第49話 再会

文字数 5,067文字

 桜から朝に何度かメッセージも入っている。でも結局、返事ができないまま、翌日の昼まで一樹は悩みながらピアノの練習をしていた。
(電話をしなければ…。桜を待たせている)と思っているのに、なぜか電話をする気持ちになれなかった。呼び鈴がなって、一樹は腰を上げて、玄関に向かう。お歳暮が届いたりする時期なので、宅配便だろうか、と思った。戸についている丸い窓から人影が見える。一樹は扉を開けた。
「いないかと思いました」
 そう言って、桜が小さな鞄を持って立っていた。一瞬、目を疑う。キャメルのコートを来て、白いマフラーをして佇んでいる。ハムスターの色だ、と一樹は思った。
「返事が来ないから…倒れてるかもって…思って」
 桜は喋っている途中で抱きしめられた。結構な力だったので、少し苦しかった。いつも返事はすぐにくれていたのに、返ってこないのが不安になって、家で倒れているのかも知れない、と思って、慌てて来たと言う。
「ごめん」
「あの…玄関先なので…」
「あ、入って」と言って、腕を解いた。
 一樹の家の匂いがする。桜はついこの前までここで過ごしていたのが不思議な気がした。ブーツを脱いでいる時に、「お正月…行きたいんだけど…」と一樹に言われた。
「お仕事ですか?」
「ううん。そうじゃなくて…」
 ブーツのファスナーを下ろす桜の手が止まった。
「あ、もしかして恋人ができたんですか…」
「え?」
「何も確認せずに来てしまって」
「いや、違うから。桜に迷惑かけるかなってちょっと悩んでて」
「迷惑? お正月来ることが?」
「ゆっくり話したいから、とりあえず上がって。靴…脱がそうか?」
「自分でできます」と慌てて、ファスナーを下ろした。
 ゆっくり話したいことっていい話じゃなさそうだな、と桜は思った。一樹はキッチンでお湯を沸かした。桜がキッチンを覗き込むとあまり使われている雰囲気はなかった。
「お茶…入れるね」
「あの、お菓子買ってきたいです。慌てて、何も用意してなくて」
 一樹は桜を見て、片手で顔を覆った。
「あ、ごめんなさい。お土産なくて」
「桜…。相変わらずで、可愛くて…。お菓子食べたい?」と笑いを堪えているようだった。
「あ、あのお菓子…も食べたいですけど…。お腹空いてて。朝もお昼も食べずに来たから」
「そんなに慌ててきたの?」
「はい。だってもし倒れてたら…って思ったら、なるべく早く発見した方が助かるかも知れないって思って。でも安心したらお腹空いてきました」
 返事はすぐにするべきだったと思ったが、こうして思いがけず会えたのは嬉しかった。プチンと音がして電気ポットのお湯が沸いたようだった。
「じゃあ、ご飯食べに行こう。僕も朝から何も食べてないんだ」
「本当ですか?」
「近くのカフェに行こうか」
「はい。あの…話って」
「歩きながら話そうか」
 そう言って、一樹は玄関に行く。玄関横にかかっている紺のショートコートに袖を通した。小さな窓から光が差し込んで、彫りの深い一樹の横顔に当たって影を作る。
「一樹さん…」
「ん?」
「何でもないです」と言って、桜は見とれていた。
 映像で見る一樹も綺麗だったけれど、目の前にいる一樹は格段に違っていた。せっかく脱いだブーツをまた履こうと玄関に腰をかけて、ブーツに足を入れる。一樹は横に腰を下ろして、桜を抱き寄せキスをした。
「会いたかった」
「私もです…。でもお腹が空き過ぎて、震えてきました」
 一樹はため息をついて、桜のブーツのファスナーを上げた。
「立てる?」と言って、手を差し出す。桜はその手に掴まって立ち上がった。
 そのまま、表に出る。冬の午後は柔らかい光を落としている。一樹が何を考えているのかは分からないけれど、桜は少しの間、幸せな気分を味わった。
「一樹さん、話が気になります」
「うん。あのね。事務所に誘われたんだけど…。それが芸能事務所で…」
「タレントになるんですか?」
「いや、そう言うつもりがないから断ったんだけど…。山崎が言うにはスキャンダルにも強いらしくて、僕だけならいいんだけど…。先のことを考えると、桜に迷惑がかかるかなと思って、悩んでて…返事ができなかった。ごめん」
