。彼女もラジオを買ってもらえただろうか。そんなことを聞きながら、今日のラジオを聞きながら、目を閉じた。

 桜は一人で家に帰って、すぐにおにぎりを作った。お腹いっぱいだけれど、遅くなるって言っていた一樹が帰ってきた時に食べるかもしれない、と思ったからだ。食べなかったら、明日の朝ごはんにすればいい。そしてお風呂に入って、万全の体制でラジオをつけた。

 夕食は古い洋食のレストランで食べた。テーブルの上には小さなランプが置かれている。メニューはどれも美味しそうで、少し値段がするものだった。
「何でもいいから」と言われて、桜はソーセージとポテトを頼んだ。
「それでいいの?」
「はい。これ、大好きな絵本のメニューなんです」
「そうなんだ」
 桜はその絵本を説明した。「おちゃのじかんにきたとら」という絵本で、突然来たとらにご飯も水も全部食べられて、晩御飯は帰ってきた父親と外食に出かけるという話だ。
「絵も素敵で、とらも全然遠慮しないで全部食べてしまって。でも女の子とお母さんは途方に暮れるだけで、怒ることもなくて。お父さんがご飯に連れていってくれるっていう幸せなお話なんです。その外食のメニューがソーセージとポテトのご馳走です」
「へぇ」
「私の家は外食、あんまりしたことなくて。お弁当屋だから残り物食べたりして」
「そうなんだ」
「だからこんなレストラン…。絵本に出てきたような素敵なところに来れて、とっても嬉しいです」
 不思議そうな顔で一樹が桜を見ていた。
「彼とは行かなかったの?」
「学生だから、ファミレスとか、ファーストフードとか…フードコートとか、そう言うところです」
「なるほど」と頷いたが、一樹はあまり想像できなかった。
 一樹の家はもともと土地を持っていたのもあるし、会社も経営していて、お金には何不自由なく暮らしていた。一樹が幼い頃に離婚して、すぐに父は他の人と再婚をし、暮らし始めた。一樹の母は離婚後、一樹を置いて出たので、父親ではなく祖父の家で暮らすことになった。祖父母は同情してくれたのか、一樹に財産と家を譲り、お金に苦労したことは一度もなかった。ピアノをしていたのは、祖父母の影響だった。祖母がピアノ教師だったから幼い頃から教えてくれた。
「一樹さんは学生の頃からこんなレストランばっかりだったんですか?」
「デートの時はね。やっぱり喜んで欲しいし」
「すごい」と驚いた顔をした。
 そしてソーセージをポテトが運ばれてきた時は桜は本当に嬉しかった。小さい頃から何度も読んでいた絵本のメニューが絵本のようなレストランで食べられることに感動していた。正直、ソーセージとポテトなんて、家でも再現できるけど、できたらレストランで食べたかった。小さい頃、いつもお弁当の残りのおかずで晩御飯を食べていた桜には絵本のレストランへ行くことも夢のようだった。
「食べないの?」
 一樹はポークチャップを頼んでいて、すでにナイフで切り始めていた。
「感動で、胸が詰まってます」
「え? ソーセージで?」
「そうです。レストランで、ソーセージとポテトを食べると言うことです。私が小さな女の子だったら、足をバタバタさせたいくらい…」
 一樹もそれを聞いて、小さな桜が足をバタつかせて、喜んでいるのが想像できた。
「お弁当の残りも美味しいんですよ。もちろん。でもおしゃれして、家族で…ご飯を食べに行くなんて…」
「じゃあ、明日から外で食べようか? 足も良くなったんでしょ?」
「そんな…一樹さんにそこまでしてもらうのは…」と桜は言った。
「怪我もさせてしまったし。明日は出かけるんでしょ? だからご飯作らなくていいよ」
 怪我は元は桜が無理に寄り掛かってと言うのもあるが、もちろん老朽化していたことも否めない。
「あ、そうです。あの…服の大型量販店とかどこら辺にありますか?」
「服? 大型量販店?」
 言ってから、桜は一樹がそんなところに行ったことはないのだ、と思った。
「明日、昼から出かけよう」と一樹が言った。
「一緒に? ですか?」
「うん。そしたら晩御飯も一緒に食べられるから。…早く食べないの?」
 桜はまさか付き合ってもらえるとは思っていなかったので、戸惑いもあったけれど、晩御飯のことを考えると納得した。そして目の前にある夢に見ていたご馳走を食べた。レストランのソーセージはやはり想像以上に美味しくて、幸せだった。ふと視線を感じて、一樹を見ると、嬉しそうに笑っていた。

