卵のかえる話(いつかの年賀状だったもの)

文字数 2,569文字

 卵とは全宇宙の表象であるという。みずから一個の統合を生ずる球なるもの、それが、一個の独自な肉体より生ずる、一、と全との連鎖。さらば卵殻をわりひらいて外界へ旅立つということは可能性への探究でなくてはならぬ、罷りまちがっても事物を恣意なる白日のもとにさらし、有り得べき現在をひとつひとつ費やしていくたぐいのものであってはならず云々、と長老鳥は大いに嘴をならしたが、若い燕雀はみな誰も半分も聴いてはいなかった。聴こえなかったというべきだ。かれらは長老が「カ」と言えばクワと取りちがえ、「ミズ」と言えば、後に続くはミズキかミズナラと身構え、「モ」と言えばモモかそれともまっ赤なモチノキか、いやモモはモモでもスモモかも、とうきうきはらはらしているのだからもうお説教どころではない。夕暮れに遠目が利かぬようになりかかれば、あちらもこちらも自分の手元ばかりに気が向いて互いにささめき合うのも仕方のないことである。それでも群衆のうちで、ことさらに体の大きなヤケイがひとりあるお喋りを聞きつけ、トサカをふるわせて頸を伸ばしヤヤッモチトイエバアと叫んだために、そのときばかりは誰もかも、長老鳥に至ってはヒャアッとひっくり返ってまでも、ヤケイにとくと目を注いだ。ヤケイはやはり鳥目ながらその気配のみに満足して、先を続けた、そう、モチといえば。
「きみたちのご先祖を捕らえるためにモチノキの樹皮を使ったというあのかれらだがね、こう空が冷えるようになってくると、かれらもやはりモチを喰うのだそうで、これがなかなかうまいとか」
「そりゃどんなものだね」
 長老が代表してヤケイに訊ねる。長老も案外わかいものだ。ヤケイは前傾の上体をこころもち垂直にし、肉厚の胸をどっしりと張って勿体つけて語った。
「きみたちの遺伝子にはつらい記憶を呼び覚ますことになろうな。ねばねばというのか、ねとねとというのか、いや、たくたく?」
「ナ行なのかタ行なのかはっきりしたまえ」
「どっちも苦手なんだよわれわれの同胞は」
「まあよかろう、それは生なのか」
「あんたね、かれらはトチノミだって生じゃ喰わないぜ、なんでも蒸したり焼いたり」
「踏んだり蹴ったりか」
「小突きたおすことが多いらしいね」
「なんだ、弱腰だ」
「しかし徹底しているそうだ。とことんに小突きまわすと例のねとねとたくたくしたものになる。で、連中はそれを延したり、丸めたりするのさ」
「うまいのか」
「うまいんだとよ」
 この言葉に鳥たちは色めき立った。
 麓の里には樵の団吉という男があって、これがいみじき孝行者だったそうだが、この日、山中での生業の帰りにただならぬ気配を感取して振り返ると、そこには木々が茂り空をふさいでいるだけであとはただ漠とした生の呼吸が充溢するばかりであった。詮方なし、背中を重苦しがりながら漸う里におりた団吉をひとりのばあさまが迎えた。ばあさまは団吉の母親と馴染みで息子ともよく付き合っているのだ。ご当人は村のオサのうちに娘時代から長く仕えているので、跡継ぎになるはずのワカなぞもあれこれとばあさまの指図を受けて育っており、末にはばあさまの孫か、ひょっとするとばあさま自身が嫁いでしまうのではないかと笑い話に口にする輩もあるほどだ。この婆を先頭にこの夕べ、村のくちで餅米を炊いて村の男衆で餅搗きをするのである。
「団吉、はやいじゃないか」
「暮れると凍えるようだからさ。急いだ」
「おっかさんが待っておる。こっちもだが」
「わかってる」
 それで団吉は傍目には大急ぎ、心うちにはゆるりと母待つ家の戸をひいた。この気性は彼の血に流れているもので、母もゆるり、亡き父もゆるりの人であった。団吉が嫁を取らでも、件のばあさまがいかに責ッ付いても何故にか母はどこ吹く風だ。己れには妻もなく子もなく、だから孝行者ということになったのだろうかと団吉自身は密かに考えていた。母は汁物の支度を済ませて囲炉裏の傍に気長にしている。
「はやかったねえ」
「そうかね」
「おタケさんがお待ちだよ」
「うん、表で会った。これから行ってくるよ。おっかさん寒かないね」
「ずいぶんあったかい」
 団吉はかんたんに笑って再びうちを出た。
 返し手は鍛冶屋の倅が務めた。ばあさまの差配で臼三つ分の餅をつきながら、団吉はいつからかまたあの気配を盆の窪あたりに覚えていた。先に山道で知った、あの気配である。つき上がった餅は娘らがともに丸けて、気の早い者がその場で食ってしまう、次の者が七輪を持ち出して三つばかりずつ焼いていく、で暢気の者たちがばあさまとともに御鏡にする、これが各戸に配り歩かれる。むろん、団吉の母にも渡った。それを団吉は帰って神棚にあげ、母もろとも長閑に年の瀬を過ごしたが、その間にもうなじに刺さる気配は消えなかった。母をいくらか注意して眺めてもみたが、母のほうは何にも気をつけていないようで平素変わらぬ横顔だ。例えば山の女神に若者が魅入られるという話を団吉も幼いころから聴き慣わしていたけれど、自分なりにそういう感覚もない。それとも、怪に遭っても当人には分からないものだろうか、首をひねりひねりしながらやがて松が明けた。まだ空の暗いうちから、母が鏡開きだと妙に張り切って団吉に木槌をとらせるので、団吉はしっかりと柄を把み、白く乾いたうつくしい回転楕円体に振り下ろす。
 衝撃に忤わずぱかりと立体がひらき、思わず団吉は息を呑んだ、ひらいた途端に首すじがじりと焼けついたようになって、団吉の耳にはザザアッという歓声が届いたのだ。悲鳴をあげそうになりながら、団吉は木槌を握った手をかたくしぼり、ばたばたと土間に下りて戸口を開け放った。風はなく、大気のなかに静かに雪が散っていた。つめたい(ひら)が団吉の鼻先を掠める。歓声はまだ鼓膜にわんわんと響いていて、寒気と残響のなかで団吉は身の内の臓腑が少しずつ落ち着きを取り戻すのを感じていた。
「雑煮は味噌でいいかいね」
 声量を張り上げるでも喉を枯らすでもない母の変わらぬゆるりの呼吸が団吉に、母はこれを聞いていないと知らせていた。燃えるようだった気配は一瞬のものであって、団吉の背は羽毛布団包みにしたかのように暖められていた。味噌、と母をくり返しにして今度は遥かに耳をすます。おそれはない。ひらいた卵から発して、遠く暁を鬨の声が貫いてゆく。
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