第19話 記憶の秋

文字数 3,808文字

 遠くでピアノの音がする。桜はいつもと違う匂いに包まれているのを感じながら、目を開けた。一樹のベッドの中にいた。目が腫れぼったくて、瞼が重い。天井を見上げて、息を吐いた。真っ暗な中にいて、一樹の暖かさと「死なないで」という言葉だけが繰り返された。体を起こして時計を探してみる。何時なのか分からないけれど、まだ真っ暗だった。
 ずっと泣き続ける桜をいつまでも抱きしめていてくれた。ワンピースも着せてくれて、一緒にアパートから帰ってきた。
「ベッドで寝た方がいいね」と言って、一樹の部屋のベッドに座らせてくれた。
「眠れる?」
 桜は首を横に振った。
「でも横になって…目を閉じて、少し休んだ方がいいから。水持ってくるから。待ってて」
 そう言って、降りていった。桜は一樹の匂いのする部屋でぼんやり座り、学が夢で桜の首を絞めていたことを思い出した。一体、どれほど、桜は学のことを信用していなかったのだろう、と思った。そして自分が許せなかった。
 ドアがノックされて、一樹が水と濡れたタオルを持ってきた。
「顔拭いて、お水飲んで」
 声をかけても、全く桜が動かないので、一樹がタオルで顔をそっと拭った。タオルはほんのり暖かく、油断するとどうにかなりそうだった。
「…優しくしないでください」
「じゃあ、自分で水飲んでくれる?」と言ってコップを渡す。
 受け取りはしたが口に運ぼうとはしなかった。一樹はコップを持った手を上から包んで、そっと持ち上げて口に運んだ。仕方なく、桜は水を少し飲んだ。
「いい? 事故だったんだ。君のせいじゃない」
 首を横に振る。
「私が電話を取っていれば…。ちゃんと話を聞いていれば…。もっと信用していたら」
 一樹は黙って聞いていた。
「…後悔しても…届かない」と桜は呟いた。
「もう水はいい?」
 頷いて、そのまま顔をあげなかった。一樹はコップをサイドテーブルに置いて、桜をベッドの上にそっと横たわらせた。でもバネのおもちゃのように桜が跳ね起きる。
「もう一回、ごめんね」と言って、一樹は覆いかぶさるように桜を押し倒して、抱きしめた。しばらく下で桜が暴れていたが、力尽きたのか、大人しくなった。
「今日はもう寝なさい」と言って、一樹が横抱きにしながら、桜の髪を撫でる。
「私のせいで…」と桜は繰り返しながら、しゃくり上げた。
 黙って、何度も髪の毛を撫でられるうちに、桜の瞼がどうしても重たくなってくる。それをどうにか首を振って、抵抗しようと試みる。
「自分を許せないなら…それでもいいから。僕のために、死なないで欲しい」
 桜は一樹の胸に頭を擦り付けて、聞いていた。自分を許せはしないが…、もし桜が死んだら、さらに一樹は辛くなるだろうか、と考えた。そんなに深い付き合いをしているわけでもないのに…、と思いながら、一樹の暖かさが体の力を抜いていく。そして優しく髪の毛を撫でられて、意識が遠のきそうになる。
「どうか…死なないで」
 その言葉は桜にだけ向けられたものじゃないような気がした。そして桜は眠りに落ちた。
 しばらくそのままにして、深い寝息に変わってから一樹はベッドから抜け出た。