「今日のゲストはピアニストの桜木一樹さんと、ウッドベースの田中興一郎さん、そしてドラムの安斎守さんです。このお三方に演奏してもらうのは最近、この番組で盛り上がっていた、星のタトゥを入れたジャズピアニストさんが弾いていた曲です。彼女が聞いてくれてると嬉しいな、と思うのは僕だけじゃないはず」
 DJが軽快なトークで素早く紹介をする。
「どうか、彼の思いが届けられたらいいなぁ、と思って。『もう一度会いたい。でもそれが叶わないなら…好きだったって伝えてほしい。僕の代わりに誰かに知ってる人がいたら、僕の気持ちを伝えてほしい』」
 そしてピアノの音が鳴った。
 音が透明な雨粒のように弾けて消える。桜はソファで毛布をかけて寝転んでいたが、思わず起き上がった。リハーサルで聴いた音と全然違う。どの音も色鮮やかで、綺麗な音色とそして何より、小さな女の子の笑顔が浮かんでくるようなメロディラインだった。リハーサルではあんなに好戦的だったのに、今聴いているのは、物語が見えるような美しい音色だった。曲が進むにつれて、参加していく楽器は一樹の音を意識して、つながっていく。リハーサルでは自己主張の大きい演奏していた人たちとは思えなかった。
『びっくりすると思うよ』
 そう言っていた意味が分かった。
「ピアニスト…。もっと…みんなに聴いてもらわないと」
 桜の目から涙がこぼれた。その涙はどういう意味かは分からないけれど、止まらなかった。誰が悪い訳でもないのだけれど、「どうして?」と呟やいた。

 出演が終わって、一樹がスタジオから出ると、山崎に肩を叩かれた。
「よかったよ。リハはどうなるかと思ったけど」
 一樹は山崎をちらっと見て、ため息をついた。
「そのため息は何?」
「他の二人は宣伝で呼ばれたわけ?」
「あぁ、そう。アルバムを出す宣伝ついでに出てもらったの。あとコンサートの予定もあるし。まぁ、桜木くんだけ、何の予定もなかったけどね。だって、それは桜木くんの問題でしょ? コンサートもしないし」
「コンサートしたら、宣伝してくれるの?」
「そりゃ、もちろん。いつでも喜んで出演、待ってますよ」と山崎は言った。
 一樹はそんな気持ちには全くならないから、もう二度と出ることはない、と思った。しかしDJが他二人のこれからの活動を紹介しているのに、自分が全くの白紙だったことは流石に居心地が悪く感じた。いつまでも今のままではいられない、と分かってはいるが、どうも気持ちが動かない。
 後から出てきた二人に軽く頭を下げられた。特に言葉はなかったけれど、演奏で分かったから、一樹も少し溜飲が下がった。
「先、ママの店に行っててよ。ちょっと乾杯しよう」と山崎が言って、去っていった。

