第7話

文字数 5,126文字

 11.

「確かに異界の住人は、」クリムゾンが左の掌を、突き立つコンバット・ナイフともども持ち上げる。「銀を〝操ること〟と〝すり抜ける〟ことはできない」
 クリムゾンの傷口からは――黒い霧。
「だけど、それだけだ」クリムゾンの右手がコンバット・ナイフの柄を掴み――引き抜く。「抜き取ってしまえば、傷だってこの通り――、」
 クリムゾンの左手へ凝集、黒い霧。見る間に傷が掻き消える。「――跡の一つも残らない」
 ノワールが口を開き――かけて、そこで呪縛に阻まれる。
「まぁ待ちなよ、」クリムゾンが小首を傾げて、「これでもキミを褒めてるんだ。知的好奇心に刺激をくれる、そのやり方にね」
 ノワールが歯を軋らせ、腹の底から唸りを上げる。
「ヴィオレッタ、だね?」クリムゾンが片頬を吊り上げた。「君の中の〝力〟を解放したのは。つまり彼女を魂へ直に憑かせたわけか――なら詠唱の時間も要らないわけだ」
 そこで、クリムゾンから――嘲笑。「堕ちたものだね」
 ノワールの瞳に怒りが燃える。
「『人間の魂を〝喰らわ〟ない』――」クリムゾンの声に嘲弄の色。「――キミの〝主義〟だったね? ――いや、〝意地〟と言った方が正確かな?」
「……僕は……!」呪縛の底から、ノワールが声を絞り出す。「……人間……だ……!!
「そう、」クリムゾンはむしろ満足げに、「魂を〝喰らえ〟ば、そんな手間も要らないのにね。それに〝力〟も引き出せる」
「……何が……!」ノワールが歯を軋らせつつ、「……言いたい……!?
「キミの左眼――私が授けた〝力〟のことだよ」ノワールの瞳に、喜悦の色。「気付かなかったのかい? そんなキミの魂に憑いたヴィオレッタが――」
 思わせぶりに間を置き、クリムゾンが低く声。「――いつまで保つと思うんだ?」
 ノワールの、眼に、驚愕――。
「おめでとう」拍手。クリムゾン。「これでキミも晴れて〝魂喰らい〟の仲間入りというわけだ」
 心の奥。魂の底。響く。激情。口を衝く。ノワールが、叫ぶ――。
「そうだ!」クリムゾンの声が悦びに歪む。「怒れ! 憎め! そして〝力〟を解き放て!!
「……僕は……!」一歩、ノワール。「……人間……だ……!!
「小賢しい振りは、」クリムゾンが囁くように、「さっさと捨ててしまうことだね――見苦しいよ」
 一歩。さらにノワールが一歩。地を踏みしめ、腕には力。憤怒を奥歯で噛み潰し、左眼には昏く――魔の光。

 地を蹴る。ノワール。踏み込む。解き放つ。
 クリムゾンへと間を潰し、左の袖からコンバット・ナイフ。
 衝く。ノワール。切っ先をクリムゾンの右腹――肝臓へ。
 対抗。クリムゾン。踏み込み、右腕を内から外へ。ノワールの前腕を、捉え、外へ、いなす――だが軽い。
 ノワール。踏み込む。なお一歩。下の下から――蹴り上げる。左膝。至近距離。
 咄嗟。クリムゾン。横へ逃げ――ようとして右腕を取られる。ノワールの左腕。絡む。迫る。右肩へ――膝頭。
 なおノワール。左腕、絡めたクリムゾンを放さない。至近、右肘、クリムゾンの額へと――、
 強圧――。
 吹き飛ぶ。ノワール。背中から。受け身も取れずに地へ転がり、今度こそ地で伏し――そこで止まる。

「調子に、乗るなよ……!」怒りを滲ませクリムゾン。「……人間ごときが!!
 ノワールの肩が、脈打つように小さく動く。
「〝契約〟者とは言え、」クリムゾンが眼を細め、「〝純血種〟の私に勝てるとでも思ったか?」
 再び、ノワールの肩が動く。
「まぁ、そのまま寝ているがいいさ」一歩、クリムゾンが前へ出る。「そろそろ〝喰い〟時だからな。せいぜい……」
 またノワールの肩――とともに声が洩れる。押し殺し切れない――笑いの声。
「何だ?」クリムゾンの頬に不快の色。「何がおかしい?」
 今度ははっきり、ノワールが嗤う。身体を震わせる。寝返り一つ、仰向けに、声を上げて――嘲笑う。
 クリムゾンが舌打ち一つ、「何がおかしいかと訊いているんだ!」
「『人間ごとき』?」嗤いの息を収めながら、ノワール。「言ったね、クリムゾン」
「それがどうした?」クリムゾンは怒りも顕わに、「私の〝力〟を少しばかり扱えるからといって、思い上がるな――ノワール」
「『思い上がるな』、か」さらにノワールは皮肉交じりに、「そういう科白もあるね」
「何が言いたい?」クリムゾンが鼻白む。
「『同族を見下さなきゃ保てもしない自尊心』――君の科白だ」ノワールは眼をクリムゾンへ。「なかなかどうして、『ココロの弱い』有り様じゃないか」
「誰が――」クリムゾンの声にはっきり不快。「――〝同族〟だって?」
「おいおい、」嘲笑、ノワール。「『小賢しい振りはさっさと捨てて』、さっきの言葉は――一体どこへ行ったのかな?」
「口の減らない男だ」クリムゾンが眉をひそめる。「都合のいい時だけ同族の振りをするな、面汚し」
「いい科白だ」ノワールが上体を起こしつつ、「本性が出てきたかな?」
 クリムゾンの眼に力。「――貴様!」