 一樹は一階に降りて、桜が用意していた焼き鳥丼を食べた。冷えていたが、味は美味しかった。何があったのか詳しくはわからなかったが、どうやら桜が恋人の浮気を勘違いし、それを思い込み、結果、別れた。だから桜のせいで彼が亡くなったと思っているようだった。
「だから?」
 誰もいないダイニングで一樹は呟いた。生きてる人に責任を負わせていいわけがない。そう思ったが、反面自分はどうかと思うと、胃の辺りがすっと冷える。
 晩秋の夜は暖房を入れた方がいいのか、少し迷うくらい寒くなっていた。すっかり体が冷え切っていた桜だったが、大丈夫だったのだろうか。
 妻が日本に帰りたいと言ったのも、秋の終わりだった。晩御飯を食べ終わって、コーヒーを飲んでいた時だった。
『桜木くん…。私、少し疲れたの』
『どうかしたの?』
『ドイツの冬ってすぐ暗くなるし、朝もいつまでも暗いし…』
『そうだね』
『しばらく日本に戻ってもいいかな?』
『分かった』
『桜木くんは一人でも大丈夫?』
『適当にできるから…。…何か、辛いの?』
『ううん。怪我でバレエができないのは辛いけど…。桜木くんは優しいし…。幸せよ。ねぇ、あの曲弾いて』
 ショパンのワルツ4番を弾く。この曲で妻は踊るのが好きだった。ダンサーとして踊るのは難しいけれど、軽くステップ踏むくらいはできるようだった。手足が長くて、首も細い、踊る妻は綺麗だった。
『ねぇ…。本当に素敵な曲』
『ピアノは? 演奏はそうでもない?』
『もちろん演奏はとびきり素敵。じゃあ、私のダンスは?』
『綺麗だ』
 くるくると回って、ピアノの横に来た。
『しばらく会えなくなるけど…。ありがとう』
『何に?』
『ピアノ演奏…。それからいろいろ』
『いろいろ?』
『そう。一緒にいてくれて、いろいろしてくれて…ありがとう』
『そうかな? 特に何もしてないけど…?』
『そういうところも含めて。何もしてないけど、側にいてくれたじゃない』
『…ん?』
『深く考えないで。感謝してるの。それだけ』
『何かした方がいい?』
 妻はゆっくり微笑んだ。
『気にしないで。ただ、本当に幸せで、感謝してるの。それだけ』
『…? でも辛いの?』
『だって、桜木くんにはどうしようもできないじゃない』
『何が?』
『ドイツの冬を変えれる?』
『気候は変えれないけど、好きにはできるんじゃない? 僕は好きだし』
『ダメなの。…もう無理なのよ』
 ヨーロッパの冬は夜の時間が長くなる。それに従い演奏会も増える。一樹がいない夜も増えるし、練習時間も必要になり、夫婦で出かけることも難しい。
 もともとそんなに一緒に出かけることもなかった。たまたま同じアパートに住んでいた日本人同士ということで、挨拶を返すだけの間柄だった。ある日、練習中に扉をノックされて、一樹が出ると、よく見かけていた妻がいた。
「ピアノ…弾かれてるんですか?」
「あ、うるさかったですか?」
「いえ。私、バレエしてて。練習したくてピアニスト探してるんです」
「あぁ。僕、来週から少しポーランドに行くので、友人を紹介します」と言って、一樹は何人かの留学生の名前と連絡先を渡した。
「ありがとうございます」
 そう言って、メモを持って帰って行った。それから一樹がポーランドから帰ってくると、紹介してくれたお礼だと言って、おでんが詰まったパックを持ってきてくれた。
「日本食、送ってもらったので」
「あぁ、ありがとうございます」
 なんだかんだと、いろんなものをもらうので、一樹はお礼に食事に誘った。細いので、何を食べるか聞いてみると、少し考えて「カフェでサラダでもいいですか?」と言う。厳しい体重制限があるので、あまり外食しないのだ、と言う。そういうわけで、初デートはカフェでサラダとサンドイッチという内容だった。何を話したかあまり覚えていない。もうドイツも四年いると言っていた。一樹はイギリスに行って、そこからドイツに来たばかりだったので、色々教えてもらったような気がする。
 海外のコンクールで優勝すると、演奏会が多くなった。部屋に戻ると、洗濯するのも億劫だった。それでも次の公演での着替えがないと困る。洗濯機を回しながら練習をした。
 そんな時に、日本食を届けてくれるのはありがたかったし、燕尾服のボタンが取れてしまったというと、すぐに付けてくれた。衣装の直しを自分でしているから、ボタン付けくらいは簡単だと言ってくれる。
「何か困ったことない?」
 会うたびにそう聞いてくれた。押し付けがましくはなかったので、一樹は頼むこともあった。
 そうして気がつけば毎晩、スープを届けてくれるようになった。自分が食べるのに作っているもののお裾分けだから遠慮しないで、と言ってくれる。スープなので、夕飯を済ませた後だとしても、明日の朝食に食べれるので助かった。偏りがちな栄養を補ってくれるような野菜がたっぷり入っていて、味も美味しかった。
 突然、スープの配達が来なくなり、一樹は少し心配になったものの、自分からは様子を見に行くのは辞めておいた。何らかの用事があるかもしれない、と思って、ちょうど一樹もスペインに行くことになっていたので、しばらく会わなかった。
 スペインから帰ってくると、荷物が運ばれて、誰かが引っ越しするようだった。一樹が自分の部屋の鍵を開ける時、背中を軽く叩かれた。
「ひさしぶり」と妻が立っていた。
「あ、どうしてたの?」
「…ちょっと怪我をして入院してたの」
「そうだったんだ。大丈夫?」
「うん。…でもそれでバレエができなくなって、日本に帰ることになって。友達が大きな荷物を引き取ってくれるっていうから。うるさくしてごめんね」
「そっか。いつ帰るの?」
「明日…」
「急なんだね」
「もう会えないのかと思ってた」
「あ、ちょっとスペインに行ってて」
「桜木くんに会えてよかった。あのね…本当は帰たくない」
 一樹は流石に気持ちに気づいていた。知らないふりをしようかと思ってはいたけれど、それは誠実なことじゃないと分かっていた。
 嫌いでもない。
 でも好きでもない。
 ただ目の前の夢が途中で終わってしまった彼女に同情した。
「時間、あったら…よかったらお茶でもどう?」
 扉を開けて、重たいスーツケースを押した。少し投げやりな気持ちで。
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