砂浜を歩く話

文字数 831文字

 満潮時刻を過ぎた砂浜はゆたかに水を含んで、乾いているときよりもいっそう固形物的に、そのくせ容易に掘り崩されてしまいながら、スニーカーのゴム底を受けとめる。ざく、ざく、ざく、ざくと次々にたいらな波の跡地を蹂躙しながら歩く靴痕の、二、三メートル脇を、波打際はとろとろと揺らいでいる。人の足取りはゆるぎない。南中には数時間早く、十分に昇りきってはいるけれどまだやわらかい陽光は、初夏とはいえ先鋭に人の肌や角膜を焼きつらぬきはしない。そのことを、率直にいえば残念な事象として私は発見する。他にもいくらかいる午前の散歩人たちのなかに、ほとんど何の規則性も見出しようがない散布図に置かれた点たちの一つとして、私も存在している。
 人のいない海なんてほとんどフィクションの産物だ。
 と、一度そう思ってしまうと不服のもやはなかなか晴れず、ゆるぎなかった足は運動をやめて立ち止まる。濡れたくろい砂に、靴底の文様を吸わせるのもいい加減に疲れた。そうしていると、靴と砂とがこすれて生まれる重たくにぶい音が、耳にではなく、皮膚というよりは骨や関節によって捉えられるのが、不思議とその感覚自体は快でも不快でもないのだけれど、私のからだと、海と、世界とが、こんなにも摩擦しているのだと思うと無性にいたたまれなくて、焦ったかかとがほんのステップふたつで海水のなかに躍り入ってしまった。どうしてだろう。スニーカーの布地からみるみる液体が浸入し、これはもちろん不快感と接続しているのに、後悔よりも先にもう金輪際ここから出るべきではないと宣誓らしい思いのほうが湧きあがって、足は自然と返す波を追っている。すると今度は寄せる波が素の足首を包み込み、そのうちに遠く、ぼおお、と音源の見えない汽笛が沖で長く響く。人を焼いてはくれない日光にあたためられた海がくるぶしから下を抱くのにまかせたまま、私はなぜか自失していた。それでも帰還しかけた意識が、これが私の望郷なのだ、とおだやかに、熱心につぶやいていた。
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