 赤いマネキュアが綺麗に塗られている。
「久しぶりじゃない。暇で、暇で仕方なかったわよ」と一樹が店に行くと、ママがつまらなさそうな顔で言った。
「そんなに久しぶりかな。一週間経ってないと思うけど…」
「今までは毎日来てたじゃない」
 そう言われると、何も返せなくなる。今日は客が全くいない土曜日だった。土曜日はいつも暇なのだが、客が一人もいないのは珍しい。一樹はカウンターに座った。
「土曜日も休もうかなぁって思うんだけど…。あの人が来るから開けてたの」
「ママは山崎さんと付き合いが古いの?」
「まぁね。私が銀座の蝶だった頃、よく飲んだわよー」
「銀座で飲むってすごいね」
「お仕事よ。経費で落ちてたの。あの頃はすごく羽振りがよくてね。社会全体的に。夜はきらきらしてたわよ。田舎から出てきた私には眩しい世界だったわ」
 ママが水割りを手慣れた様子で作って、目の前に置いた。
「同僚の女の子たちは政治家か企業の社長の愛人になったり…してたけど。私はなぜかあの人と一緒におでんかラーメン食べて帰ってたわ」と言って笑う。
「出会いはなかったの?」
「星の数ほどあったわよー。でも…結局、一人が楽なのよね。自分の店を持てるだけ頑張って働いて、後はもうのんびりしたくてね。桜木さんはなんで、奥さんと結婚したの?」
「タイミング…かなぁ。でもうまく行かなかったけど」
「桜木さんでダメなら、私なんて全く無理よね」
「いや…分からないよ。そんなこと。もっとわがままとか言えばよかったのかな。…でも言えなかった。特に相手に望むこともなかったし」
「それは、寂しいわよ。欲しい、欲しいもダメだけど。あまりにも自己完結されちゃうと。与える喜びだってあるんだから」と言いながら、冷蔵庫からきゅうりのピリ辛漬けを出して、小皿に入れている。
「…妻のこと…好きじゃなかったんだ」
「そうなの」
 小さな小皿にきゅうりが山積みされて、目の前に置かれた。
「嫌いでもなかったけど」
「…最低ね」
 そう言って、優しく笑う。
「もういいんじゃない? 相当、苦しんだんじゃないの?」
「そうでもない。苦しさも…何も感じないから」
 ため息を吐いたのは、ママの方だった。
「で、ハムスターはどうしてるの?」
「あ…。それはハムスターじゃなくて、女の子を預かってるんだ」
「何それ? 預かって、どうするの?」
「どうもしないよ。怪我して帰られないって言うから」
「帰られないの?」
「まぁ、低いけど、二階から落ちてきて」
 ママは瞬きもせずに一樹を見て、「頭、大丈夫?」と言った。桜のことを説明している間に山崎がやって来た。
「はい、お疲れ、お疲れ」と賑やかに近寄ってくる。
「あれ? 今日、客0?」
「桜木さんがいるでしょ。もう土曜日も閉めようかしらね?」
「それは困るよー。ボトル下ろすから」と一樹の隣に腰を下ろした。
 さっさと新品のボトルを開けて、山崎に水割りを作る。
「そうそう。今日、ハムスターちゃん見たよ」とママに話しかけた。
「今、その話を聞いてたのよ。二階から落ちてきたんだって」
「は? つまらない冗談だな。あんな可愛い子が落ちて来るなんてある訳ないだろ」
 また最初から説明をしなければいけなくなった。
 説明を聞いた後、山崎は深いため息をついた。
「元彼の部屋の片付けに来たって…相当、お人好しだな。まぁ、そんな雰囲気あるけど」
「お母さんも自分の息子が突然死したから、ショックで動けないのも分かるけど、でもまぁ…優しいというか。ねぇ。その子、本当に落ちたのかしら?」
「落ちたよ。現場にいたから」
「そうじゃなくて、自分で…飛び降りたんじゃないの?」
「え?」
 一樹は落ちた瞬間は見ていない。落ちたのだろうか。飛び降りたのだろうか。でも柵も落ちていた。
「それは…分からないけど。でも普段の様子は元気いっぱいだけど? ご飯ももりもり食べてるし」
「そう? じゃあ、心配ないわね」とママは小皿に先ほどのきゅうりを盛った。
「心配って?」と山崎が訊く。
「そりゃ、後追い…しないかとか」
「元彼だよ?」と一樹が言った。
「元彼だって、好きだったんじゃないの? 振られても気持ちはあったかも。荷物整理して、何か見つけたのかもしれないし」
「そういえば、自分の書いた手紙が見つかったって…」
「思い出したんじゃない? いろいろ。それで突発的に…」
「まぁ、今日、見た限りでは普通だったけどな。葉子に懐かれてたし。ほんと、いい子だと思うよ」
「いい子だけど…」
 ママに言われると、何となく不安が広がる。元彼のこと、「もう好きじゃない」って言って泣いていたのも見ている。不安は広がって、膨らんでいった。
「ちょっと、帰ろうかな」
「え? 俺、今、来たばっかりなんだけど?」
「うん。また来週」
「ちょっと」と呼び止めているのに、心ここに在らずで、財布からお金を取り出してカウンターに置く。
「じゃ」
「おいおい。忘れ物」と山崎が床に置かれていたショッピングバッグを持って、振り上げる。
「あ、ごめん。じゃあ、また」
 もう止めることができないと、知って、二人はそのまま見送った。一樹が出て行ってから、山崎はママを軽く睨んで言った。
「わざと不安になること言ったでしょ?」
「えぇ? 本当にそうじゃないかと思ったのよ。でもまさかあんな…慌てる桜木さんを初めて見ることになるなんて」と言って笑っている。
「本当に可愛がってるんじゃないの?」
「でも…次の日曜日が終わったら、帰るらしいよ。何とか、葉子が延命を試みた訳だけど」
「そうなの? それまでに気がつくかしらね?」
「うーん。どうかな」
 山崎はグラスを少しあげて、琥珀色を揺らしてみた。もう楽になれますように、と願いを込めて。
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