 桜は一樹の顔を覗き込んだ。
「お正月、家に来るかも悩みましたか?」
「誘ってもらったのは嬉しかったんだけど…悩んでて。でも顔見たら…やっぱり手放せない」
 繋いだ手がぎゅっと握られる。
「一樹さん、私は一樹さんが望む形になったらいいなぁって思います。事務所の話も。私のことは心配しないで、大丈夫」
「でも…桜も有る事無い事書かれたら、僕が辛い」
「私、大したことしてないので、書くこともないと思いますよ? それより、一樹さんが女優とイチャイチャするとかの方が絶対嫌です」
「桜…。別に俳優になるわけじゃないから」
「だって、歌手と演奏してた時でも羨ましく思ってたぐらいですから」
「それって、嫉妬してたってこと?」
 立ち止まって聞かれる。
「はい。私も歌が歌えたらいいのにって思いました」
「伴奏しようか?」
 桜は一樹のピアノの横に立って歌っている姿を想像して、首を横に振った。
「それは音楽の歌のテストになってしまいます。あんな風に生き生きと、楽しそうに歌うのと違って…」
 一樹も想像して少し可笑しくなった。音楽の歌のテストは具体的に想像できた。その横で、突然、滝廉太郎の「花」を小声で歌い出す。本当に歌のテストみたいだ。季節感も全く違うのに、桜はご機嫌で歌っていた。
「この歌の日本語って難しいですよね…」
「昔の風景だし…今からは想像し難いと思う」
「櫂のしづくって、『貝の雫』って思ってたんです。貝の雫って何だろうって…。でも歌だから深く考えずに進んでいって。それで桜木先生、私の歌は何点ですか?」
「うーん。六十五点かな」
「えぇ。音外してましたか?」
「音は外れてないけど…ブレスの位置と、後…強弱がないのと…」
「鼻歌のような歌を専門的に採点するとは…」
 落ち込んだ桜を見て、ついうっかり真剣に採点してしまったことに気がついた。
「かわいいから百点」と言うと、じっと睨まれてしまった。
「そうやって、機嫌を取らなくていいです。一樹さんは思うようにやってください。もし私のことを思って、芸能事務所に所属するなら、このまま帰ります。そして二度と来ません」
「お腹空いてるのに?」
 桜は唇を噛んで、唸りながら頷いた。
「カフェ、あそこだけど?」
 もう緑のテントが見えている。
「それでも…一樹さんが思うようにしないと…絶対に帰ります」と言って、また唇を噛んでいる。
 親指で唇を軽くなぞって、噛むのを止めさせる。
「噛んだら、唇がかわいそうだから。…分かった。やっぱり断るよ。乗り気じゃなかったし」
「よかった」と言った瞬間、お腹が鳴った。
 桜は笑われるかと思ったら「ありがとう」と言われた。
「それで…本当に二度と会わないつもりだった?」
「だって芸能人ってそんなものじゃないですか? 売れない時期を支えた妻とか恋人とか捨てて、綺麗な女優さんとかアイドルとか結婚するでしょ?」と口を尖らせて言う。
「人によると思うけど…。桜、何食べる?」
 お店の看板の前に立っていた。桜は目を輝かせて看板を見入る。すぐに決まったようで、一樹を見て、にっこり笑った。
「この牛頰肉の赤ワイン煮込みにします」
「美味しそうだね。じゃあ、同じのにするよ」
 そう言って、カフェに入ると結構賑わっていて、テラス席しか空いてないという。一樹は他の店に行こうかと言ったが、桜は空腹と、牛頰肉赤ワイン煮込みがどうしても食べたくて、目を潤ませて首を横に振った。
 テラス席に座るとブランケットを持ってきてくれて、桜はそれをコートの上から膝にかけた。二人横並びで座る。白い柵で囲われてはいるが、通りの人たちが歩いているのが見える。
「僕のも使う?」と一樹が渡してくれたが、桜は首を横に振った。
「あの…私もお話があります」
 桜は居住いを正して、一樹の方を向いた。
「一樹さんのこと、好きです。付き合ってください」
 真剣な眼差しで言われて、一樹は一瞬、唖然とした。
「…あの、結婚を前提でお願いします」と言ってから、桜は顔を赤くした。
「前提? 結婚はまだダメなの?」
「ダメです」
「え? どうして?」
「だって…まだお付き合いをしたいからです」と言いながら俯いてしまった。
 そのかわいい言い訳に一樹は胸を突かれた。
「分かった。いつまで?」