 右手。クリムゾン。圧を撃つ。
 よける。ノワール。肩から横へ――転がり足を地へ。
 追う。クリムゾン。狙いを右へ――圧を撃つ。
 伸びる。ノワール。斜め前。クリムゾンの圧を置き回り込む。低く、地を蹴る。なお進む。
 なお追う。クリムゾン。右手を巡らせ――、
 横跳び。ノワール。クリムゾンの側面へ。肩から地へと身を投げ一転――迫る。至近。脇を抜け――、
 背後――。
 ひねる。ノワール。振り返りざま右の肘――をクリムゾンの後背、腰椎へ。
 咄嗟、クリムゾン。跳ぶ。左。そこへ――、
 ノワール。回して左脚。横から蹴り上げ――捉える。クリムゾンの右の肩。ただ浅い。
 乱れる。わずかにクリムゾン。勢いに乗り損ね、倒れ込む身を支えに――右手。
 振り回す。ノワール。左脚。上から大きく弧を描き、踵の銀を落としてクリムゾン――その右肩へ。炸裂。骨が逝く。
 地へクリムゾン、振り返――ろうとして、砕けた右肩では支えにならない。そこへ――、
 腰を落としてノワール、右の足首――ホルスタからコンバット・ナイフ。踏ん張る。右足。溜めたバネを解き放つ。前へ。クリムゾンの右肩へ――、
 衝き立つ。刃。銀の輝き。皮膚を貫き、筋を断ち、砕けた骨を通してなお衝き進み――、
 抜けた。絶叫。クリムゾン。地が怯え、大気が哭く。
 さらにノワール。左手でクリムゾンの右手首を掴み取る。後ろ手。極める。ねじ上げる。砕けた骨が、貫かれた肉が悲鳴を上げ――、
 そこで、強圧――。
 強い。近い。弾かれる。ノワールに意地、両の手になお力。クリムゾンの肉が裂け、あるいは霧へと還り――、
 斬れた。身が浮く。弾かれる。クリムゾンの右腕を一本を土産に、ノワールの、身体が、宙へ――。
 受け身。ノワール。背から地へ、止まり――切れずになお一転。落ちる。受け身。まだ一転。なお受け身――そこで勢いが底をつく。
 クリムゾンが左腕一本、支えにノワールへ振り返り――、
 跳ね起きる。ノワール。腰を沈める間も惜しんで地を蹴――ろうとしたところで。
 肩越し。クリムゾン。眼が合った。
 違和感。ノワール。右肩、激痛、内圧――、
 弾けた――。

 金属音――ナイフが地へ落ちる。
 肉の音――右の肩が異常に軽い。
 血の熱――脇腹を濡らして何かが滴る。
 遅れて――激痛。
 脳天を衝き、肢体を貫き、意識を蝕み呑み込む熱。
 神経が悲鳴を上げ、本能が怯え、そして何より魂が怖じ気に震え立つ。
 ノワールの視界、力なく横たわる――己の右腕。


 12.

「調子に、乗るな……!」クリムゾンの声が地に響く。「ケダモノ、ごときが……!」
 その身から、左の掌がノワールを向いていた。その向こうから覗く眼には、いつになく昏い光が宿る。
「〝本性〟とはよく言った」クリムゾンが左の掌を、自らの右肩へとかざす。「では貴様がさらけ出した〝本性〟というのは、果たして人間のものと言えるのか?」
 歯噛み。ノワール。耐える。支える。己を保つ。
「解るか?」クリムゾンには嘲弄の響き。「悪魔の〝誘惑〟というのは、何も甘い言葉だけってわけじゃない」
 聞こえる。ノワール。むしろ聞く。遠のきかける意識を繋ぐ。
「こういう手もあるってわけさ」左腕一本、クリムゾンが上体を起こす。「心の弱さを見せ付けてやるっていう、やり方がね」
 ノワールが睨む――クリムゾン。「……まだ、だ……」
 クリムゾンは片腕に慣れぬ風で足を地へ。「まだ口が減らんか」
「……まだ……」ノワールは乱れる息の間から、「……互角……」
 立ち上がりかけたクリムゾンが、そこで眼をノワールへ。
「そうか……〝互角〟か!」クリムゾンがほくそ笑む。「よく言った! 私の〝力〟をここまで使っておきながら、その言葉か!!
「……〝力〟は……!」ノワールが肺腑から声を絞り出す。「……〝手段〟、だ……〝目的〟、じゃ、ない……!!
 クリムゾンの言葉が、そこで止んだ。引きつるような怒りが、その頬を染める。「どこまでも減らん口だな……! なら、」
 立ち上がったクリムゾンが、左手を右の肩へとかざす。「面白いものを見せてやる」
 クリムゾンの掌から、昏い光――と。
 右肩口、肉が芽を吹く。骨が育つ。傍目にも明らかに伸びて形を成しゆく。
「肉体の〝再生〟、」クリムゾンには傲慢の色。「〝純血種〟ならではの芸当というわけだ。〝互角〟はこれで消し飛んだな」
 ノワールが歯を軋らせる。拳に力――と、違和感。
 左手にはクリムゾンから奪った右腕――が、動く。どころか傷口の霧が拡がらない。のみならず右の拳に――感覚。
 急ぎ眼を、落ちた右腕へ――動かない。クリムゾンから奪った右腕は――動く。
「どうした?」クリムゾンから嘲弄。「少しは黙る気になったか?」
 クリムゾンの右腕は、すでに肘ほどまでに育ちつつある。
 即断。ノワール。奪った右腕を素早く肩へ。肉が、骨が、食い込む――。
 絶叫――。
 クリムゾンの眼に、驚愕と嫌悪。舌打ち一つ、「私の〝力〟を拾ったか……!」

 傷を抉る。痛覚を刺す。奪った右腕から悪意が満ちる。
 骨を軋ませ。神経を虐げ。血をも蝕み。
 満ちる。満ちる。満ちる――悪魔の意識、地獄の憎悪、魔性の誘い。
 落ちろ――虚無が呼ぶ。
 墜ちろ――闇が招く。
 堕ちろ――混沌が寄る。
 五感が溶ける。
 苦痛が溢れる。
 神経に侵食、精神に侵略、そして魂へ魔の手が――、
 届かない――。
 〝個〟の砦。〝魂の壁〟。そこにいるのは――、
 ノワールの、左眼から、涙――。
「……ヴィオレッタ……!!

 ノワールが、咆哮――。
 右手。掴む。コンバット・ナイフ。地を蹴る。前へ。クリムゾンへ。
 クリムゾンから左手――圧。
 跳ぶ。ノワール。右斜め。左肩口から地へつき一回転、勢いそのまま間を潰す。
 クリムゾンの眼に昏い光。左手一本で圧を張る――が、
 衝き込む。ノワール。コンバット・ナイフ。圧をも突き抜けクリムゾンへ――、
 受けた。クリムゾン。左の掌。そのままノワールの右拳を――、
 なお押す。ノワール。衝く。抜ける。クリムゾンの掌を霧へ還して――、
 退く。クリムゾン。右手でナイフを受け止め――、
 貫く。ノワール。さらに押す。クリムゾンの腕沿い――首筋。衝き立てる。
 黒い霧が――噴き出す。
 声にもならない。クリムゾンの圧が震える。勢いを受けて背から地へ――、
 のしかかる。ノワール。力と体重、ともにナイフへ――と。
 クリムゾンの首が半ばまで霧に還りかけ――たところで。
 クリムゾンから左手、再生しつつノワールの右手首へ。
 よける間はない。なお押す。ノワール。コンバット・ナイフに力――そこを。
 クリムゾンが掴む。蝕む。生気を乱す。
 戦慄。ノワール。〝力〟が抜ける。心が乱れる。
 咄嗟。ノワール。左手を左足首へ。そこに短剣。〝大悪魔の爪〟。収まる感触。手に刃。
 なおクリムゾン。右手を再生、ノワールの左手首へと――。
 よける。ノワール。しかし侵蝕。止まらない。
 視野へ、意識へ、ノイズが走る。思考がまとまりを失いかけ――、
 そこで、黒ローブの、言葉――『悪魔の魂を肉体に〝縫い止める〟』。
 閃く。ノワール。〝力〟を右腕に〝縫い止めた〟なら――、
 猶予はない。〝大悪魔の爪〟を己の右腕へ――衝き立てる。
 侵蝕が、止まった――かに見えて。
 違う。〝力〟が。掻き消えた。
 悪魔の〝力〟が。
 原初の昂ぶりが。
 身を焦がす痛みが、満ち溢れる憎悪が、そして魂に迫る魔の気配が――。

 焦燥。ノワール。刃の先、クリムゾンが、口角を――、

 優しく、上げていた――。

「――!」
 惑う。ノワール。その間に――。
 クリムゾンが、生気を――喪った。霧へ。散っていく――。
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