 桜は瞳をくるっと動かして考えると「季節が一巡するまで」と言った。春にはお花見して、夏は山に行って、と楽しそうに予定を言う。
「楽しそうだね…」
「でも一樹さんは大忙しであんまり一緒にいられないかも知れませんね」
「さぁ、来年のことはまだ分からないな」
 そんな話をしているうちに、サラダとスープが運ばれてきた。
「あ、ホットワインがあるけど、飲む?」
「はい、飲んでみたいです」
 店員にホットワインを二つ頼んで、サラダとスープを食べる。桜はお腹を空かせていたらしく、どちらも綺麗に片付けた。メインが来る前にホットワインが来た。
「あ、あつい」と桜が慌てて、テーブルに置き直す。
 ガラスのコップに入っていて、持つのにも少し熱かった。シナモンの香りが立つ。
「いろんなスパイスが入ってますね」と言って、注意しながら少し口に入れる。
「でも甘くて美味しい」
 冬にはうってつけの飲み物だ、と桜は思った。ドイツに行った事はないけれど、きっと寒くて、でもこれを飲んで温まるんだろうな、と桜は想像した。
「よかった。…家に帰って、ゆっくりできた?」
 ホットワインのおかげで体が温まる。
「はい。毎日、お弁当のお惣菜とか、お母さんのカレーとか食べて…家のお手伝いしながら…おにぎり作ったりして。一樹さんのラジオ聞いて…。でも一樹さんと離れてみて、とても会いたくなって、辛くて…。お母さんに相談したら、『当たって砕けろ』って言われました」
「どうして砕けるの?」と一樹が不思議そうに言った。
「だって、お父さんが結婚はいいことばかりじゃないって…。お母さんに苦労かけたって」
「お父さん、優しいんだね」
「大好きですよ。お父さんのことも、お母さんのことも…。でも…やっぱり一樹さんに会いたくなって。メッセージ送ったのに返事がないから、来ちゃいました」
 一樹が携帯を見ると、朝から「大丈夫ですか?」とか「一樹さん?」とか、「今から行きますね」とか送ってくれていた。
「ごめん。こんなに送ってくれてたのに…」
「離れてると…やっぱり心配になりますね」
 ようやく牛頰肉の赤ワイン煮込みが運ばれてきた。マッシュポテトの上に手のひらサイズの肉が乗っている。赤ワインソースが上からかけられていた。
「美味しそう」と桜は声を上げる。
「パンもどうぞ」とバゲットのカットされたのがカゴに入って置かれる。
 早速食べ始めて、幸せそうな顔を見せてくれて、一樹は桜が久しぶりに近くにいることを実感する。
「桜…苦労かけたり、迷惑かけたりするかもしれないけど…」
「それはお互い様です。一樹さん、食べないんですか? 美味しいですよ?」と笑顔を向けて、肉の塊をフォークに刺した。
「ずっと一緒にいて欲しい」
 桜は牛肉を口に入れたところで、一樹を大きな目で見た。
「指輪も何も用意してないけど…」
 噛むことを忘れたのか、膨らんだ頬のままじっと見ている。
「結婚を前提に…婚約者として側にいて欲しい」
 ゆっくりと頷くと、桜の目から涙がこぼれた。ようやく噛むことを思い出したみたいに口を動かしながら、鞄の中からハンカチを取り出した。
「びっくりしました。プロポーズされるなんて思ってなくて」
「僕も告白されるとは思ってなかったから」
 桜は涙を拭きながら一樹を見ると、幸せそうに笑っていた。それを見ると、勇気を出してよかった、と思った。ここに来るまでは何かあったんじゃないかと心配で、慌てて家を出てきた。あまり説明せずに飛び出してきたから、きっとお父さんがお母さんを問い詰めているのだろう、と思うと申し訳なく思うけれど、それでも一樹の笑顔を見るとそれでも良かったと思える。
 少し冷たい風が吹いた。桜は一樹の肩にもたれて、外を眺めた。木にはまだ葉っぱが残っている。季節が一巡するのを隣で見て、そこから家族になる。これからの時間がかけがえのない思い出に変わっていく。
 母親からのメッセージが届いた。
「お父さん、どうしてか、駆け落ちしたって言ってるわよ?」
 桜は笑いながらそのメッセージを見せたけど、一樹は焦って、「電話しようか」と言った。
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